絵本一覧

きこえるきこえる

 

マーガレット・ワイズ・ブラウン作

レナード・ワイズガード 絵

よしがみ きょうた 訳

小峰書店

 

マーガレット・ワイズ・ブラウンという名前をきくと、皆さんは何の絵本を思い浮かべるでしょう。私はまず「ぼくにげちゃうよ」です。そして「おやすみなさいのほん」「おやすみなさいおつきさま」「うさぎのおうち」などが印象深い絵本として浮かびます。

M・W・ブラウンさんは1952年に若くして亡くなったのでそれ程たくさんの絵本が手に取れるわけではありませんが、その1冊1冊が今でも子どもたちの心の中にあたたかさや喜びや愛の確信といった豊かな心情を育ててくれています。

この「きこえる きこえる」は、1936年にレナード・ワイズガードとのコンビで絵本になりました。日本では1998年に出版されています。赤・青・黄色それに黒という色を使い余白とのバランスのなかでモダンにデザインされた絵本です。80年以上前に作られているのに、全く古臭さを感じさせない、むしろ新鮮な美しさを醸し出していることに敬意をもちます。そしてブラウンさんの、子どもの心にやさしく語りかけることばとぴったり寄り添って読者を感性の世界に旅だたせます。

 

ストーリーは子犬のマフィンが目にごみが入ってしまい、お医者さんに包帯をまいてもらうというところから展開していきます。まっくらの世界、でもマフィンは音がきこえます。時計の音、電話の音、工事や車のクラクションの音、ハチや鳥の音、何でも聞こえて来ます。そしてキュキュキュと小さい音、「何だろう。」 マフィンはいろいろ想像します。ねずみ?ライオン?違う 違う。何だろう。それはかわいいお人形。マフィンはお人形をもらいました。というお話です。

 

今、私たちの周りは種々雑多な音が溢れ、そのひとつひとつに耳をそばだてて聞き取るということがありません。ものや事の「音」に鈍感になっています。呼びかけられても自分のことだとすぐに判断できないくらい雑音の中で心騒がしく生活しています。

子どもたちと音のあてっこをしたことがあります。楽器の音はすぐ分かりました。でもハサミでちょきちょきする音やアルミ箔を丸める音、紙を破る音、キャベツを包丁で切る音、などはすぐには分かりません。いろいろ想像したりもう一度確かめたりしてだんだん絞っていきます。何だか分からないものも、「これでした!」といって見せると「わぁ!」とその意外性にびっくりします。

私たちの周りには、目に見えるもの以外の、音や匂いや触覚の世界があってそれぞれ大切な感性を膨らませてくれます。子どもたちにはそんな見えないけれど確実にあるもの、自分の感性で感じ取ることの大切さを知ってほしいと思います。

 

マーガレット・W・ブラウンさんは子どもの心の奥にあるもの、子どもの声にならない声を描いている作家だと思いますが、この絵本もそんなこどもの繊細な感性の世界の大切さを伝えてくれているような気がします。

しーっ!ひみつのさくせん

作 クリス ホートン

訳 木坂 涼

BL出版

 

鳥を捕獲しようと捜し歩くあやしい男三人、それに子ども一人。

きれいな鳥を見つけた男たち。

挨拶しようとする子どもを制して作戦を立て、鳥を囲んで一二の三!逃げて木の上に止まった鳥を3人で一二の三!どんなことをしても鳥は捕まえられません。

子どもが「ハロー!」と挨拶して餌をあげると、まぁ鳥たちが何羽も集まってきました。

男たちは今度こそと網を振り下ろそうとすると、鳥たちに追いかけられて「にげろー!」。

でもこの男たち、ちっとも懲りなくて次はリスを捕まえる作戦を立てるんですって。

 

アイルランドの作家クリス・ホートンの絵本です。

さすがにデザイナーのクリス・ホートンらしく、その色合い、造形、画面構成がとてもしゃれていて、美しい。

また、少ない言葉がなおさらその絵を際立たせながら、感性ですべてのことを語ってくれます。物語りの運びも子どもの感性にぴったり。

子どもが持ちやすいように15センチ四方の装丁、これは子どもの小さい手に持ちやすく、厚手の紙質(ボードブック)は丈夫で子どもがめくりやすく考えられています。

そして、裏表紙にはこんな言葉が書いてあります。

 

平和は力ずくでは保てない。

理解しあうことでのみ得られる。

アルバート・アインシュタイン

 

「あぁ、このことをクリス・ホートンさんは云いたかったんだね。」「確かにそうなんだよね。平和って力ずくでは創れないし、保てないんだよね」と深く納得します。

この美しい小さな絵本の中に、重い深いメッセージがあったのですね。

大人にも平和を分かりやすく伝えてくれている絵本です。

 

クリス・ホートンは1978年アイルランド、ダブリンに生まれ、デザイナーであり、イラストレーターであり絵本作家として活躍し世界各地を旅した人です。

2007年にはアメリカ・タイム誌によるデザイン100に選ばれ、絵本デビュー作「ちょっとだけまいご」は19の言語に翻訳されています。

2011年にはアイルランドを代表する児童書に贈られるビスト最優秀児童図書賞とエイリース・ディロン賞を受けました。

力のある若手作家ですね。これからの活躍に期待しています。

せかいいちのはなし

 

北 彰介 作

山口 晴温 絵

金の星社

 

むかし、津軽にあった はなし。

  せかいで、いちばん でっけえ はなし。

と津軽のことばで始まり語られていくこのお話。

 

八甲田山のてっぺんにいたおおわしが「世界でおらほどでっけえものはいねえべな。世界めぐりさでかけていってみんなさえばってやるべがな」と旅に出たのはよかったのですが、1日いっぱい飛び続けてもがさえびの右の髭から左の髭へやっと届いたことを知り世界一の名前をがさえびに譲ることに。

そのがさえびがうれしがって「えばってやるべ」と旅に出たところ、一日いっぱい水をかいて泳いでもおおうみがめの右の鼻から左の鼻へやっと届いたものだからびっくり。

その上、そのうみがめがのっかっているのはまだ子どもの小さなくじらの背中の上だと知って、がさえびは「世界ってひろいもんだなぁ。えばっていたのが恥ずかしい」と小さくなって帰っていったというお話です。

 

津軽の訛りの語りの文、そして素朴で雄大な版画の絵がお互いに引き立て合って雰囲気を盛り上げ楽しい、そして壮大な昔話の世界を創り出しています。

昔話ですから、自分の身の丈を知るということが賢い大人になることなんだぞという教えでもあるのでしょうし、井の中のかわずは恥をかくぞという教訓でもあるようなお話です。

このお話はきっと何代にもわたって、それぞれの家でおじいちゃんやおばあちゃんが、いろりやこたつで子どもたちにおもしろおかしく語り継いできたお話なのではないかと思います。

子どもたちは、津軽のことばでゆったりと語られる物語を聴きながら大わしが空を自由に飛び、がさえびがしぶきを立てながら海を泳ぎ、うみがめが鯨の上にちょこんと乗っている様を想像し目を輝かせて聞きいっていたのではないでしょうか。

 

30年ほど前、私は遠野の語りべ鈴木サツさんの昔話の語りを聴いたことがあります。

最初は何を語っておられるのか全く分かりませんでしたが、そのうちその語調の中にある豊かな表情の中に、ことがらを伝えるだけではない、その話の風景や情景、悲しさやおかしさなどの奥行きの深さを感じとることができるようになりました。

語りというのはその土地のすべてを包括している文化だと思いました。

願わくは津軽弁でぜひこのお話をきいてみたいものですね。

見えないものが見え、聞こえないものが聞こえたくさんのものが感じられるような気がいたします。

絵本を読む時は、ゆっくり語って聴かせるようなつもりで丁寧に津軽弁で書かれている文を読むと、少しでもこの話の雰囲気とおもしろさが伝わるように思います。

お正月、子どもたちをひざの中に入れてゆったりと読んであげたい絵本です。

ぐりとぐらのおきゃくさま

なかがわりえこ と やまわきゆりこ

福音館書店

 

この絵本は、このホームページを始めた2000年12月に「1冊の絵本」第1号として紹介した絵本です。その頃パソコンの操作に四苦八苦だった私は、思いの丈を語りきることができず本当に簡単な紹介しかできませんでした。何ともお恥ずかしい限りです。

クリスマスの絵本というと古今東西、今昔、たくさんの名作がありますが、子どもに読んであげる絵本として私はこの「ぐりとぐらのおきゃくさま」を挙げます。

この絵本は1966年「こどものとも12月号」として出版配本されました。

それをさかのぼること3年、1963年「こどものとも12月号」で「ぐりとぐら」が配本され大人気となりました。のねずみのくりとぐらが森で大きな卵を見つけ、それをおいしいカステラにお料理して森中の動物たちみんなで食べるというお話。子どもの生活感を見事に捕らえ夢を膨らませてくれるこの絵本は子どもたちに喜びのなかで受け入れられぐりとぐらは子どもたちの親しい仲間になりました。

そのぐりとぐらが「おきゃくさま」では森の自分たちの家にやってきたサンタクロースのおじいさんから、手作りのクリスマスケーキをプレゼントしてもらい、その大きなケーキをともだちとおなかいっぱい食べ、歌ったり踊ったりしながらパーティをしました、というお話です。。シンプルなお話ではありますが、ぐりとぐらがサンタクロースのおじいさんに出会うまでの運びも、子どもの心を裏切らないサンタクロースのおじいさんのやさしいイメージも大好きなクリスマスケーキの大きさも、子どもの心情を知り尽くした話の展開です。

また赤と白と青を中心としたそれまでの画面から最後のパーティではさまざまな華やかな色にあふれ幸福感、安心感そして満腹感まで与えてくれます。

読み終わった時、子どもの心は楽しさで満ちあふれることでしょう。

のねずみの小さな世界が子どもたちの心や生活に大きな存在感をもって広がっていくこの絵本、クリスマスのあたたかさや喜びを感覚として育ててくれると思います。

姉妹であるの作者の素晴らしいコンビネーションが生んだこの作品、子どもの心を引き上げていってくれる品格のある絵本だと思います。

なんでもできる!?

五味太郎

偕成社

 

2017年6月出版の五味太郎さんの新しい絵本です。

今回の登場人物は男の子(?)と馬です。男の子が馬の頭に乗りたいというと馬は何とかやってみようと頭に乗せます。そして「もっと高くなれるかな」「走れるかな」「わにのように這えるかな」「泳げるかな」「飛べるかな」という次々に出てくる男の子の無理難題に馬は「無理無理」といいつつ「やってみるか」とやってみると「やればできる!」。最後には「人に馬が乗る」という超難題に挑戦。男の子の上に馬が乗って「やるきになればなんでもできる!」というお話の展開です。

さすがに五味太郎さん。読者が期待していることをちゃんと熟知していて、今回も子どもたちが目を輝かせて引き込まれる五味太郎ワールドを創り上げてくれました。

五味さんの奇想天外の発想とそれを納得させてしまう絵と文の力はすごいなと思います。

また、最後にどんでん返しがおきるのも痛快です。子どもは予想もしない話の展開にどんどん引き付けられて「あぁおもしろった」で終わりますが、その後、誰に読んでもらわなくても、自分で字が読めなくても、本棚から選び取っては何回でもページをめくって自分でその世界を反芻しながら楽しんでいます。絵本のおもしろさと子どもの世界をにくいほどわかっている作家さんだと思います。

五味さんは「母の友」767号(福音館)の対談のなかで「『起承転結がある物語があってそこに挿絵がついて』という従来の絵本の構造ではない、何か新しい構造を作れないかなっていつも考えているんだ」「絵本て、言葉と絵だけで一つの世界を作るわけじゃない?ちっちゃな世界ではあるにせよ、お、この世界はここで今まったくあたらしく生まれた世界だぞってのが好きだね。これは発明だっていう本を作りたいわけ」と語っておられますが、五味さんの絵本にはどれもこの精神が感じられます。ひきつけられる美しい色彩の絵もさることながら、この新しい発明のような世界に子どもは夢中になるのではないかと思います。

冒頭で「男の子」のあとに(?)をつけたのは、この男の子が本当は五味さんそのものではないかと思ったからです。子どもの心や興味、好奇心をいつまでも失わない人でなければこんな絵本は描けないはず。この絵本のなかで五味さんは自分自身がああでもないこうでもないと空想を広げて楽しんで遊んでいるような気がするのです。

ママ、ママ、おなかがいたいよ

レミイ・シャーリップ/バートン・サプリー作
レミイ・シャーリップ 絵
つぼい いくみ 訳
福音館書店

 

青いマーブリングの模様に浮かんだ細かい切り絵のような白い馬車が猛スピードで駆けている表紙を見るなり「何だろう」と思います。

よく見ると馬車にはおかあさんとおなかが風船のように大きく膨らんだ子どもが乗っています。

子どもの顔だけが緑色、ただ事ではありません。

めくっていくと、やっぱりただ事ではない物語が展開していきます。

「ママ、ママ、おなかがいたいよ。」そこで大急ぎお医者さんがやってきて「これは大変、入院だ」。

そして大きなおなかを調べてみると、次から次へと出てくるわ。

りんごにボール、ケーキまるごと、やまもりスパゲッティ、つながったソーセージ。お皿までも。それに魚にポットのままのお茶、カップもクッキーも、まだまだつながって出て来ます。最後に自転車もですって。

あぁやっとすっきりした。というお話です。 

 

影絵のようなモノトーンの画面に子どものおなかから出て来たものだけが色をつけて描かれている個性的な絵、余分なものは何もないのにすべてを読み解くことができます。大人も子どもも画面にぐいぐいとひきつけられます。

そして、おなかからとんでもないものが次々出てくるという一種グロテスクな話がその絵のモダンさによって現実離れしたしゃれた感覚で楽しむことができます。

見るたび読むたびに細かい描写から新しい発見があるのも魅力のひとつ。子どもは、じっと絵を見ながら、それらの発見を楽しみます。見えないものが次々と姿を見せる手品のような世界が大好きな子どもたちにとってこの絵本の世界は魅力に満ちています。

この絵本は日本で福音館から発行されてから36年。今でも幼稚園では相変わらずの人気絵本として世代を超えて好んで読み継がれています。

最初にニューヨークで発行されたのが1966年といいますから、もう50年も前に創られた絵本ですが、少しも古い感じはありません。

作家たちの子どもの心に寄り添う思いと芸術的センスがぎっしり詰まった絵本だからこそと思います。

名作とはこういう作品をいうのでしょう。

ちびくろ・さんぼ

ヘレン・バンナーマン 文
フランク・ドビアス  絵
光吉 夏弥  訳
瑞雲舎

 

なつかしい1冊の絵本。

あるところにかわいいくろいおとこの子がいました。なまえを ちびくろ・さんぼといいました。という書き出しで始まる不思議な世界の物語です。

おかあさんのまんぼに作ってもらった赤い上着と青いズボン、おとうさんのじゃんぼに買ってもらった緑の傘と紫のくつをはいてちびくろ・さんぼがジャングルに散歩にでかけるとトラに次々に出会い食べられそうになります。そのたびにさんぼは上着もズボンも傘もくつもトラにやって許してもらいます。トラたちは、それぞれもらったものを着ると自分が一番立派なトラだといい合って大喧嘩になり木の周りをぐるぐる回っているうちに、バターになってしまいました。そのバターでおいしいホットケーキを作ってまんぼもじゃんぼもさんぼもたくさん食べました。というお話。

何故かとても印象の強い本で、ホットケーキを見たり、トラときくとこの本を思い出すのです。そしてまんぼが27、じゃんぼが55、さんぼが169枚もホットケーキを食べたということを思うたびにとろけるような思いになるのです。

