ブタヤマさんたらブタヤマさん
長 新太 さく
文研出版
ブタヤマさんが蝶を夢中で追いかけています。
後ろから何が来てもわかりません。
三つ目のおばけが出てきても
大きな鳥がお尻をつつきそうにそばに寄ってきても
バッタが這いよってきても
海からザブザブ魚が這い出してこようがイカが手をふろうが
ブタヤマさんはわかりません。
みんな
「ブタヤマさんたらブタヤマさん
うしろをみてよ ブタヤマさん」
ていっているのにまったく気が付かないのです。
そしてブタヤマさんが
「なあに どうしたの。なにか ごよう」と振り向いたときには
後ろにはもう誰もいないのです。
ブタヤマさんは後ろから何が来ても知らん顔。
チョウチョを追いかけることに夢中で何もわからないのです。
* 長新太さんの本。独特ですよね。
どうやって考えつくのかと考えたくなるほどの最高のナンセンス絵本の数々。
しかし、子どもたちには大人気の作品ばかりです。
この「ブタヤマさんたらブタヤマさん」も子どもたちには喜んで読まれている絵本です。
この絵本のスタイルはどことなく、やはり子どもたちに大人気の「ごろごろにゃーん」(福音館)に似ているような気がします。
「ごろごろにゃーん」では、猫たちが乗っているロケットのまわりをいろいろなものが通り過ぎていくのですが、そんなこととはまったく関係なく、猫たちはただ「ごろごろにゃーんごろごろにゃーんととんでいきます」を繰り返し、あとは読み手の想像やユーモアにまかせられるのです。
この「ブタヤマさん」も、蝶を採るのに夢中で背後で大変なことがおこっているのに、その気配にまったく気づかないブタヤマさん。
これだけのナンセンスなストーリーをしっかりと支えているのは、長新太さんの確かな絵でしょう。この絵と話の絶妙なバランスが読むものを楽しくさせ、想像を膨らませ、底に流れるユーモアを感じ取ることができるのだと思います。
河合隼雄さんが、京都大学を退官される時、その記念講義のなかでこの「ブタヤマさんたらブタヤマさん」の絵本を取り上げてお話をされました。
その時のテーマは「constellation(コンストレーション)」だったと思います。コンストレーションとは星座という意味ですが、河合氏は共時性という使い方をされていたように記憶しています。
すべてのことはすべてと関わり合い、そのバランスのなかでなりたっている。
科学や数値だけでは証明できない「気配」というような領域もその共時性の大切なバランスをつくりだしているものである。
だんだん記憶があやふやになってきましたが、ブタヤマさんが自分の獲得したいものだけを追いかけている間に、周りの気配とのコンタクト、共時性がとれなくなっているのではないかというふうに私はとらえたのです。
河合氏が取り上げた絵本ということで新鮮でもあり、またこのような1冊のナンセンス絵本からこんな難しい論理を引き出せる河合さんという方のすごさを感じ、その時からこの絵本が私には特別のものとなりました。
でも基本的に河合氏は長新太さんの絵本が大好きだったようです。
岩波書店「河合隼雄著作集4児童文学の世界」でも長新太さんの項があり、そこでこんなことをいっています。
「長新太は考えついたり思いついたりするのではなく、それは「自然にでてくる」のだと思われる。自然に出てくるものは人間の浅はかな知恵を常に上まわる。」
なるほど、自然にでてくるものだからこそ、子どもに自然にうけいれられるのかもしれませんね。