絵は色彩も美しくしかしことばを負かすことなく、とても印象に残る素敵な絵です。ことばと絵が互いに引き立てて物語りの個性的な雰囲気を創り出しています。

この絵本は一時期、ちび・くろということばが差別的ということで本屋さんから姿を消しました。私はそういうふうに捕らえればそうなのかもしれないけれど、というモヤモヤ感がありました。そんなことを超えてこのお話は素敵だと思ったのです。

そしてしばらくして瑞雲舎から再発行されたときは、何かほっとしました。大切ななくしものが戻ってきたような感覚を覚えたのです。

今、子どもたちにこの絵本を読んであげられる喜びを心から感じています。

ひとりになったライオン

夏目 儀一 文・絵
福音館書店

 

ライオンは百獣の王といわれ、サバンナに君臨する動物のなかで無敵を誇る動物だと子どもの頃からずっと思っていました。しかしいろいろな本やドキュメンタリー放送などでその生態が詳しく紹介されるようになって、ライオンの知られざる新しい面が分かってくると、ライオンも大変なんだな、と思うようになりました。

特にオスライオンの立場や働き、地位確保の闘争、放浪ライオンの存在など、厳しい自然のなかでの生きるか死ぬかの生きざまを知ると、ライオンが決して百獣の王としてあぐらをかいて安穏と生きているのではないということに思い至るのです。

「若い ライオンが かぞくを はなれて、ひとりで くらすことになった。」で始まるこの絵本はそんな若い放浪ライオンのお話です。

若いライオンは何もわかりません。何も出来ません。いつもおなかをすかしています。

ようやく見つけたシマウマのこどもに襲いかかろうとしても、逆に大人のシマウマたちに蹴られ、かみつかれ満身創痍で退散です。

これは「弱いライオン」のお話なのです。

 

子どもたちは、ライオンが大好き。動物の名前を言い合う時、一番初めに「ライオン!」が出てきます。子どもたちは「ライオンは強い!」「誰にも負けない!」といいます。

ですから獲物としてねらいを定めた子どものシマウマが逃げる途中で石ころにつまづいてころんだ時、子どもたちの目線は「あぁ、シマウマが危ない!食べられちゃう!もうだめだ!かわいそう」と弱いシマウマに向けられて同情的です。

しかし次の瞬間、シマウマのお母さんに顔を蹴られ、お父さんには鼻をかみつかれ情けない顔で逃げていくライオンを見て、今度は弱いライオンに同情を転換します。

とぼとぼとサバンナを歩いていくおなかをすかせたひとりぽっちのライオンを子どもたちは複雑な表情で見ています。

でも最後に作者は「こうして、わかいライオンはしっぱいしながらもつよくなっていく。やがて おとうさんのように むれを つくって かぞくを もつのだ」といっています。子どもたちはここで未来に続くはるかな時間を希望と共に感じるのだと思います。

描かれた美しい風景や色彩、リアルな動きの描写やライオンの表情の豊かさは子どもの想像や共感を膨らませ、自然の驚異の世界にますます魅せられることでしょう。

にんじんのたね

ルース・クラウスさく/クロケット・ジョンソンえ
おしお たかし訳
こぐま社

 

“男の子がニンジンの種を土にまきました。おかあさんも、おとうさんも、おにいさんも「芽なんかでっこないよ」といいました。でも男の子は草を採り水をかけました。

なかなか芽は出てきませんでした。でも男の子は毎日草を採り水をかけてやりました。

するとある日、男の子が思っていたとおりに、芽が出て大きなニンジンができたのです”というお話です。

 

1945年にルースさんとクロケットさん夫妻によって作られました。

ルースさんは「はなをくんくん」などを書いた作家さん、クロケットさんは「はろるどシリーズ」の画家さんです。

ルースさんの、こどもの心を見事にとらえた、そして人が何を見て生きるかをシンプルな文章の中に的確に表現している文と、余分なものを排除し想像の世界を広げていくような絵がぴったりマッチして素敵な絵本になっています。

この本を日本語に訳した小塩 節さんは次のようにいっています。

黒っぽくて小さい、見栄えもしない、一粒のにんじんの種を、一人の男の子が土にまきました。たった一粒。でも、この一粒の種にも、神様がそなえてくださった命が宿されています。神様でなくて、だれにそんなことができましょう。

暖かい土の中で、たっぷり水分をいただき、種は芽を出し、芽は日を受けて伸び、ついにりっぱなにんじんとなりました。私たち人間ひとりひとりのお母さんのお腹に宿った 時からの一生の旅となんと似ていることでしょう。この小さなお話は、にんじんの命の強さと、名もない男の子が確信と愛をもってにんじんを助けたことと、このふたつのことが語られる感動的な二重奏にほかなりません。

 

幼稚園でも子どもたちが季節になると自分たちで作物の栽培を始めます。

赤かぶやトマト、とうもろこしや枝豆など、種をまいてから長い時間、水をやり草を採り、その生長を見守り、収穫を待ちます。

種をまいてもなかなか芽がでてこなかったり、虫がついて葉っぱがレースのようになったり、実がつかなかったりというような予想外のことにあいながら、ひたすらにその生長を願って世話をします。

それだけに収穫できた時、それを分かち合っていただく時の喜びはとても大きいものがあります。

しかしそれだけでなく、子どもたちは作物を育てるなかで大いなる自然の恵みや、過去・現在・そして予想する未来という摂理を学んでいきます。

そして目に見えないものに希望と確信をもち自分の願いや行為が成就していく様を具体的に体得していくのです。

そのことはとても大きい恵みなのです。

パパとドライブ

 

山口 稔子 文
まるやま あやこ 絵
福音館書店

 

☆2017年福音館こどものとも6月号の絵本です。配本されたばかりの絵本です。

ものがたりは、酒屋さんちのみかちゃんが、パパと一緒に軽トラックに乗っていろいろなお家に配達をしていくお話です。みかちゃんは、パパと車に乗っておでかけするこのドライブが大好きです。重い醤油やお酒も運ぶのも手伝います。初めてのお家もあれば、いつものお得意さんもいて、お駄賃をもらったりいろいろな人たちと関わりながらの配達です。そして、最後の配達先の小さなレストランでみかちゃんはいつものようにプリンを食べるのです。

 

このドライブしながらのパパとみかちゃんとのやりとりが何ともいえずあたたかく、パパとみかちゃんの大好きな関係が溢れています。

作者の山口稔子さんは、子どもの頃、自営だったお父様に仕事の得意先周りに車でいろいろなところに連れてもらったそうです。お父様と二人だけのお出掛けは「パパを独り占め」できる特別な時間」で大好きだったと言っています。

今、みかちゃんのように、おとうさんの働いている姿を日常的に見たり、一緒に関わったりすることのできる子どもはなかなかいません。

みかちゃんのおとうさんだって普段は忙しくてみかちゃんと遊ぶ暇もなく働いておられるのでしょう。でも配達には一緒におでかけができ、みかちゃんはおとうさんを独り占めできるとてもうれしい時なのです。

そしてそんな中でみかちゃんは他の人との大切な関わり方や、社会のありようを体で学んでいきます。

「おとうさん」は子どもにとって社会への扉として大切な働きをする存在だと思いますが、みかちゃんは本当に大好きなパパから広い社会への入り口を一緒に手を繋いでもらいながらくぐり抜け逞しく歩いていく力を育てられているように思います。

みかちゃんが、どこにでもいる、隣にでもいる女の子のようなイメージに、またどのページも臨場感ある場面や表現で描いている まるやま あやこさんの絵もこのお話にぴったりだと思います。

くれよんのくろくん

なかや みわ さく・え
童心社

 

☆くれよんの箱の中、新品のくれよんたちがひきおこす物語。赤、黄、茶、ピンク、青、緑などのくれよんたちはみんなで初めての絵を描きあげて大満足。でも黒だけは出番がありません。そのうちくれよんたちは描くのに夢中になって、せっかくの絵がむちゃくちゃに。その時、シャ-プペンのおにいさんにいわれるまま、くろくんはその上に頭をすべらして真っ黒にしてしまいました。でもその上をシャ-プペンが体をすべらせ、黒をけずっていくと、あっと言う間に大きな花火がいくつも夜空に浮かんだのです。

 

このくれよんのくろくんはシリーズで他に「くれよんとふしぎなともだち」「くろくんとなぞのおばけ」があります。どれも子どもたちが大好きなお話ですが、なかでも「くれよんのくろくん」は子どもたちに大人気で、いつも誰かどうかが小脇にかかえていたり、貸本の時にはどっちが借りていくかで争い事になったり、本を新しくしても消耗度が高くてすぐにフガフガになったりします。

またその人気の中で、同じように絵本を製作をしてみたり、劇ごっこに発展したクラスもありました。教師たちもその物語りのもつメッセージ性に共感して好んで読んでいるようです。

保育者がが深読みすれば、一人一人違った個性を生かしながら、子どもたちが互いに大切な存在として受け入れ合っていく物語りとして保育の示唆にも受け取れますし、さまざまな視点観点から保育に結び付けていくことができそうなストーリーです。

でも子どもにこれだけ人気があるということはそんな「みんなが仲良くなれたハッピーエンドのいいお話」ということだけではなさそうです。

クレヨンという子どもの身近な登場人物たちが、自分たちと同じ世界で仲良く力を出し合ったり喧嘩をしたり、仲間外れになって悲しかったり、解決がつかないような事態になって困ったり、それがびっくりするような解決になってみんなで喜んだりりというような、ごくごく身近な子どもの生活の中の出来事が等身大に描かれていることに親近感と安定感をもちその中でどんどん想像の世界がひろがっていくのではないかと私は思います。

特に、みんなの思いがぶつかり合って収集がつかなくなっている混沌状態を意表をつくやり方で、子どもたちの心をパァっと開放させ、新しい世界への誘いをしてくれる画面いっぱいに開いた花火の出現は圧巻です。どの子も目パチクリして顔が輝きます。

そんな子どもの世界を彷彿とさせるくれよんくんたちの物語、子どもは自分を投影して楽しんでいるのではないでしょうか。

 

4月、入園したての子どもたちが初めてクレヨンの箱をあけた時、そこに並んでいる新品のクレヨンたちの色の美しさに顔が輝きました。これからなんでも描けてしまいそうな、なんでもできそうな未知の世界が広がります。自分の大好きな色もあります。今日着ているシャツと同じ色もあります。これを紙の上で動かしたらどんな色になるんだろう、何が描けるんだろう。ワクワクしてきます。

子どもたちには形の作り方や色の塗りわけ方、などを教えるよりも、まず色の美しさを知って欲しいですね。この世にこんな美しい色が溢れていることを喜んでほしいです。

そしてみんなそれぞれの色にはその色のもつ個性があるということ、その個性が互いに生かし合って美や調整が生まれるということを感覚で知っていってほしいと思います。

新品のクレヨンを前にした子どもたちにまずはいろいろな色のもつ世界を楽しみ、自分の思いを自由に闊達に表現できるよう子どもたちにことばをかけていきたいと思います。

ビップとちょうちょう

依田 準一 作
堀 文子 画
福音館書店

 

☆3月のこの欄では、デック・ブルーナーさんの「うさこちゃん」の絵本を紹介しました。そしてその「うさこちゃん」を日本で出版させた福音館書店の松居 直さんの編集者としての直感や信念について敬意をこめて書きました。今月も「ビップとちょうちょう」という松居さんに関わる絵本を紹介したいと思います。

この絵本は「こどものとも」の創刊号という特別の意味があります。

福音館書店の「こどものとも」は1956年から毎月月刊誌として出版されています。今年の4月で733号になりますので61年という随分長い間、子どもたちに毎月絵本を送り続けていることになります。

その第一号がこの「ビップとちょうちょう」なのです。4月号として配本されました。

「こどものとも」の発刊のいきさつについては別の機会にさせていただくとして、編集を手掛けた松居さんは「こどもの思いや気持ちにあう、本格的な楽しい創作の物語り絵本」を目指し「文学性が高く、絵は美しく、すばらしいという美的体験をしてそれを通じて芸術を感じ取る豊かな目と感性を養ってほしい」という願いのなかで、この第一号が発行されました。

この「ビップとちょうちょう」はその松居さんの思いが結実した作品となりました。

ストーリーはビップぼうやがちょうちょうを夢中で捕獲するなかで、そのちいさい命と向かい合うという物語です。依田準一さんの物語と文は、今にしては少々難しいところまで立ち入っている児童文学的な深みがあります。ただ子どもが喜ぶというだけのものではなく、心の深いところまで描写されています。そしてとても詩的なリズムと世界を感じます。そして絵は、堀文子さんです。現在も90歳を越えて尚意欲的に創作活動をしておられる日本画壇でも著名な画家さんです。堀さんが30代の時にこの絵本を描きました。

表紙は黒を背景に使っています。とても子ども用とは思えない意表をつかれる絵です。

幻想的な詩情あふれる世界を美しい色彩、そしてリアルな動きと表情でより豊かな世界へと誘ってくれる表現です。時は春、舞い踊るちょうちょの動き、咲く花の彩り、川の水さえ歌っているよう。画面一杯に春が広がっています。

堀さんはその後も「こどものとも」に何冊か描いておられますが、芸術性の高い、決して子どもだましではない絵を描いています。

松居さんが理想とした絵本がこのような形で結実したということは編集のご苦労もしのばれますが、その後の「こどものとも」の原型ともいえるとても意味深いものだと思います。私も、この「ビップとちょうちょう」は特別の絵本として心に刻まれています。

60年以上の時を経て、その時代時代の子どもたちに美しい豊かな感性や芸術性を与えてきた月刊絵本の数々ですが、その歴史の中にはたくさんの編集者や芸術家たちの生き方や思いも共に込められていることを思い感慨を覚えます。

不思議にも毎年4月、「春」になるとこの「ビップとちょうちょう」の絵本が浮かんできます。

ちいさなうさこちゃん

ディック・ブルーナ ぶん/え
いしい ももこ やく
福音館書店

 

☆「うさこちゃん」が日本にきてから53年。2つの丸の下に×を描いただけのシンプルなうさぎのデザインは日本中の子どもたちが親しみ、ほとんどの子どもたちが知っています。そして「うさこちゃん」の素朴なお話は何冊ものシリーズとなり、乳幼児期の子どもにはなくなてはならない身近な存在となっています。

その「うさこちゃん」を世に送り出してくれていたディック・ブルーナーさんが、2017年2月16日に亡くなりました。

ブルーナーさんは、オランダのユトレヒトにアトリエを持ち生涯をオランダで送りました。私たちにオランダの感覚を伝えてくれたのもこの「うさこちゃん」です。

色彩感覚、直線のシンプルな造形、やさしさのこもったお話など独特の感性があふれた作品の数々はオランダを愛したブルーナーさんならではのものだと思います。

どんな場面も丁寧に手をかけ心をこめて描かれています。目に見えるもの、言葉で聞こえるものの奥に、子どもはブルーナーさんのまなざしや、慈愛を感じ取ることができます。

 

このオランダで生まれた「うさこちゃん」、初めて渡った外国が日本でした。

1963年、海外の絵本を視察するために訪れたアムステルダムの小さな図書館でまだ絵本作家としては無名だったブルーナーの絵本に出会い、一目見て、「これは小さな子どもが気に入る絵本だ」と直感したのは福音館書店の 松居 直さんでした。

松居さんは即刻日本での出版にとりかかり、日本の子どもたちに提供する準備をしました。子どもたちの手にすっぽり入る当時珍しかった小さい版もそのままにしました。

そして日本語への翻訳を、石井桃子さんに依頼しました。

石井さんはオランダ語は初めてでしたが、オランダ大使館夫人に母国語で何回も読んでもらい、その言葉の響きと感覚を受け留めて日本語の文章にしたということです。

ここでオランダ名の「ネインチェ」は日本名「うさこちゃん」になりました。

「うさこちゃん」の誕生です。

このことについては松居 直著「わたしの絵本論」「絵本の時代に-5 ディックブルーナー論」に詳しく書かれています。

「うさこちゃん」は今は「ミッフィー」という名前の方が知られているようですが、これは英語訳の名前です。

「うさこちゃん」は世界で50カ国で翻訳されていますがその一番最初の翻訳が日本語であったということは興味深いことです。

このブルーナーさんの「うさこちゃん」の小さい絵本が、たくさんの子どもたちの心のよりどころとなり、その育ちにとってたくさんの大きな贈り物を届けてくれたことを改めて感謝します。

ブルーナーさんはこれからも「うさこちゃん」を通して子どもたちの中に生き続けていてくださると思います。

同時に、この絵本を日本に持ち帰ってくださった松居 直さんの、編集者としての鋭い直感と「日本の子どもたちに本物の絵本を」という信念と努力に心から敬意を表します。

はるかぜ とぷう

小野 かおる さく/え
福音館書店

 

☆あまりの寒気に「もう限界」「いい加減にしてよ」といいたくなる日々。本だなを探ると、この「はるかぜ とぷう」の何ともいえない明るい色彩の表紙に心ひかれてついページをめくりました。何というやさしい絵本なのでしょう。

おとうさん、おかあさんと一緒に丘のホテルにやってきた春風の子「とぷう」が、街に出ていくと「やあ、春風だ」とみんなにこにこ。動物園の動物たちにも春風をふきかけるとみんな気持ちよさそうに居眠りを始めます。「とぷう」のいくところ、みんな気持ちよくごきげんになります。ところが先にきていた風の子たちとけんかが始まるとつむじ風がおきて大騒ぎ。「春風はやさしくしなければ」とおかあさんになだめられながら、「とぷう」はまた冬の風が残っている街へ移っていくのでした。

おだやかでやさしい話の展開です。

読んでいるうちに、私の中の春を待つ思いにぴったりと寄り添って、ゆったりと、おだやかに、そして春風が当たっているようないい気持ちになってきます。

これといったトピックスや衝撃的な出来事はありません。シンプルにひたすら春を待つ思いに寄り添います。

この冬の日、「とぷう」はいつ私たちの町にやってくるのでしょう。冷たい風が吹く日など、「とぷう」が冬の風とけんかをしているのかな、と思わず空を見上げます。

この絵本は1969年の3月「こどものとも」第156号として出版配本されました。

そして1998年にこどものともコレクションとして出版されロングセラーとなっています。創作から48年もたっているのに、少しも古びたり色あせたりしないで手元にあり続けています。

子どもの生活を急がせない、子どもの呼吸の速度にあったものがたりだと思います。

こぶたのピクルス

小風 さち 文
夏目 ちさ 絵
福音館書店

 

☆ 今月はお正月でもありますし、お子さんをひざに入れながらでもお家の方にじっくり読んでいただけるかなと思い、少し文章の多い幼児童話を選びました。(絵本と幼児童話の領域は微妙ですので私の見識の違いがあるかもしれません。)

この本は「おおきなポケット」という月刊誌に不定期に掲載された短編をまとめて出版されました。「ピクルスのわすれもの」「ピクルスと卵」「ピクルスの大ニュース」「ピクルスの海水パンツ」という構成です。

主人公は1年生のピクルスという“こぶた”で、おとうさんやおかあさんとのほのぼのとした生活の中で、“いのぶた”のおじいさんをはじめとするたくさんの人(?)との交わりや日常的なできごとを通して話が展開していきます。ピクルスはとてもやさしくて人との関わりも大好きな子なのですが、時には失敗もするし、困って泣いてしまったり、初めての体験にドギマギしたり、楽しみを待ちきれなかったりと、生きている等身大の子どもがそのまま描かれています。

子どもたちも、このお話が大好きで、このあと「ピクルスとふたごのいもうと」が発行されたと聞くと「先生、今度きっとピクルスの新しい本を読んでね」といわれました。

この「ふたごのいもうと」はお兄さんになったピクルスの奮闘振りが描かれています。

そのなかでもピクルスはおかあさんに甘えたくなったり、さびしくなったりしながらもじっくりと成長しています。

そこにはピクルスをめぐる周りの人たちのあたたかさ、特におとうさんおかあさんの愛にみちた関わりや、互いの信頼感あってこその確かな生活と成長なのですが、このおはなしの根底にもうひとつ、それを支える「ゆったりとした時の流れ」があるように感じます。生活の中のひとつひとつの出来事を大切に、そしてそれにゆっくりと関わっていく「時のありかた」がピクルスを豊かに大きくしていくのではないかという気がします。それは「ふたごのいもうと」の方に顕著に表現されているように思います。そのゆっくりとした時の流れがこの作品をほのぼのとしたあたたかいものにしているようにも思います。

そしてそれらのことは本来の子どもの成長の過程になくてはならないものであるように感じます。今の子どもたちは見るべきことも目に入ることなく、感じる余裕もなく、すべきことも省略されて急がされているように思います。時に流されずじっくりとゆっくりとひとつひとつを大切にしながら「今を育つ子ども」になってほしいと願います。

小風さちさんは、本当にお母さんのまなざしでピクルスを描いているように思われます。

きっとさちさんはピクルスのおかあさんのようなお母さんだったのでしょうね。そして子どもの心理を余すところなく分かっていて見事に表現しています。ことばもリズムもすっと入って来て、さちさん真骨頂の世界。

読んでいると生きているのが楽しくなるような、そして子どもって何て善良でかわいいんだろうと真から思える本です。ぜひゆったりと読んであげてください。

蛇足ではありますが、作者と画家の名前、おもしろいと思いませんか。

クリスマスの森

ケルイーズ・ファティオ 作
ロジャー・デュボアザン 絵
つちや きょうこ 訳
福音館書店

 

☆この絵本は1950年にアメリカで発表されました。この本は、絵本というよりは色彩も限られていた絵物語風の小型の絵本だったため、日本では前田三恵子さんが「絵本にしたらもっと楽しい作品になるのではないか」と、柿本幸造さんの絵を得て1969年に偕成社から「サンタおじさんのいねむり」というタイトルで出版されました。

それが2015年に原書本がそのまま甦り、「くりすますの森」として福音館書店から出版されました。

私は、今まで「サンタおじさんのいねむり」がとても好きな印象深い絵本としてクリスマスの時期には必ずといっていいほど子どもたちにもよく読んできました。子どもたちも大好きな絵本です。

今回、「クリスマスの森」を読んで、ストーリーや人物描写などはそのままではありますが、逆に色彩の少ない分、その美しい赤と緑と茶色がとても際立ちクリスマスの雰囲気をより豊かに伝えてくれているように思います。サンタさんも動物たちも愛にみちて描かれていて、特にサンタが眠っているブナの木のまわりに動物たちが集まってくるページは秀逸だと思います。物語りもゆったりとしていてことばに余白がありお話に奥行きをもたせています。洗練された日本語訳の文章も美しく流れていきます。大人にもぜひ勧めたい絵本だと思いました。そして、ますますこの絵本が大好きな特別の絵本になりました。

この絵本が何故好きかというと、まずサンタクロースが実に人間くさい、実際に隣に住んでいるおじいさんという親近感があります。世界中の子どもたちの夢を背負っているサンタクロースが、そのプレゼントを配るという特別な日に、奥さんが作ってくれたコーヒーとサンドイッチを持ってでかけるということだけでもおもしろい。意表をつく設定です。

1974年にレイモンド・ブリッグズの「さむがりやのサンタ」が福音館から出版されて、そこでも人間味あふれたサンタの登場がありました。そんな中で、それまでただ空想の中のサンタの存在が、とてもリアルで生活観のあるサンタ像に変身し定着していったという感があります。サンタは子どもだけでなく、大人にとっても無くてはならない存在ですが、いかにも聖人とか、超人とかというのではなく、すぐ身近にいる「あたたかい隣人」というイメージを創ってくれた、いわば新鮮なサンタ物語として印象深かったと思います。

また、サンタが満腹になって眠り込んでしまったのを見て、(子どもたちから「あぁだめ、眠っちゃだめ」という声がかかる場面です。)森に住む動物たちが、みんなで力を合わせて町の子どもたちにプレゼントを届けるという展開に「あぁ良かった」という安堵感と一緒に、何か貴いものを見たような、この世の善意とけなげさのようなものを感じ取ってジンときます。無償で奉仕する貴さと喜び、思いやり。これこそクリスマスの神髄の部分なのではないかと思うのです。

そして、最後に、眠りからさめたサンタの目に、動物たちのメッセージが。決して姿を見せたり、恩をきせたりしない慎ましい動物たちの品格。それはサンタクロースの存在そのものです。そして「ありがとう。来年は君たちにもプレゼントを持って来るよ」と応えるサンタ。サンタさんもこのクリスマスに動物たちから世界一素敵なプレゼントをもらったのだと思います。サンタは森の中にも町にもすぐ隣にもいる、そんなメッセージを感じます。

また、今から47年も前に、この本に共感し、大事なメッセージをそのままに「サンタおじさんのいねむり」として絵本にした前田さん、柿本さんも素晴らしい。おかげで幼い子どもたちに、たくさんの夢と喜びを与えてくれました。

ルイーズとロジャー夫妻はこの他にも「ごきげんなライオン」のシリーズなどを発表していますが、こんなに愛にみちた、そして楽しいものがたりの世界を創り出せることに敬意を表します。

まんまるおつきさまをおいかけて

ケビン・ヘンクス 作・絵
小池 昌代 訳
福音館書店

☆こねこは、初めて見たまんまるおつきさまが、ミルクの入ったお皿に見えました。あの中のミルクが飲みたい、とこねこは階段から跳び上がったり、追いかけたり木の上までかけのぼったりしますが、届きません。やがてこねこは池の中に映った大きなお皿を見つけて池の中にサブン。びしょ濡れでヘトヘト、おなかもグウグウになってお家に帰ると、階段の上にミルクの入った大きなお皿が置いてあります。こねこはようやくミルクにたどりつきました。というストーリーです。

白と黒だけで表現された絵、シンプルな背景がよりこねこと月を強調して読者を画面に引き込みます。絵の配置がとてもモダンです。こねこの表情も素晴らしい表現力で描かれています。読んでいると幻想的で不思議な世界に遊んでいるような思いになります。

シンプルと言えばことばも実にシンプル。余分なことばはありません。主人公のねこだって「こねこ」、名前もないのです。とてもユニークな絵本だと思います。

でもこのお話の中にはキーワードが繰り返されているように思います。

「こんなはずじゃなかったのに」ということば。お皿の中のミルクを飲みたいと一生懸命月に向かって挑戦するのにことごとく失敗。そのたびにでてくることばです。

「今夜は一体どうなっているの」という不思議不思議な世界を初めて知ったこねこが自分の想像を遥かに越えるその途方もなく大きい世界に「こんなはずじゃなかったのに」という思いを繰り返します。そして失敗してもそれであきらめずに何度も挑戦を繰り返します。子どもは初めての世界に出合うとき、今までの自分の生活や思考の領域を越えて新しい体験や不思議に出合い、「こんなはずじゃなかったのに」ということが多いのではないかと思います。そこから、だんだんに成長に従って事実や真理を知り受け入れていくのではないかと思います。「こんなはずじゃなかったのに」ということばはそんな段階の子どもの心理をうまく表現しているなと共感をもって響きました。

そしてこねこは、最後にいつもの自分のすぐそばにある今の自分の身の丈にあった世界に戻ります。そして「あぁ しあわせ」と今の幸せを実感するのです。

プーさんとであった日

リンジー・マティック ぶん
ソフィー・ブラックコール え
山口 文生やく
児童図書館・絵本の部屋

 

☆この絵本は2016年にコールデコット賞を受賞したイラストの美しい絵本です。

みなさんはアレン・アレクサンダー・ミルン(A・A・ミルン)が書いた「クマのプーさん」の物語はよく知っておられると思います。この本は今から90年前にイギリスで出版され、今でも世界中で愛されている本です。そのモデルのクマのプーの物語を百年の時を超え貴重な証人のことばを通して描かれたのがこの絵本です。

クマのプーは、生きている本物のメスのクマでした。カナダでハリー・コールボーンという獣医師に出会い、ウィニペグという名前をつけてもらって、第1次世界大戦の時の任地であるイギリスに連れて行かれます。ウィニーは軍隊の一員として連隊長にも認められマスコットの役目を果たします。しかしフランスの戦線に行かなければならなくなったハリーは危険を回避するためウィニーをロンドン動物園に預けます。そこでお父さんのミルンとやってきたクリストファー・ロビンと出会うのです。クリストファーはよく囲いの中に入りウィニーと一緒に遊びました。その様子からおとうさんのミルンが発想を得て一冊の本にしたのです。それが「クマのプー」です。

その後、ハリーはウィニーを連れ帰るために来ましたがロンドンの動物園で大切にされているウィニーを見て、そのまま一人で故郷にもどっていきました。

この本はハリーのひ孫のリンジーが、ひいおじいさんとクマの話を息子のコールに語ってきかせるという構成で描かれています。

クマのプーが女の子だったこと、カナダの出身だったこと、戦争の中で数奇な運命をたどったこと、獣医師のハリーのやさしさと深い愛の中でウィニーが賢くやさしく育ったこと、その物語が長い年月語り継がれてきたこと、など事実を知って「そうだったの」と驚きをもって読みました。そして、なによりびっくりして読み返してしまったのが、動物園で囲いを越えてクマと子どもが遊んだということ。「ハリーに深く愛されて育ったウィニーは動物園でも特別人なつこくおだやかだったため、当時は檻に入って一緒に遊ぶことができたそうです。」と注には書いてありますが、今とてもそんなこと考えられませんよね。

そのハリーの愛を物語っていることばがあります。ロンドン動物園にウィニーを預け、別れる時にいったハリーのことば。「おぼえていてほしい、だいじなことがある。ぼくたちが、はなればなれになっても、ずっときみを愛しているよ。きみは、いつまでも、ぼくのたいせつなクマだ」

他者から大切にされ、愛されるということはどんな境遇にあっても希望とやさしさを失うことなく自分を幸せに導いていく力を与えられることなのだと感動をもって受け止めました。

実在したクマのプーのものがたりを堪能しました。

魔法のことば

柚木沙弥朗 絵  金関寿夫 訳
福音館書店


☆現代の社会において「ことば」はどんな役目をしているでしょうか。私たちは「ことば」をどのような感覚で使っているでしょうか。
この絵本「魔法のことば」は、金関寿夫さんの著書「魔法としての言葉ーアメリカ・インディアンの口承詩」のなかで紹介されている、エスキモーの人々に伝わる一篇の詩に、柚木沙弥朗さんの絵が伴って不思議な、重厚な絵本、哲学書のような絵本になりました。
絵本をめくっていると、ことばの部分があまり多くないように感じましたが、ことばだけ書き出してみると以外にたくさんの文章になっていました。こんなふうになります。

ずっと、ずっと大昔 / 人と動物がともに この世にすんでいたとき / なりたいとおもえば 人が動物になれたし / 動物が人にもなれた / だから ときには 人だったり ときには動物だったり、/ たがいに区別はなかったのだ。 / そしてみんなが おなじことばをしゃべっていた。 / そのとき ことばは、みな魔法のことばで/ 人の頭はふしぎな力をもっていた。/ ぐうぜん 口をついてでたことばが ふしぎな結果をおこすことがあった。 / ことばはきゅうに 生命をもちだし/ 人がのぞんだことがほんとうにおこったー /したいことを ただ口にだしていえばよかった。/ なぜそんなことができたのか / だれも説明できなかった。/ 世界はただ、そういうふうになっていたのだ。

とても一言一言に重みがあってつい読み返してしまいます。でもむずかしくてわからない、という難解さではなく、子どもでもダイナミックな、そして個性的な絵にひきつけられ呪文のようなことばの世界を遊ぶことができる絵本だと思います。いえ、子どもだからこそよくわかる絵本なのだろうと思います。
さて、本当に「ことば」の始めはどうだったのだろう。私たちホモサピエンスが人としての種を保って生き残ってこられた要因のひとつに「ことば」を話すようになったことだときいたことがあります。ことばを用いてコミュニケーションが生まれ、共有することで文化を起こしそれを後世まで伝え、共に命の危機に立ち向かってくることができた。そのことがこの種を継続させることにつながったという説です。確かにそうかもしれません。
私たちが日常何げなく使っていることばはほんとうはすごいものなのかもしれません。
この詩はエスキモーの昔話、天地創造の物語りから構成されているのではないかと思いますが、そうすると人類というのは、天地の始めの物語について同じような発想や信仰をもつものかとも思います。旧約聖書の中では、最初人は神様とことばを交わすことができた存在として描かれています。そして動物たちや自然と共存する存在であったと。それがエデンの園を追い出され、ことばは人間だけのものとなり、更に神になりたくて高いバベルの塔を作ろうとした人間たちに神はことばを通じなくされて破壊されたとあります。新約聖書ヨハネ福音書の冒頭には「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。万物は言によってなった。」と記されています。どうやら世の始め、命の根源とことばは深い関係にあったのではないかと思います。
日本でも、文字が生まれる前、「ことば」は言霊(ことだま)と呼ばれ、この世とかの世を結ぶもの、すべてを支配するものとして特別のものだったようです。そして、少し後世になり文字が普及し始め、仮名という日本人独特の心情をこまやかに表現できるようになった頃のことば感覚が万葉集に歌われたさまざまな歌に残されています。「ことば」の重みは単なる「もの」や「こと」を超えて目に見えない世界を伝える力をもち、ことばで発することは現実におこる霊力をもつものとして信じられていたようです。志貴皇子「石ばしる 垂水のー」の歌や最後の家持の「新たしき 年の始めのー 」などは、自分の願望をことばにして歌うことによって「きっとそのようになる、なってほしい」という祈りや絶対信頼をことばに託していると言われています。ことばに魔法の力を感じられる人々の素朴なそしておごそかな時代でした。それからもずっと、芸術・文化・文学そして政治においてもことばが吟味され、人々の心を動かしてきました。そしてそによって平和を創り出したり、逆に争いの種になったり、人を癒したり、傷つけたり、ことばは魔法のように多様なかたちを生み出してきました。21世紀の今、とても便利な時代になり、「ことば」が普遍性をもつ文字に取って代わられ、さまざまな機器によって、ことやものを伝えるだけの記号化された存在になってはいないかと危惧を感じます。すべてがデジタル化するなかで人間が発するその人だけのことばの重みがなくなっているように思うのです。「ことば」が生き、立ち、人々の間をかけめぐる「意味のある存在」「魔法のように人々を幸せにする存在」として回帰することはできないのでしょうか。ことばを通して平和を実現する魔法の力をもてないでしょうか。「なぜそかんなことができたのか、だれも説明できなかった。世界はただそういうふうになっていたのだ。」という最後のしめくくり。すべての生命とことばが渾然一体になっていた世界のはじめ、それはなつかしい理屈抜きの魔法の世界だったのかもしれません。
およぐ

なかの ひろたか 作
福音館書店

 

☆この絵本は1978年に 月刊絵本かがくのともとして発行されました。今、かがくのとも傑作集としてハードブックで出版されています。ロングセラーですね。

水が顔にかかって泣き出す子、顔を水につけるなんて「いやだ!」と思う子、そんな子がどうやったら泳げるようになるんだろうということをとても理論的に、そして納得できるように描いた絵本です。いってみれば泳げるようになるテキストとでもいいましょうか。

かくいう私も水は苦手で、できれば泳ぐという事態は避けたい、水の災害には遇いたくないという人間です。顔を洗う時も水の扱い方がとても下手で周りを水浸しにしてしまい、そんなことからも水に対していつもコンプレックスを持っています。

そして私の息子も負けず劣らず水が苦手でした。

小学校に行ってから、プールで泳ぐ授業があり、成績表に泳げるかどうかが評価の判定になったり、プール参観があったりと泳げるかどうかということがかなり学校生活の中でもプレッシャーになってきました。でもどうしても顔を水につけたり呼吸を止めてもぐったりする事が出来ません。彼は彼なりに必死だったと思いますがそんな時、幼稚園時代に読んだこの「およぐ」を何回も何回も読んでいました。

なかのひろたかさんの「犬も猫も他の動物もみんな体が浮くから泳げるんだ。人間も吸い込んだ空気が浮袋の役割をして浮きやすくなる。プールに入ったら、初めはゆっくり歩く。走る。そして空気をいっぱい吸いこんで浮かんでみよう。」ということばと絵はとても科学的で説得力があります。そして顔に水がかかるのがこわい、という子は、「まずシャワーや水のかけっこをしよう。そして洗面器の水に顔を入れて息を吐く練習、目をあけてもぐる練習が終わったら、体を横にして浮かんで足をバタバタする。ほらおよげるぞ」とそこにいるコーチのように教えてくれています。しかし、何回も読んで納得しても、息子はいざとなると泳ぐところまでいきませんでした。

でも3年生の時、すごい奇跡がおこりました。

彼は「背泳ぎ」を覚えたのです。顔を水につけなくても、息を止めなくても泳げる「背泳ぎ」を。顔に水があまりかかりませんしね。

そして体が浮かぶこと、手足をバタバタすると前に進むことを体得しました。

その後、大人になってから彼はスキューバダイビングを楽しむようになりました。

何と人の一生は長い紆余曲折を経て形成されていくんだなと思います。

なかのコーチ、懇切丁寧なご指導 ありがとう。

ちいさなあかいにわとり

アイルランドの昔話
大塚 勇三 再話  日紫喜 洋子 絵
福音館書店

 

森の中の小さな家に小ネコと小ネズミと小さな赤いニワトリが住んでいました。ところがかまどに火をつけるのも、掃除をするのも、朝ごはんを作るのも全部ニワトリの仕事。

ネコもネズミも何もしません。そこにキツネがやってきて、ニワトリもネコもネズミもみんな捕まえると袋に入れてしまいました。その袋をかついで家に帰る途中、疲れたキツネは一眠り。そこで、この時こそはニワトリ、ネコ、ネズミはみんなで力を合わせ、袋をハサミで切ると外に飛び出し石を詰め込み糸で縫うと家に飛んで帰りました。そんなこととは知らないキツネは家に帰り、大変な目にあいましたって。どんな目か?そこがケッサク。ぜひ読んでみて。

☆アイルランドでは、19世紀末からのアイルランドの文化復興運動がおこって民話の収集が盛んに行われてきたとのこと。民話というものがその民族の歴史や風習や文化を支える力をもっているということを改めて感じると共に、民話が民族のルーツを誇りをもって伝承していくことができる貴重な財産であることを思わされます。そしてそれらが残されていることで私たちは今、アイルランドだけでなく、ヨーロッパやアフリカ、アジアなどの他の国々でも伝えられてきたたくさんの民話を絵本などで紹介されてその国独自の文化にふれることができます。

この絵本もとてもユーモアのあるおもしろい昔話で、ニンマリしながら読み進み、最後は抱腹絶倒です。ニワトリたちの表情や動きも実際に生きているかのように自由自在に描かれていて、まるで動いている動画のように感じられます。大人が読んでおもしろいお話。でも昔話って大人も子どもも区別なく楽しめるものですよね。いろいろな教訓や教えがあったとしてもそれはまたの機会として、今回楽しく読んでみてください。これは福音館の月刊こどものとも年中版7月号です。値段税込み420円、本屋さんで売っています。

かめくんのさんぽ

なかの ひろたか 作・絵
福音館書店


きょうはぽかぽかいい天気。「かめくん」は散歩にでかけました。

「わにくん」を誘うと「今はおひるね。さんぽはあと」ですって。

えっちらおっちら歩いていくと 「かばくん」に逢いました。

「かばくん」も「眠い ねむい」とおひるね。一緒にお散歩してくれません。

「ぞうくん」に逢いました。

「ぞうくん」も「もうちょっとおひるね。散歩はあと」ぐうぐうぐう。

それなら「ぞうくん」の上をお散歩しよう、えっちらおっちら、どっこいしょ。

おっとっとっと。うわー。ころころころっと落っこちた。

「ぞうくん」のお鼻で起こしてもらって「さあ みんなで散歩にいこう」

みんなごきげん。かめくんもぞうくんの背中でいい気持ち。

今度はかめくんがおひるねだよ。ぐうぐうぐう。

 

☆「ぞうくんのさんぽ」シリーズの新作は、「かめくんのさんぽ」になりました。

かめくんが主人公のおはなしです。

今まで、ぞうくん、かばくん、わにくん、かめくんがレギュラー出演してきたこのシリーズは、最初が「ぞうくんのさんぽ」、次が「ぞうくんのあめふりさんぽ」そして「ぞうくんのおおかぜさんぽ」となり、今回が「かめくんのさんぽ」です。

この出演者たちはいい天気の日も、雨降りの日も、大風の日も、いつもご機嫌な仲間たち。みんなで散歩にでかけるのですが、仲間たちが、大きい順に縦になったり、はたまた逆になったり、横に並んだりとシリーズの話ごとに変化しておもしろいデザイン画を見ているようで楽しかったのですが、今回はかめくんがみんなの上を動いて細い線を描いてつないでいきます。そして仲間とちょっとずれてお昼寝を始めます。

この絵本のシリーズは、レギュラー出演している動物たちが完璧な形で画面いっぱいに描かれて、だれもが主役にみえます。その大型動物の中でかめくんだけはいつもちょこんとしていたのですが今回はそのかめくんが主役になりました。

このシリーズのお話は、だれも自己主張しすぎることもなくみんなで受け入れ合うやさしさで溢れています。ぽかぽかいい天気の中でのんびりお散歩をしているようなゆったりとした幸せ感に充ちています。

そんなところが子どもたちにも大人にも幅広い支持を受けているのではないかと思います。

もじもじこぶくん

小野寺 悦子ぶん・きくち ちき絵
福音館書店

 

恥ずかしがり屋のこぶたの「こぶくん」。

アイスクリームを買いにいきますが、お店の前で声が出なくなって下を向いてもじもじもじもじ。

後から来たお客さんたちが次から次にアイスクリームを買って行ってしまいます。

それでもこぶくんはもじもじ。うなだれて鼻の先が地面に届きそう。

その時、どこからか小さな声が聞こえてきました。

「アイスクリームください!」アリのありいちゃんが声を張り上げていました。

ありいちゃんは「さっきからずっと注文しているのに、誰も気がついてくれないの」と涙を流しました。それをきいたこぶくんは、ありいちゃんを肩に乗せると自分でもびっくりするくらい大きな声で「いちごあじとチョコレートあじをくださーい!」と言えたのです。そしてこぶくんのチョコあじもありいちゃんのいちごあじもとってもおいしくて、もうもじもじなんかしていられないこぶくんでした。

 

☆こどものとも2016年4月号です。

小野寺悦子さんの文ときくちちきさんの絵がぴったり息が合っていて、表紙を見たとたんに「あ、おもしろそう。」と思いました。

恥ずかしがり屋でいつももじもじしているこぶたのこぶくん。その表情が本当にそのままに描かれています。周りにいる子どもたちの中にもこんな表情と仕草をする子どもがいます。いざとなるとなかなか声が出ないでもじもじして人の後にかくれてしまうような子。

見ている方はいじいじしたり「がんばれ!」と声をかけたくなったりします。

年長組になったWちゃんもそんな一人でした。それが4月、新しく小さい人たちが入園して来てごっちゃごっちゃの生活の中のある日、そのWちゃんが教師のところに駆けてきて「先生!たいへん!ちっちゃい子が木にのぼっているよ!降りられなくて泣いてるよ!」と叫びました。わぁお、大変!とばかりWちゃんの後に続いて現場に直行。泣いている子を抱きとめました。幸い、木とはいっても切り株でその上に上った子が下りられなくなったということでしたが、次の瞬間、そこでほっとしたような表情で立っているWちゃんを見て、Wちゃんが?こんな大きな声で?こんなに機敏に?とびっくりしました。

ある事態がおこった時、それを敏感に気づき(この気づくということがとても大切)、そこで自分が期待されていることや、使命感のようなものを感じ取った時、人は自分でも想像できないくらいの行動力や勇気がでます。

この絵本のなかでも、ありいちゃんの声に気づき、その嘆きに共感し、何とかしてあげたいという思いをもったこぶくんが思いもかけないような勇気が出て突き動かされていったという姿が本当によく表現されていて、最初は小さく小さく描かれていたこぶくんが壁を乗り越えたとたんに画面いっぱいの姿になっていくという表現でもよくわかります。子どもの成長っておもしろい。

そして子どもだけでなく、大人だって人との関係性の中で思いもよらない自己変革をおこしていく力があるのではないかと一人で納得しています。

とんでもない

鈴木のりたけ
アリス館

 

ぼくはふつうの男の子。

ぼくにしか出来ないこと、ぼくにしかないすごいところ、そんなのひとつもみつからない。「サイ」はいいなぁ。よろいのようなりっぱな皮がかっこいい。あーぁうらやましい。

ところがサイは「とんでもない!こんな重いよろいなんて大変なんだよ。「ぼくはピョンピョン跳ね回れる うさぎの方がいいな。」

うさぎは「とんでもない!ぼくだってはねすぎちゃって困ることがあるんだ。大きな体で海の底をゆったり泳ぐ くじらだったらいいのに」

でもくじらは「とんでもない。どうせ大きいんだったらいろんなものを見下ろすきりんの方がいい」

きりんは、「とんでもない。首が長いのも苦労があるんだ。空を自由に飛ぶ鳥になれたらどんなにいいだろう」

鳥は「とんでもない。逃げなくていい 強いライオンだったらいいのに」、

そしてライオンは「獲物を追いかけまわすのも大変。人間の子のように本でも読んでごろごろして過ごしたいわ」

ぼくは「とんでもない。人間の子だっていろいろ大変なんだよ。」でも「自分にないものはよく見えるけどあったらあったでいろいろ大変。ぼくはぼくでいいんだな」と思った。

 

☆鈴木のりたけさんの最新作です。独特の存在感がある絵ときれいな色彩がストーリーを膨らませ、ユーモラスに展開させていきます。

子どもがだんだん自分以外の人やもの、ことがらに目を開かれるようになってくると、自分との比較のなかで自分のもっていないものに気が付き始めます。そして他の人がもっているものがとてもいいもののように見えてくるのです。

よろいをしょっているサイがとても強くてかっこよく見えてきて、自分は何て弱々しいんだろうなんて思い始めるのです。

でも他の人に「いいなぁ」と憧られるその人にも自分にないものを持っている憧れの人がいて決して現状の自分が最高だとは思っていない。みんな弱さや苦労を持っています。

そういう本音を知った時、「ぼく」は自分は自分でいいんだなと納得するのです。

このことは子どもが自分探しをする大切な過程だと思います。

人は一人だけでは自分を探し出せない。たくさんの人やもの、ことがらに出会いながら自分の姿を見つけだしていくのだと思います。そして最終的に自己肯定感をもって「自分は自分でいいのだ」というところに行き着けたら最高だと思います。

 

私たちは保育者として子どもたちの「自分探しの場」に臨場し共に生活しています。

子どもたちはたくさんの友達との関わりのなかで人と自分との違いや共通項に気づき、また友達を鏡として自分の姿の輪郭ををおぼろげにでも見つけだしていきます。そんな子どもたちが「自分は自分でいいんだ」と自己肯定ができるように、私たちはその過程に丁寧に付き合い、その存在を支えていきたいと思います。

やさいのおにたいじ

つるたようこ 作
福音館書店

 

京の都に娘たちをさらう「こんにゃくいも」の鬼が現れました。

娘の「ひのなひめ」をさらわれた「しょうごいんかぶら」の命令で鬼退治に集まったのは「たけのこ」「まつたけ」「かもなす」「みずな」「きんときにんじん」「ほりかわごぼう」の面々。

鬼の棲む遠い東の山目指して進んでいきます。

途中で困っていた「ししがたにかぼちゃ」のおじいさんを助けると、鬼退治の役にたつだろうとひょうたんに入った酒をもらいました。

ようやく鬼の屋敷についた面々は、「やつがしら」の門番をうまくやりこめたり、手下のにんじんやごぼうを脅かしたり、どくきのこを眠らせたりしてようやく鬼の前に出ました。

「たけのこ」が「みやげにめずらしい酒をどうぞ」と勧めると、その酒は悪い者が飲むと力がなくなるという不思議な酒だったので、それを飲んだ鬼は、ついには大きなこんにゃく玉になってしまいました。

こうして6人の面々はひなのひめと娘たちをたすけて都に帰って行きました。

 

☆この絵本は「こどものとも」2月号です。配本をした次の日に、「おにの本、おもしろかったぁ」と言う声が聞こえてきました。年長のHさんは「いろんな野菜が出てきたよ。「たけのこ」「まつたけ」「かもなす」・・・・。」と全部覚えていましたし、Yくんは「やつがしら」って本当にあるの?」ときいてきました。「もう3回も読んでもらったからおぼえちゃった」とSちゃん。お昼ごはんのテーブルはその話しで盛り上がりました。

こんなにダイレクトに反応がある本も珍しい、余程おもしろかったのでしょう。

かくなる私も、この絵本を手にした時から、「何て美しい絵本なんだろう」「京野菜のオンパレード、おいしそう」と思ったほどイクパクトがありました。

「お伽草子の酒呑童子より」となっていますので、ストーリーは武勇談風ですが、それを野菜たちが演ずるとなんとまあ雅なこと。ユーモラスなこと。

子どもたちみんなに何回も読んであげました。

年中や年少の部屋でも読みました。子どもたち、おもしろがってもっともっとといいます。京都弁はようしゃべられへんのですが、でも雰囲気を出しながら読むと、子どもたち目を丸くして聞き入ってくれます。

京野菜、おいしそうです。

ボルカ

ジョン・バーニンガム 作
きじま はじめ 訳
ほるぷ出版

 

ガチョウのポッテリピョン夫婦に6羽のひなが生まれました。その中に他のひなとちょっと違うメスの1羽がいました。名前はボルカ。ボルカは、くちばしも、つばさも、水掻きのついた足も他の兄弟と同じにもっていましたが、たったひとつ、羽がまるではえていなかったのです。ポッテリピョンの夫婦は心配して、お母さんはボルカのために灰色の毛糸で羽を編んであげました。でもボルカは他の兄弟のように飛ぶことも泳ぐこともできません。夏が過ぎ、ある日、ガチョウたちはもっと暖かい所を目指して飛び立ちました。けれどボルカは飛べません。みんなはボルカがいないことなど気にかけません。独りぼっちになったボルカは雨をさけて入り江に泊まっている船に忍び込もみました。船にはファウラーという名前の犬とマッカリスター船長、フレッドがいて、ボルカを仲間にしてくれました。そして一緒に楽しく旅をしました。そしてロンドンに着くとマッカリスター船長はボルカをたくさんのガチョウがいるキュー植物園に連れて行ってくれたのです。キュー植物園では誰もボルカに羽がないことなんか気にしません。中でも特にフェルディナンドという仲良しができ、彼はボルカが泳げるように教えてくれました。ボルカはキュー植物園で幸せに暮らしています。

 

☆ジョン・バーニンガムが27歳で初めて書いた絵本です。この絵本は高い評価を受けて、その後の作家活動につながっていきました。

一連のジョン・バーニンガムの絵本の底流に流れている「受容」と「個性の尊重」が出発点であるこの「ボルカ」から一貫して描かれているように思います。

同族的な閉鎖社会のなかでは仲間外れになってしまっていたボルカが外の世界でさまざまな人や出来事に出会い、多様な個性を合わせ持つ集団の中に柔軟に受け入れられていくという、最後はホッとするような話の展開です。

けれども、私は最初の部分が重く暗くのしかかってくるのです。

1羽だけ羽のない、仲間の中では特殊なボルカが、仲間たちに疎外されている時、「ボルカがいっしょにいないなんて、だれも、きにしませんでした。」「ポッテリピョンの夫婦は忙しすぎて、なにも知りませんでした。」。また、あたたかい所を目指してみんなが飛び立つ時、ボルカがひとりで残ってしまう部分でも「ボルカがいっしょじゃないなんて、だれも、きがつきませんでした。とおくまでの旅行のことをかんがえるだけで、みんなせいいっぱいでした。」といっています。

人が自分の存在をだれからも忘れられていると感じることほど残酷で悲しいことはありません。アメリカ映画に「ホームアローン」というシリーズの人気映画がありました。家族親戚で旅行にでかける時、子どものケビンは忙しさに紛れて置いてきぼりにされ、その後さまざまなスリルのある冒険をするというストーリーですが、両親はケビンがいないことに気が付くと、必死の思いで彼のもとに帰ってきます。

このお話もせめてそんな展開だといいんですが、ボルカのもとにはだれ一人帰って来てはくれません。そしてだれも「自分のことで精一杯で」、いないことすら「気が付かない」のです。これは怖いことです。私もだれかが仲間外れになって独りぼっちでいても、またいなくなっても「きがつかない」ような部分があるのではないか、あったのではないかと思うと気が重くなります。

しかし、そんなボルカは幸いにも、別の世界の人たちと出会い、幸せを手にしました。

例え、ボルカに羽がなくてもそんなことは全く気にせずに仲間として一緒に生活する人たちとの出会いによって心が開かれ、また互いに違いがあっても受け入れ合える多様な個性集団の中で、ボルカは自分を取り戻します。これは希望です。

私は保育者として、子どもたちと一緒に生活する者として、個性のある一人ひとりの子どもたちの存在をいつも「気づいていたい」と自戒します。「受容」したいと思います。

そしていないことに気づいたら必死で見つけにいく者でありたいと思います。

ももたろう

松居 直 文 ・赤羽 末吉 画
福音館書店

 

桃から生まれたももたろう。

育てられぐんぐん大きく逞しくなりました。

悪い鬼がいると聞き、おばあさんに作ってもらった日本一のきびだんごを腰につけて鬼が島に鬼退治にでかけます。

歩いていくと、犬・サル・キジに会いました。

ひとつずつきびだんごをやって、家来にしました。

ももたろうと犬とサルとキジは鬼が島めざし、山越え、谷越え、海を渡っていきました。

鬼が島に着くと、犬がドンドンと門をたたき、サルが塀をよじのぼって門を明け、キジが空から攻めかかり、ももたろうは鬼の大将をやっつけました。

そしてさらわれていたお姫様を助けだし、おじいさんおばあさんのもとに帰ります。

それからお姫様をお嫁にもらっておじいさんおばあさんといつまでも幸せに暮らしましたとさ。

めでたしめでたし。

 

☆このお話は昔から語り伝えられてきた、誰でも知っているお話ですのであらすじを書くのも斟酌してしまいがちです。

私も幼い時、父からよくきいたものでした。

「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へしばかりに」と始まると、「おばあさんは川にせんたくに、でしょ。」と遮って自分が話し始めたくらいでした。(時々、「おっと今日はちょっと違うぞ」といって父はいいかげんな作り話に展開してくれたのですが。)

そのくらい何度も聞いて覚えてしまう程親しんだ「ももたろう」の話ですが、ところがこんな昔話をみんな知っているだろうと思っているのは昔人間で、今、そんな話なんてきいたこともないという子どもたちが結構いるのです。

昔話は、長い間人の口から口へと語り伝えられてきたので、内容や構成が地方や時代によってかなり違っているのですが、しかしだからこそ余分なものは削ぎ落とされシンプルな筋立てと語りやすいことばのリズムがあるのが共通した特徴だと思います。

勧善懲悪あり、妖気漂う不気味な話あり、この世のものとも思われない不思議な話あり、子どもたちは父や母、祖母や祖父の口から出る物語の一言一句に聞き入ったことと思います。毎晩同じ話を同じ調子で語られても、ことばの紡ぐ世界に思いを馳せ想像を膨らませて、そのうちすっかり諳じてしまい、自分の体の一部分のようになってしまったことでしょう。

そんな語りの世界が文字を通して共通の文章になり本として身近かに読めるようになりました。話も整合性のあるものになりました。でもそのなかで語りの世界から失われてしまったものもあるように感じます。

この絵本は、そんな語りの世界をできるだけ失わないように、松居さんのことばのリズムや赤羽さんのすばらしい日本画で子どもたちの想像の世界をぐんぐん広げ、魅了していきます。

このお二人のコンビの絵本はどれをとっても秀逸本として、「さすが」と感服してしまいます。「本物」という感じです。

先日、歌舞伎の演目に「ももたろう」が取り上げられたという記事を読みました。若い人たちにも歌舞伎に親しんでもらいたいということで、昔話を題材に演出をしたということ。「ももたろう」では退治された鬼が主人公の話になっているということで、おもしろそうと興味をもちました。

日本人の感覚の一番深いところにある素朴な昔話は、きく者たちにはるかな所でなつかしさを感じさせます。奇想天外の世界を縦横無尽に旅した最後には「めでたし めでたし」ですべてのことがうまくいった、うまくいくぞ、という安心感・安定感と共に落ち着きます。ぜひお正月、お子さんに「ももたろう」をゆったりと読んであげてください。できればひざの中に入れたり、おふとんに一緒に横になりながら語ってあげて欲しいと思います。

ちいさなてんしのおくりもの

アリスン・マギー 文
ピーター・レイノルズ 絵
堀口 順子 訳
ドン・ボスコ社

 

天国新聞で「救い主が生まれるよ」という記事を読んだ天国の天使たちは大喜び。

小さな天使のアステルも赤ちゃんに何か贈り物をしたいと思いました。

どんな贈り物をしたら喜んでもらえるでしょう。

赤ちゃんを喜ばせそうな「風」も「雨」も「音楽」もすでに空や雲や小鳥たちが用意をしていました。

何もぴったりなものが見つからず途方にくれたアステルは広くて真っ暗な夜空の中で下をのぞき込んでいました。

すると、救い主に贈り物を持って長い旅をしてきた博士たちが暗い道に迷っているのが見えました。

その時、アステルは赤ちゃんに何をあげたらいいかが見つかったのです。

アステルは目を閉じると羽をおどらせ夜空へ舞い降りていきました。

そしてここだというところまでとんでくると、きらきらと輝く星になりました。

その星は、その夜空に明るく輝やき、博士たちの目印となって救い主の赤ちゃんが生まれた小屋に導きました。

それだけではありません、暗闇の中の光、それは一番の贈り物となって赤ちゃんの目にも明るく届いたのです。

 

☆このお話は新約聖書マタイによる福音書第2章1節から12節に書かれている「占星術の学者たちが訪れる」(新共同訳)の記事をベースにしていると思われます。東方で救い主が生まれるという印の星を見て贈り物をもって長い旅に出た占星術の博士たちをその星が先導し救い主にまみえさせたという記事です。

この絵本は、その記事を小さな天使という存在を通して実に軽やかに、そして素朴に、純粋に描き、救い主の誕生の喜びを表現しています。そして実際に記事の中で書かれている「星」が、実は小さい天使のプレゼントだったのだということに驚きと感動を感じてしまいます。読者の思いを遥かに超えた物語の展開です。

絵はとてもモダンで、躍動感があり、2000年前の博士たちの場面と同時に描くことによって時代を超越して神の子の誕生という真実を伝えようとしているようにも思えます。

イエス・キリストの誕生に関してはたくさんの不思議な出来事が2000年以上、語り継がれたくさんの人々に信じられてきました。そしてそれらの神の子の誕生という出来事をさまざまな視点や立場でとらえながらたくさんの物語や文学や芸術が生まれ、その神秘的で恵みに満ちた表現は人々に目に見えない神様の偉大なる愛や恵みを具象化して伝える役目を果たしてきました。 この絵本もクリスマス物語の素敵なお話として子どもたちにきっと夢を与えてくれることと思います。

クリスマスが近づいている今、この小さい天使のように何が赤ちゃんイエスさまに一番喜んでもらえる贈り物なのかを私も考えさせられています。なかなか思いつきません。でもイエスさまが暗闇を照らす光となってこの世に生まれてくださったことを喜び、せめて自分の心の中にその光を迎え入れることができるよう心を整えてクリスマスを待ちたいと思います。

くんちゃんのだいりょこう

ドロシー・マリノ文/絵
石井 桃子 訳
岩波書店

 

冬眠の時期を迎えた子ぐまとお父さんお母さんぐまのお話です。

渡り鳥のように、暖かい南の国に大旅行をしたいといいだした子ぐまの くんちゃんに、「やってごらん」とお父さんぐまがいいます。

「でも帰り道の目印を忘れちゃいけないよ」と丘の上の松の木を教えます。

くんちゃんは意気揚々とでかけますが、丘の上に立つと、お母さんにお別れのキスをするのを忘れたことを思いだし、駆け降りてお母さんにキスをするとまた丘の上まで駆け上がっていきます。

丘の上に立つ度に次々に大旅行に必要な双眼鏡や釣竿や水筒や帽子などを思いだし、そのたびに丘を駆け降りて家に持ちに帰ります。

こうして丘と家とを何度も往復しているうちに子ぐまはだんだん眠くなってきて、家に戻るとおかあさんにキスをしてベットに入ると冬中ぐっすりと眠りました。

 

☆この絵本が石井桃子さんの訳で日本で発行されたのが1986年です。今から30年程前になります。でも今読んでも少しも古くなっていない、また色あせていない絵本です。それは子どもの自立が今も昔も同じ道筋を辿って行われているからではないかと私は思います。

子ぐまのくんちゃんは、渡り鳥を見て、まだ見たことも行ったこともない南の国に行ってみたいという大冒険を企てます。子どもが自分の実力に見合わない夢を描き、それを実現したいという思いをもつことはよくあることです。大人から見れば何て無謀な絵空事と思うようなことでも子どもは真剣です。くんちゃんが実現したいと思った大旅行は、お父さんお母さんのもとから未知の世界へ飛び出す自立の決心でもありました。

それに対して、お母さんとお父さんの対応が異なります。お母さんは鳥と熊とは違うということ、これから冬眠をすることを伝えます。それに対してお父さんは「やらせてみなさい」といい、帰り道の目印を教えます。子どもの思いを受け入れながら、帰ってくる方法を指標として与えています。

子ぐまは、意気込んで出掛けますが、途中でお母さんに別れのキスをしに帰ってきたり、旅行に必要だと思われるものをとりに何回も家に帰り、その度にお母さんにキスをして往復を繰り返します。そして結局、疲れ果てた末に家に戻り、ベットでぐっすりと冬眠に入るのです。

子どもが、初めて新しい仲間や遊び場で遊び始める時、最初はお母さんのひざにしっかりと乗って、周りをよく見ています。そして自分もやってみたいな、遊んでみたいなというものがあると、最初は見ているだけですがだんだんお母さんのひざを離れ、ちょっと試すとすぐにまたひざに戻ってきます。お母さんの衣服や手にさわったまま、遊具を取りにいこうとする子もいます。そんなことを何度も繰り返しているうちに、お母さんから離れていられる距離も時間もだんだん長くなっていきます。

子どもの冒険の世界が広がっていく瞬間です。

お母さんの存在の象徴である「お母さんのひざ」は子どもの冒険に出発する時の基地であり、母港です。この「お母さんのひざ」がある限り、子どもは安心して冒険にでかけられるのです。子どもは何度も何度もこの「ひざ」の存在を確認しながら外に向かい「ひざ」を目指して帰ってきます。

いつでも家にもどってこられる「丘の上の松の木」の目印がある限り、子どもは安心して自由な世界に大旅行することができるのではないか、そして自立した大人になっていかれるのではないか、そんな子どもの育ちの原点をこの絵本を読んで再確認したように思います。

あおいちびトラ

アリス・シャートル文 ジル・マックエルマリー絵
中川 ひろたか 訳
保育社

 

青い小さなトラック、「ちびトラ」は、カエルや羊や牛や豚に挨拶しながらゆっくりと走っていく。鶏やひよこ、やぎの挨拶にも「ブッブー」と返事する。

馬やあひるにも「ブッブー」ってほほ笑み返す。

その時、「ブォーン!」「どけ どけ どけ!」とすごい速さのダンプカーがやってきてカーブを曲がりきれずにドロの中、身動きできなくなった。

助けて!と叫んだけれど、その声は誰にもきこえない。

ちびトラがドロの中をダンプを助けにやってきて力いっぱい押したけれど、今度は自分も動けなくなっちゃった。

「助けて、助けて!」とちびトラが叫ぶと、その声をききつけて動物たちが駆けつけてきて、みんなでちびトラを力一杯押した。でも重すぎてちっとも動かない。

その時、やってきたのが緑のカエル。「みんなで力を合わせて押すんだよ」というと「いーち、にーの、さん!」と合図した。

するとついにトラックたちが動いた。

「ありがとう。お前は俺を助けてくれた。やつらはお前を助けてくれた。世の中友達同士の助け合いでできているんだな。気づかせてくれてありがとうよ」とダンプはいった。

帰りはちびトラにみんな飛び乗って、ブッブー ブッブー ブッブー。 

 

☆色鮮やかな「ちびトラ」と動物たちの描いてある表紙が、何となく騒々しいアニメっぽく見え、そして帯を見ると華々しく「アメリカで大人気のシリーズ、日本初上陸!」とか「米アマゾン児童書「フレンドシップ部門」で不動の第一位!」とか「これでもか!」というように文字が踊っていて、何となく気後れしてしばらく放っておいたのですが、この「何となく」の本を再度手にとって読んでみたら、あらまぁ素敵な本じゃないかと見直した次第です。

平面的なアニメっぽく見えた絵は、ひとつひとつに表情があり、色彩が美しく、ユーモラスで、木にも草にも人格さえ感じてしまいます。画面構成も個性的、スピード感さえも伝わってくる画力に圧倒されます。躍動的な絵はきっとこどもたちの心をつかむことでしょう。それに物語の展開がうまくフィットしていて一体化しています。

絵を描いたマックエルマリーさんも文を書いたシャートルさんも本当に楽しんでこの絵本を作ったように感じます。

物語りそのものはそんなに斬新な運びではありませんが、よく読んでみるとことばのひとつひとつに意味があっておもしろい。

ぬかるみに沈んだダンプが「ウォーン」と怯えた声で叫んだけれど、「そのこえはだれにもきこえなかった。」という一節。挨拶も交わさないで「俺様が一番。どけ!」と生きて来たダンプの声は誰にも届かない。

また、ちびトラの声をききつけて大急ぎでやってきた動物たちがそれぞれ力いっぱい押すけれど、トラックたちは動かない。そこにやってきたカエルが「いいかい、みんな。ちからをあわせておすんだよ。いーち、にーのさん!」という下り。

みんながひとつの気持ちになって一緒に力を合わせる、ということ。

そして最後にダンプがちびトラにいうことば。「よのなかともだちどうしのたすけあいでできているんだな。きづかせてくれてありがとうよ」。この「きづかせてくれてありがとうよ」が泣けます。

教条主義的に意味をみつけなくてもいいように思いますが、この訳者。中川さんは、保育経験をもっている方。やっぱり何かを感じてしまいます。

多分、この訳は子どもの呼吸にフィットしたことばを紡ぎ出した中川さんのオリジナルの部分が多いのではないかと思います。そして、子どもたちに何かを伝えたいという思いが伝わってくるように思うのですが、いかがでしょう。

てのひらおんどけい

浜口哲一ぶん  杉田比呂美え
福音館書店

 

ぼくはパパとおさんぽにでかける。

パパと手をつなぐと、パパの手あったかい。

影になっているところのフェンスは冷たいな。

ひなたのフェンスはあったかい。ふしぎだな。

いろいろなところにさわってみたよ。

あったかい。つめたい。あつい。つめたい。

公園の砂場であそぼ。砂山はあったいけれど、穴の中はつめたいよ。

あったかくてつめたくて、あぁいそがしかった。

ただいま。

こんどはママも一緒にいこうね。

 

☆この絵本は福音館から月刊誌「ちいさなかがくのとも」として2003年に発行配本され、2009年に「幼児絵本ふしぎなたねシリーズ」として発行されました。

小さい子どもたちが、身近な生活の中で、「ふしぎだな」「おもしろいな」と思う体験や事象をとりあげて、子どもの科学する心に小さな種としてポトンと落とす、子どもの科学する目の発露として提示するという(これは私の私見ですが)福音館の「かがくのとも」がまず1969年月刊科学絵本として生まれ、更にもっと小さい人を対象にして「ちいさなかがくのとも」が誕生してこの8月の「はっぱきらきら」で161号になっています。

生活の中のささやかな事に焦点を当ててそれを掘り下げたり広げたりしていくのですが、それが大人が見てもおもしろいものが多く、人気者の月刊誌です。

その中でこの「てのひらおんどけい」は、その妙を見事に言い当てています。

日常生活の中で何げないこと、通り過ぎてしまうこと、「ここはあったかい」「これはつめたい」という発見と探検は子どもの興味関心を生まれさせ「おもしろい」現象に気づかせます。幼稚園では子どもたちが飽きもせず、繰り返してゲーム感覚で遊びます。影の下の土はつめたいけれど、お日様に当たっているところはあついとか。誰ちゃんの手と私の手はどっちが冷たいとか、先生の手で包んでもらったらあったかくなったとか。

この絵本ではパパとぼくがお散歩に行くという中で場面が展開していきます。

大好きな人と一緒にリラックスして生活する中で、何げなくみえるちょっとした気づきが、ゆったりとした時間空間の中で興味関心につながりおもしろい活動として「子どもの遊び」そのものになっていく過程がよく見えます。

大人が恣意的に科学を教えよう、研究をさせようという前に、生活の中のおもしろいこと不思議なことに一緒に寄り添い共感性をもって楽しめるゆとりをもてたら子どもたちの科学する目が自然に生まれ育つのではないかと思います。

そしてそれは科学する目だけでなく子どものすべての育ちにとって一番のベースになることなのではないかと思います

エドワルド―せかいでいちばんおぞましいおとこのこ

ジョン・バーニンガム作  千葉茂樹 訳
ほるぷ出版

 

エドワルトはどこにでもいる普通の子。

でも時々ものを蹴っ飛ばす。すると「世界中の誰よりもらんぼうもののエドワルド」といわれてますますらんぼうものになった。

「世界中のだれよりもやかましい」といわれてさらにやかましくなった。

いわれるたびにいっそういじわるになり、どんどんやばんになった。

かたずけもせず、歯や顔も洗わず、とうとうみんなに「世界中のだれよりもおぞましいこどもじゃないか!」といわれた。

ところがある日、けっとばした植木鉢が土の上に着地したのをみた人に「花壇をつくるなんてすばらしいじゃないか。もっといろいろ植えたらどうだい」といわれて、エドワルドは花を上手に育てた。そしてみんなに呼ばれて庭の手入れを頼まれるようになった。

犬にいじわるをしようとしたのに、感謝されペットの世話もたのまれるようになった。

きたなかったエドワルドがハエから逃げようと川に飛び込むと女の人に助けられ、久しぶりに風呂に入り洗濯もしてもらって学校中のだれよりもきちんとなった。

友達をつきとばしても、大声をだしても、それがみんな思いがけなくうまく転がって、今では小さい子たちの人気者。世界中のだれよりも素敵な男の子なんだ。

 

☆ジョン・バーニンガムの作品はどれを読んでもやさしい眼差しに包まれているように思います。特に「ガンピーさんのふなあそび」「ガンピーさんのドライブ」は保育者としてたくさんの事を学ばせてもらいました。そのなかで語られている「ガンピーさんの受容と慈愛」は保育者として大切な視点と原点として今も心していることです。

今回選んだ「エドワルド」も、大変深い示唆を与えてくれています。

この本のなかで、彼は「エドワルドはどこにでもいる普通の子だよ。」とまず言っています。子どもって、かわいいだけではないですよね。

乱暴なところもあるし、やかましい。意地悪でもあるし、野蛮でちらかしやでもある。

それを大人たちが「いけない子」「だめな子」「世界で一番おぞましい子」とみるならば自己肯定感のないおぞましい子になっていくでしょう。まさにエドワルドの姿です。

けれど、少し視点を変えて見ることで、同じことでも良い方向にベクトルがむいていくことがあるのではないでしょうか。後半部分がそうですね。放物線を描くようにどんどん変わっていきます。

小さいエドワルドが、ひとつの言葉でどんどん悪い方向にいったり、またどんどんいい方向にいったりする姿をみると、子どもと共にいる私たちにとってはとてもこわいものを突き付けられているように感じます。

子どもが、自分のよいところを認められ、他の人のためにそれを活かし喜ばれること、それが育ちの一番底にあるべき自己有用感だと思います。

子どもがまだ未熟な部分があることを十分に認めながらも、やさしいことばとまなざしを注ぎながらその子の自己有用感が育つようにしていかなければと心をひきしめます。

そらまめくんのベッド

なかや みわ さく・え
福音館書店

 

雲のようにフワフワで綿のようにやわらかいベッドはそらまめくんの宝物。

えだまめくんやグリンピースの兄弟やさやえんどうさん、ピーナッツくんが「そのベッドにねてみたい」といってもだれにも使わせようとはしません。

ところが、その宝物のベッドがある日、なくなってしまったのです。

捜し回りましたがどこにもありません。仲間のみんなにきいても「しらないよ。ぼくたちにかしてくれなかったバチさ」といいました。

でも、みんなはそらまめくんがだんだんかわいそうになってきて、自分のベッドをかしてあげようとしましたが、そらまめくんにぴったりのものはありません。

ところが何日もたったある日、そらまめくんは見つけたのです。うずらがそらまめくんのベッドで卵をあたためているのを。

そらまめくんは近くで様子を見ることにしました。

そしてある日「やったー。たまごがかえったぞ。ぼくのふわふわベッドでひよこがうまれたー!」そらまめくんは大得意。

うれしそうに自分のベッドを持って帰ったそらまめくんは、みんなと一緒にパーティをしました。そして自慢のベッドにみんなを招待してぐっすりと眠りました。

 

☆「そらまめくん」シリーズの第一作目です。

宝物のベッドがご自慢のそらまめくん。そのベッドが突然なくなってしまいました。

やっと捜し当てると、ベッドの上でうずらのおかあさんが卵を抱いていました。自分の大事なベッドより、卵がどうなるかが心配になっていくそらまめくん。見守っているうちにやっとひよこが生まれて大喜び。そのうれしい思いが、他の仲間との関係を修復していきます。仲間たちのそらまめくんへの気持ちの変化もあたたかく描かれています。

豆たちを通して、子どもの正直な気持ちのひだを温かい目をもって描いている作品だと思います。

子どもたちはシリーズの「そらまめくんとめだかのこ」「そらまめくんとながいながいまめ」のものがたりも大好きです。そらまめくんと周りの仲間とのやりとりや、奇想天外なストーリーが子どもたちの興味関心をそそります。子どもたちにとって身近かにある小さな豆たちの展開するミクロの世界はちょうど身丈に合っていて入り込みやすいのではないかと思います。絵も素朴で親しみのもてるやさしい感じがします。

子どもたちの中にはお豆の嫌いな子どももいますが、この本を見て、親しみを感じた子どもたちも少なくありません。先日、年中児のお母様がたくさんのグリンピースを持ってきてくださいました。遠くのご実家から送っていただいたということで「冷凍ではない生のグリンピースをぜひ食べさせてあげてください。子どもたちにサヤをむかせてもらえたらもっと「そらまめくんの絵本」が好きになると思うんですけれど」ということでした。

早速年中組の子どもたちがサヤをむいて、グリンピースの豆を出し塩ゆでしてみんなと分け合って食べてみました。豆が嫌いといっていた子どもたちも、「これはおいしいね」といって喜んで食べました。そして、サヤは長く糸を通して部屋の壁に飾りました。

このお母様がおっしゃっていたように、「そらまめくん」がより身近かになった子どもたち、ますますこの絵本が好きになったようです。

うさこちゃんとたれみみくん

ディック・ブルーナーぶん・え
松岡亨子やく
福音館書店

 

うさこちゃんのクラスに「だーん」という新しい男の子が入ってきました。

だーん の耳はみんなと違って片方だけ垂れていました。そこでみんなは「たれみみくん」とよびました。

席はうさこちゃんの隣です。だーん はとても楽しい子でした。

ある日、うさこちゃんは学校からの帰り道「みんながたれみみくんていうのいやじゃない?」ときいてみました。だーん は「うん いやだよ。でも僕 もうなれているから。それにみんなが僕のことをもっとよく知ったら変わるんじゃないかな」といいました。

うさこちゃんはその晩一生懸命考えました。

そして次の朝、いつもより早く学校に行くとクラスのみんなにいいました。

「これからはだーんのことをたれみみくんてよばないようにしようよ」といいました。

そこに だーん がやってきました。するとみんなが「おはよう、だーん」といったのです。「ああ いってよかった」ってうさこちゃんはうれしくなりました。

 

☆作者のデック・ブルーナーはたくさんのうさこちゃんの絵本を描いていますが、この「うさこちゃんとたれみみくん」は2006年に書かれ、日本では2008年に発刊されています。今年は最初の「ちいさなうさこちゃん」から60年目を迎えたということであちこちでイベントなどが催されるようです。長い長いシリーズ絵本です。同時にこの間にうさこちゃんも成長・深化しているように思います。

うさこちゃんの絵本は、小さいうさこちゃんの日常的でごく身近なおはなしをシンプルな絵、美しい色使いで表現した優しい絵本で、小さい人たちにもとても人気があります。デザイナーとしてのディック・ブルーナーの傑作だと思います。絵がシンプルで表情もあまり変化がないように見えますが、温かみを感じさせるのは、輪郭を描くこと一つにしても 細い筆を何回も慎重に重ねていく手作業の巧みさや、やさしい彼のまなざしと感情の移入が全体を包んでいるからでしょう。

先に「ごく日常の」といいましたが、その出来事のなかには、子どもの初めての体験や感情の動きなどの他、おばあちゃんの死や、今回のたれみみくんとの出来事など、複雑で深い示唆に富んだものも数多くあります。

「うさこちゃんとたれみみくん」では「たれみみくん」と呼ばれた友達が、そのことを表面は平気な様子をしていてもその心のなかでは決して喜んではいないのだということに気づいたうさこちゃんが、その思いをみんなに伝えようとする、そしてそれがみんなに伝わるという物語です。

このようなことは現代の私たちの間にもごく日常的に聞いたり体験したりする出来事です。そしてそのことが大きな悲劇や問題につながっていくこともあります。

そんななかでこの絵本は、「善に向かう」・「平和を創り出す」ことはどういうことかを提示しているように思えます。

うさこちゃんの洞察力と考察、実践が鍵となるのですが、それを支えたのは、うさこちゃんの中に育くまれてきたやさしさと、人に対する信頼だったように思います。

また、それと平行して だーん が「みんなが僕のことをもっとよく知ったらわかるんじゃないかな」といった言葉は、さらにそのことを教化して伝わってきます。

みんながもっと分かり合えたら、近づいて信じ合ったら、問題の多くは解決していい循環になっていくのではないか、ディック・ブールーナーのそんなメッセージがきこえてくるように思います。

トヤのひっこし

イチンノロブ・ガンバートル 文
バーサンスレン・ボロルマー 絵
津田 紀子訳
福音館書店

 

モンゴルの草原。春の終わりにトヤの家族はもっと水も草もあるところに引っ越しをすることになりました。

らくだの背中にたたんだゲルや机、椅子、食べもの、全部載せて出発です。

草原を歌を歌い、知り合いの人に挨拶しながら進んでいきます。

草原をみんなで歌を歌いながら進み、夜になると、草原で休みます。遠くでオオカミの吠える声が聞こえます。一緒に旅をしてきたヒツジやヤギが食べられたら大変。おとうさんと犬のバサルが番をします。

朝がきて、暑くて乾いた大地のゴビ砂漠に入りました。暑くてトヤはぐったりしてしまいました。ようやくゴビ砂漠を越えると、今度は、強い雨と嵐になりました。動物の群がバラバラにならないようにトヤも必死にくい止めます。

継ぎはゴツゴツした高い山にさしかかりました。ふうふういいながら山をのぼります。

下りになると「もうすぐだぞ!」とおとうさんが大きな声でいいました。

トヤも動物たちもみんなみんな駆け出しました。

あおあおとした草がいっぱいはえている草原に出ました。

そして新しく建てたゲルにともだちを招いてみんなでおとうさんのやさしい馬頭琴を聴きながら、お茶を飲みました。草原の夏の生活が始まります。

 

☆モンゴルの草原に広がる壮大な物語です。草原の民の家族が、新天地を求めてみんなで引っ越しをします。みんなでというのは家族だけでなくヒツジやヤギやラクダなどの家畜に、ゲルという家まで何から何までのことです。家畜においしい草を食べさせるための引っ越しです。

途中、オオカミなどが出る怖いところで寝たり、砂漠の暑さにぐったりしたり、酷い嵐にあったり、高い山を上り下りしなかえればならない引っ越しは、幼いトヤにとってはとてもきびしいものだと思います。

でもお父さんに守られ、家族で力を合わせ、また優しい仲間に支えられて、ようやく新しい草原の大地に着き、またみんなでそれまでと同じように生活を始めます。

このような生活は一見現代社会から取り残されたような感覚をもつかもしれませんが、私はこの絵本を読みながらなんと豊かで自由な生活だろうと憧れさえ抱きました。

経済優先の社会にはない、不必要なものを削ぎ落とした人としての豊かさをもつうらやましい価値観で生きている人たちだと思いました。

家族のあり方、自然との共生、仲間との結束や人を思いやるやさしさ、それらがすべて生活や生きることに直結していて、そこに崇高なものをも感じます。

モンゴルの草原の雄大さ、また生活の有様、など美しい色と細かい描写で絵巻物のように描かれた1ページ1ページが不思議な生活感をもって伝わって来る絵本です。

メリーさんのひつじ

ウィル・モーゼス作  こうのす ゆきこ訳
福音館書店

 

昔、ある村にメリーという動物の大好きな女の子がいました。

馬や牛や豚もメリーが大好き。メリーが会いに行くとみんな大喜びです。

なかでも一番うれしそうなのは羊でした。

ある朝、メリーが羊小屋に行くと、夜のうちに2匹の赤ちゃん羊が生まれていました。

でも、1匹の赤ちゃんはとても小さくてすっかり弱っています。

メリーは子羊を抱っこして家に連れて帰りました。そしてハーブのお茶とあたたかいミルクをやって抱きしめながら暖炉の前で一晩を過ごしました。

すると、次の朝、子羊は細い脚でしっかりと立ったのです。

それからは、どこに行くにも、いつでも、羊はメリーと一緒。

メリーが学校に行くと、子羊もあとを着いてきて一緒に教室で過ごしました。

あるとき、参観に来たラウラ・ストーンという人がこの光景が余程おもしろかったようで、メリーに1枚の紙に書かれた詩を手渡してくれました。

それが今ではたくさんの人たちが口ずさんでいる「メリーさんのひつじ」の歌になりました。

 

☆2014年11月に発行された新刊本です。

今から200年ほど前のアメリカの小さな村で本当にあった出来事をモーゼスさんが絵本にしました。子どもの頃から「メリーさんのひつじ」の歌を無意識のうちによく歌ってきたモーゼスさんが、大人になったある日、この歌が本当にいた女の子と子羊をもとにして詩が書かれ、歌になっていったというルーツを知り驚きと感動のなかで作った絵本だということです。その驚きと感動の思いがスピード感と迫力、そしてやさしさを包括して絵本の隅々に表れているような気がします。

例えば、メリーや子羊の動きや表情はもとより、ここに登場する人や動物、植物などみんな躍動しているように見えますし、また色使いも実に美しくまたリアルです。

200年前の良き時代のアメリカの物語を生でぐんぐんと伝えてくれる技量はさすがです。そして、モーゼスさん自身がその古き良き時代の空気をなつかしみ、喜んでいる姿、またその「メリーさんのひつじ」の歌を口ずさんでいた頃の幼き日の自分への賛歌を読み取りました。

私たちにもお馴染みの「メリーさんとひつじ」の曲がこんな時代のこんな物語の中で生み出されたということを知りその時代に思いを馳せると共に、これからこの歌を歌う時にはこの絵本の1枚1枚の美しい絵画が脳裏に浮かぶことだろうと思います。

ひとりぼっちのミャー クリスマスのよるに

え・ぶん たしろ ちさと

女子パウロ会

 

あるまちにひとりぼっちのねこがいました。なまえはミャー。

やせっぽちでおなかをすかせた、みすぼらしいねこ。

あしたはクリスマス。まちのひとたちはみんな、クリスマスのおいわいをしています。でも、ミャーにはクリスマスのごちそうはありません。クリスマスをいっしょにいわうかぞくもいません。

ミャーはさむくてふるえていました。

そらからゆきがおちてきました。

「あったかそうだなあ、ぼくもだんろのひにあたりたい……」

まどのなかから、まっしろなねこがいいました。

「まあ、きたないねこ。ここはあたしのおうちよ、あっちへいって」

「おなかがすいたなあ。なんていいにおい」

「こらこら、しっ、しーっ。ここにはおまえにやるたべものはないぞ」

ゆきはどんどんふってきます。さむいなあ、さみしいなあ、なんだかなみだがでてきた。

「あのじどうしゃのしたでやすもう」

ミャーはじどうしゃのほうに、あるいていきました。

ところがじどうしゃのしたには、おおきなねこたちがひそんでいたのです。

「ここはおれたちのなわばりだぞ!」

ねこたちはおいかけてきました。

ミャーはにげました。いきがきれていまにもころんでしまいそうです。

ミャーはおおきなふくろににげこみました。そして、ふくろのいちばんおくにかくれました。

おおきなねこたちは、きづかずとおりすぎていきました。

「ふくろのなかはなんてあったかいんだろう……」

ミャーはねむってしまいました。

ミャーはとんでいるゆめをみました。とりのように、どこまでもどこまでもとんでいって……。

「おやおや!」

「おまえはどこからきたの?かみさまがサンタにくださったプレゼントかな?」

サンタさんのいえはあったかい、ミャーはしあわせ。サンタさんもしあわせ。

クリスマスおめでとう!

 

☆いよいよ12月です。イエス様のお生まれになったクリスマスが間近になり、幼稚園ではアドベントに入りました。ページェント(降誕劇)も始まります。イエス様のお生まれになった日の様子をみんなで歌い演じ喜びます。劇中、ヨセフと身重のマリアはベツレヘムで宿に泊まろうとしますが、どこの宿もいっぱいで泊まれません。馬小屋なら、と寝床とも言えないような寝床を与えられ、イエス様はそこで生まれます。そのイエス様が寝かされる飼葉桶に集うのが3人の博士、そして天使に救い主が生まれたことを伝えられた羊飼いと羊たちです。貧しき者、小さき者を愛することを説いたイエス様。それはこの誕生の場に羊飼いや羊たちが登場し喜び合うことに象徴されているのでしょう。

この絵本のミャーも、貧しき者、小さき者の象徴です。泊まる宿がなかったヨセフとマリアのようにミャーも寝る場所が見つかりません。食べるものもありません。ですが、クリスマスの中、クリスマス故に自分の居場所を見つけることができ幸せな生活を得ます。この絵本の作者のたしろさんのあとがきに「クリスマスという日は、みんなが幸せになる日」という言葉があります。この絵本を読める多くの人はミャーではないことでしょう。寝るところもあれば食べるものもあり、クリスマスを家族と幸せに過ごせる人も多いのではないでしょうか。ですが、世界に目を向けたら、或いはほんのちょっと隣の人を見てください。果たしてみんながみんな幸せな中でクリスマスをお祝いしているでしょうか。そんなことはなく、世の中では幸せなクリスマスを過ごせる方がずっと少ないのが現実です。

幸せな中にある人が貧しき者、小さき者に少しでも幸せをわけることで、みんなが幸せになれるのがクリスマスであり、クリスマスが私たちに与えられた意味になっていくのではないでしょうか。そんなことを教えてくれる一冊だと思います。

パンプキン・ムーンシャイン

ターシャ・テューダー
ないとうりえこ やく

メディアファクトリー

 

シルヴィー・アンはコネティカットのおばあちゃまのいえにいました。

そのひは「ハロウィーンのひ」なのでした。

そこで 「かぼちゃちょうちんをつくるのよ」 とボンネットをかぶって はたけでいちばんりっぱに まるまるとふとったかぼちゃを さがしにいきました。

 

はたけはいえからとおくはなれた おかのうえにありました。

いぬのウィギーをおともに つれていきました。

おかのみちはのぼりざかです。

まるできかんしゃのように はっ、はっ、はっ、 シルヴィーもウィギーも あらいいきづかいに なりました。

 

さて、おかのうえのはたけについた シルヴィー・アンは しほうをみまわしました。

このはたけで いちばんりっぱにまるまるとふとったかぼちゃをさがしたいのです。

あっ、 ずっとむこう、かりとったとうもろこしのあいだにみごとなかぼちゃが みえました。

 

りっぱにまるまるとふとったかぼちゃはおもくてもちあがりません。

シルヴィー・アンはかぼちゃを ころがしていくことにしました。

ふゆのひにゆきのたまをころがして ゆきだるまをつくるあのようりょうです。

 

シルヴィーとウィギーと まるまるとふとったかぼちゃは おかのはしまできました。

あとはくだりみちです。

めのしたにどうぶつのうじょうをみおろすところです。

このときかぼちゃが いきなりはしりだしました。

 

いしもやぶもとびこえて ぼん!ぼん!ぼ、ぼーん!

はずみをつけ、ますますはやくかぼちゃはころがっていきます。

そのあとをひっしにおいかける、シルヴィーとウィギーでした。

 

りっぱにまるまるとふとったかぼちゃはやぎをおどろかせ、

 

にわとりをおびえさせ、

 

そこのけそこのけと のうじょうのまんなかをいきおいよくとおって、がちょうのふうふを 「ガア」 とおこらせ、

 

そのあとがまたいちだいじ。

バケツにしろペンキをなみなみといれたヘメルスカンプさんにたいあたりして、

 

それでもまだ まるまるとふとったかぼちゃはとまらずにおうちのよこかべに どーん、ずしん。

ようやくとまったのです。

 

シルヴィー・アンは おぎょうぎのよいこでしたから ヘメルスカンプさんがたちあがるのをてつだってから かぼちゃのあとをおいました。

やぎやとりたちにも 「ごめんなさーい」 「ごめんなさいね」 とあやまりましたとも。

 

シルヴィー・アンはおうちにはいっておじいちゃまにかぼちゃのことを はなしました。

 

おじいちゃまはそとにでてくると、にげてにげまくったかぼちゃの あたまのさきをほうちょうで すぱっ。

シルヴィー・アンがかぼちゃのなかのたねやすじをきれいにぬきとると、おじいちゃまが ふたつのめと、まんなかにはなと、さいごに、まがったはをむきだしてわらうくちを、つけてくれました。

 

そのころにはひがくれかかり、ろうそくをともしてなかにいれるとそれはそれはこわく、おそろしい、かぼちゃちょうちんができあがりました。

これでこそ、かぼちゃちょうちんです。

 

シルヴィーとおじいちゃまは かぼちゃちょうちんを もんのはしらにのせて やぶのうしろにかくれました。

みちをやってくるにんげんやいきものが ぎょっ とおどろくようすを やぶのかげからながめて たのしんだのです。

 

シルヴィー・アンは かぼちゃのたねをとっておきました。

はるがきてたねをまきました。

やがてつるがでてはたけいっぱいに ずんずんのびてみをたくさんつけました。

かぼちゃはゆめみているようです。

おおきくそだってパンプキンパイや かぼちゃちょうちんになるひを。

シルヴィー・アンのような よいこたちをよろこばせるひを。

 

おはなしおわり。

 

☆1800年代の自給自足の古き良きアメリカの生活を愛し、自身の生活も絵本も古きアメリカを貫いた作家、ターシャ・テューダーさんの処女作となった絵本です。

この絵本は1938年に発刊されました。主人公のシルヴィーが畑で大きなかぼちゃを探し、そのかぼちゃが転がって農場のみんなを驚かし、そしておじいちゃまにパンプキンムーンシャイン(ジャックオーランタンの方が有名な名前ですね)を作ってもらって楽しむ、というたわいもないお話ですが、その中に農場に暮らす女の子の小さな小さなお祭りの素朴な非日常の楽しさが垣間見ることができます。

日本でもここしばらくの間にハロウィーンのお祭りもメジャーになり、子どもたちが楽しみにするイベントの一つになっているようですね。仮装をし、町を練り歩き、お菓子をもらって…と商店などが中心になって楽しいお祭りにしているところもあります。仮装をした姿でお菓子をくれないといたずらするぞと言って回ったり、絵本の中のシルヴィーとおじいちゃまがしたように、ちょっとしたイタズラ心が持って楽しむこのお祭りと、このジャックオーランタンがどこかユーモラスな形をしているように見えることも関係ありそうですね。

この作品は処女作ということでまだ荒さも感じられますが、ターシャ・テューダーさんの描く絵本には人間と自然とがまだ共存して生活している頃の素朴な暖かさがとても感じられて読んでホッとします。ターシャ・テューダーさんは2008年に亡くなるまで他にもたくさんの絵本を描いていますし、そのライフスタイルが共感を得て様々に紹介されているのでご存じの方も多いでしょう。

町を練り歩くイメージのハロウィーンだけでなく、素朴な楽しみを家族で共有するハロウィーンの世界もまた、この絵本で感じてほしいと思います。

おつきさま こっちむいて

片山 令子ぶん  片山 健え
福音館書店

 

ほそいほそいおつきさま。

ひこうきを見ているおつきさま。

ぼくのあとをずっとついてくるおつきさま。

雲にかくれるおつきさま。

ひるまなのに見えてるおつきさま。

電線のつなわたり、かくれんぼをするおつきさま。

おつきさまって空に電気がついたみたいに明るいね。

おつきさま、おやすみなさい。

 

☆この絵本は幼児絵本ふしぎなたねシリーズの一冊です。

「ぼく」がお買い物にいった街の中から、犬の散歩をしながら、また、おかあさんの自転車の荷台から、家の窓から「おつきさま」を見つけて語りかけているお話です。

お月様のさまざまな形や色や明るさがそのたびに変わり、それをどんな状況で眺めているのかが生活観を伴って丁寧に描かれています。「ぼく」の子どもらしい感性の表現も実感があります。これはきっと片山ご夫妻の生活がそのまま「ぼく」を通して語られているのだと思います。

今年は9月27日が中秋の名月、翌日はスーパームーンということで、いつもより「月」の存在がクローズアップされたように思います。

年長組でお昼ご飯を食べながら子どもたちの会話を聞いていると「私、ゆうべお月様見たよ」「私も。スーパームーンだったんだよね」「何?それ」「お月様が大きくなるんだよ」「ふーん」「お月様の中にウサギが見えるんだよね」「あぁ見た、見た」。

子どもたちがお月様の話をしているのを聞くことはあまりなかったので、とても興味津々に聞いていました。キャンプに行った時、みんなで夜空を見上げて月や星を見たことはありましたが、日常的には子どもたちの生活の中で実感を伴った月の話題にはあまりなりません。話をしていた年長児に「どこでそのお月様をみたの?」ときいてみましたら「おとうさんがね、ベランダをあけて見せてくれたの」といいました。きっとお父さんはスーパームーンを子どもに見せてあげたくてベランダに誘ったのでしょうね。

今 子どもが夜、窓からじっと外の暗い空を見上げていたり、散歩にでかけたりなんて、あまり聞きませんね。生活が忙しすぎるのでしょうか。また街は昼のように明るくて、お月様がかすんでしまいそう。

この本の中の「ぼく」は、お月様と生活の中でたくさん出会い、対話をしています。

子どもたちの世界観の中に、テレビ画面や写真やお話だけのお月様ではなく、いつも自分を見ているような月の存在を身近かに感じられる生活があったらいいなと思います。

オオカミクン

グレゴワール ソロタレフ 作
堀内もみこ 訳

ポプラ社

 

あるところに、おおかみをいちども見たことのないうさぎと、うさぎをいちども見たことのない小さなおおかみがいました。

うさぎの名前はトム。うさぎはまだ名前のないおおかみに「オオカミクン」という名前をつけ、ふたりは大の仲良しになって、いろいろなことを教え合います。

ところが「おおかみがこわいごっこ」をしていた時、トムは本当にオオカミクンがあまりにもこわかったので自分の穴に逃げ込み、どんなにオオカミクンが「絶対にトムを食べたりしないよ。たった一人の大好きな友達だもの」といっても泣きながら穴にとじこもって出て来ませんでした。

いくら待ってもトムが出て来てくれないのでオオカミクンは他の友達を探しに旅に出ました。

オオカミ山に着いたオオカミクンは、うさぎと間違えられてオオカミたちに追いかけられます。その時、初めて「おおかみがこわい」という気持ちがオオカミクンには分かったのです。

トムの所に戻ったオオカミクンは「君の気持ちが分かったよ。もう二度とこわい思いをさせないから穴から出て来て」と声をかけます。「僕と同じくらいこわい目にあったのなら、二度と僕を怖がらせたりしないはずだ」とトム。二人は駆け寄って抱き合うのでした。

 

☆本棚にたくさんの本が並んでいても、ふっと手に取って中を覗きたくなるような絵本です。この絵本は今から25年程前にフランスで出版され、日本には1991年に紹介されたものです。作家のソロタレフの余白を生かしたシンプルでダイナミックな画風と色彩は印象的です。そしてシンプルでダイナミックでありながら、登場人物の豊かな表情を見ているだけでことがらと心の動きを理解し感情移入をしていくことができる繊細な表現力も見事だと思います。作者の並々ならぬ力量を感じさせます。

展開するお話は、「おおかみ」と「うさぎ」といういつもだったら天敵ともいえる二人の物語りです。この主人公たちは、互いに全く先入観なしに出会い、気に入って大の仲良しになります。ここで私はひっかかるのです。天敵と言われているものは、いつから天敵になるんだろうと。本能とか、DNAとか、代々の学習とか、いろいろあるでしょうが、このオオカミクンは自分がおおかみであるという学習をする前にうさぎに出会い、真っ新の状態で向き合います。トムも同様です。その時に一番大切なのは、互いの存在の有り様だけでした。途中で自己認識し始めた二人の友情が危機を迎えますが、それを乗り越えさせたのは、相手の思いを心から理解し受け入れ、信じることでした。

このことは、私たちが他の人と共に生きようとした時、一番のベースになることなのではないでしょうか。個人と個人はもちろんですが、民族と民族、国と国など、小さいところから大きいものまで、みんな同じように感じます。

今、世界は分裂や闘争の嵐が渦巻いていますが、みんなが素の状態で向かい合い、さまざまな課題も相手を理解し、思いを受け入れて、信じ合うことからしか平和にはならないように思います。

この絵本のいわんとしているところは深遠で、もっともっといろいろな示唆があるようにも思いますが、オオカミクンとトムがまた仲良く楽しく暮らせるようになったことを喜び、幸せな思いでこの絵本を閉じてくれたらうれしいと思います。

てつたくんのじどうしゃ

 

わたなべ しげお作
ほりうち せいいち絵

福音館書店

 

てつたくんが歩いていたら、くるまが4つ、次々にころころ転がって来て、てつたくんの見ている前でパタンパタンところんで止まりました。

てつたくんが「くるまが4つもあるからどうしようかな」と思っていると、そこに2本の棒がとんとんと歩いてきて、2つずつ、くるまの心棒になってころころと転がり出しました。

もうころびません。

てつたくんもどんどんついていきます。

すると大きな板が木によりかかっていました。

板が「ぼくもつれていっておくれよ」というのでくるまと心棒は板をのせてころころ走っていきますと、道にすわってだっだっだっとうなっているえんじんに会いました。

今度はえんじんを板の上にのせて、坂道をどんどん登って下っていきました。

でも池の前でくるまは向きを変えられずに止まってしまいました。

そこでてつたくんははんどるを持ってきてくるまに飛び乗ると、向きを変えて、「しゅっぱーつ」。

てつたくんがだっだっだっって上手に運転して坂を登り、下って来るとおかあさんに会いました。

そして「おかあさんものせてよ」といったので一緒に乗せてあげました。

 

☆この絵本は2014年「こどものとも」年中向き9月号として配本されたものです。

渡辺茂男さんと堀内誠一さんが1969年に発表された作品の再版です。

堀内誠一さんは「たろうとひっこし」のたろうシリーズの絵や「ぐるんぱのようちえん」などの作者としてお馴染みの方です。また渡辺茂男さんの「しょうぼうじどうしゃじぷた」や訳書の「エルマーのぼうけん」などはベストロングセラーとして親しまれています。

この「てつたくんのじどうしゃ」の明るくて楽しげな表紙は、グラフィックデザイナーとしての堀内さんのモダンなセンスがいかんなく発揮され、大人も子どもも「早く開いてよんでみたい!」という思いにさせられます。

「たろうシリーズ」にも通じる親しさを感じさせます。

表紙を開くと、何てやさしい、おだやかな文!

子どもの心に染み込んでいくような語り口、安心してきいていられる物語りの展開。

粗筋を前段に書きましたが、書いてみればただそれだけの物語なのに、一言一句が愛に満ちていて、物語の設定や展開を超えて読み手をぐんぐんひきつけてやみません。

そして、裏表紙の絵。小さくてつたくんとおかあさんが寄り添って車に乗っている後ろ姿が描かれているのも憎らしいくらい素敵。心地よい余韻がそこで更に深まりを増します。

この作品ははじめ童話として「母の友」に掲載されその後「こどものとも」向けに書き直されたものです。その時の言葉として渡辺さんは「苦心の末、すっきりまとめて編集部に提出しました。(多分、前段の粗筋調だったかもしれません)ところがです。担当の方が、いいにくそうに「まとまりすぎて、つまらなくなった」とおっしゃるのです。がっくりしたわたしはもとのストーリーをもう一度読んでみました。すると、どうしたことでしょう。書き直したものより生き生きしているではありませんか!長男の鉄太が2歳にもみたなかった時に、無心に遊ぶすがたを見ながら、わたしは、語りかけるように、愛情をこめてこの童話を書いたときのことを、あざやかに思い出しました」と語っておられます。

この文章には、父親としての限りない思いが込められていたのですね。

又その文を「堀内誠一さんが明るい明るい絵本にしてくださったのですが、そのころ堀内さんの長女の花子ちゃんが、うちの長男と同じ幼い年頃だったはずです。考えてみれば、幸せな父親二人の合作だったのかもしれません。」(絵本のたのしみより)と書いています。お二人ともすでに鬼籍に入られた方です。でもお二人の絵本は、今でもそしてこれからも色褪せる事なく、すべての子どもたちに形や言葉を超えたあたたかさや愛やユーモアといった見えない大きなものを包み込んで伝え続けてくれるものと思います。

 

幸せな父親二人の合作・・・何て素敵なことばであり、素敵な絵本なのでしょう。

おっとあぶないかわのなか

 

文 きむらゆういち
絵 みやにしたつや

福音館書店

 

大きな川の真ん中にある大きな島に、「草原で一番偉いのだ」といっているライオンの親子と「森で一番偉いんだど」といっているゴリラの親子が釣りに来てばったりはちあわせ。

「釣りだって俺が一番だ」と思っているライオンとゴリラは、お互いに相手に魚が釣れるたびおもしろくない。

だんだん島の端と端に遠く離れて釣り競争。

夢中になって釣っているうちに、雨が降り始めた。

そのうちどしゃぶりになり、気が付くと川の水がふえて島が小さくなっている。

しかたなくライオンとゴリラは島の真ん中にあとづさりすることになった。

川の流れが速くなり、島は更に小さくなった。2組の親子はどんどん近づくしかない。

小さくなった島の真ん中で顔を合わせたゴリラとライオンが「俺の方が偉いんだぞ!」と睨み合ったその時、いきなり足元の土が崩れて、4匹の親子はみんなで抱きしめ合って体を支え合うしかなくなった。

そこへ大きな木がゴーっと流れてきて4匹に向かって突進してきた。

もうだめだと思った瞬間、ライオンはその木を受け止め、ゴリラはみんなを木のところに投げ飛ばした。

気が付くと4匹を乗せた大きな木は広い川をゆっくりと流れていた。

木につかまり、流されながらライオンとゴリラは互いに功績を認め合った。

そして「じゃまたな」とライオンは草原に、ゴリラは森にと帰っていった。

「一番偉いのは俺だけど、あいつもすごいな」といいながら。

 

☆「ゆらゆらばしのうえで」や「どうするどうするあなのなか」を書いた木村裕一さんの最新作です。天敵の間柄でいつもは命のやりとりをしている動物たちが、一緒に同じ危機に遭遇した時、その垣根を超えて、一体になって危機に立ち向かっていくという、スリリングな、そして最後には友情や思いやりのあたたかさを感じさせてくれる絵本を書いて来られた木村さん。今回も同じセオリーでユーモアたっぷりに描いておられます。

森で一番偉いと豪語するゴリラのとうちゃん。草原で一番偉いと威張るライオンのパパ。

それぞれこどもの前では尚更偉そうにしています。自分から相手に挨拶するなんてことプライドが許しません。相手に魚が釣れれば「俺だって」とムキになります。「自分が一番偉いんだ」と思い込んでいるものにとっては「負けるものか」という競争心は、焦りややっかみや嫉妬や見下しや疎外心といった気持ちを厄介なほど刺激します。そういう闘争心ムンムンの人たち、あるいは国々が今、たくさん見えますよね。

しかし生死というような大きな視点から見ればそんなものは小さい小さい。

木村さんの絵本はそんな生死が迫る切羽詰まった状況下で、人は(動物は)どのように生きられるのか、生きようとするのか、またどのように生きてほしいかを描いているように思います。ライオンとゴリラは死の危機に直面して呉越同舟の仲になり、互いに持っている力を出し合って難を逃れます。

逆にいうと、みんなが持っているそれぞれに与えられている力を互いに出し合い、認め合って一緒に立ち向かう時に、はじめて危機を超えることができる、といえるようにも思います。

そしてその危機をみんなで超えた時、それまで「自分が一番だ」と思い込み、他を認めようとしない時には決して見えなかったものが見えて来るのではないでしょうか。

それは「一人ではない」という喜び、「共にいる」というあたたかさ、「共に創り出せる」という自信などでしょう。

そしてそれは「幸せ」や「感謝」や「平和」をもたらしてくれます。

私たちは、同じ地球丸という船に乗って凪も嵐も共に受け止めていく人類としてひとつになって平和を創り出していきたいものだと思います。みんなで幸福に生きていきたいと思うのです。

今、世界のあちこちで戦火があがり、たくさんの人々の涙が流れています。

あってはならない人類の危機です。地球丸の人々が心をひとつにして立ち向かわなければならない時だと思うのです。8月、平和を希求する月です。

かまきりのちょん

得田 之久 さく・え

福音館書店

 

朝、ツユクサの間から出て来たのは、かまきりのちょん。

ツリガネニンジンの下で足や触覚をなめて朝のお化粧。

その時テントウムシが目の前を横切った。後をつけて行くとテントウムシは突然羽を広げてとんでった。ちょんは ぽかん。

次に出会ったのは、糸をたらしたミノムシ。ちょんが飛び着いたら、ミノムシは大きく揺れてちょんは地面にまっさかさま。

そこはアリの群の真ん中。逃げろ逃げろ。

ようやく木の枝まで逃げられた。あぁおなかがぺこぺこ。

その時、すごい獲物が見えた。ちょんはカマを振り落としその獲物を捕らえた。

それは大きなトノサマバッタ。

おなかがいっぱいになったちょんは、のっそりと歩きだす。

そしてツルリンドウの間に入って行った。きっと眠くなったんだ。

 

☆今、子どもたちの生活のなかに、自然の植物や生き物がめっきり減りました。

環境が変化して、生活の中に自然がなくなった、ということもありますが、子どもの生活や遊びの中で直接的に自然に関わる実体験が少なくなっているようにも思います。

本や映像の中での知識はあって「虫博士」などと呼ばれる子どももいますが、そんな子でも実際に木の幹を這っているケムシを見て叫び声をあげたり、あっちこっち掘ってはダンゴムシを見つけても自分の手でさわることができなかったり。

年長児でもホタルの姿を想像することができなかったり、コアラやアライグマは知っていてもイモリなんてとんでもとんでも。

周りに自然があったとしても自分の生活の中で身近な虫や生き物との遭遇の体験がとても少なくなっているように思いとても残念です。

今回の「かまきりのちょん」は今から47年も前に「こどものとも」として発行された絵本です。でも時の隔たりは全く感じさせません。今日、そこで実際におこっているかのような臨場感があります。

しかし47年前、この絵本が初めて子どもたちの手に渡った頃は今よりカマキリは子どもたちのぐっと身近な生き物でした。作者はそのカマキリのほんの短い1日の1コマを美しい絵とシンプルなことばで写生のように描いています。観察絵本のような切り取りではありますが、これらの描写の中に、子どもが生き物の実態を驚きや衝撃、安堵、また知らなかったことを知る喜びを実感しながら入り込んでいかれる壮大なドラマ「ものがたり」として展開されています。

もともと自然界そのものが、私たちの知を超えたところにある壮大なドラマなのでしょう。ちなみに、先日子どもたちが森の中でカマキリの卵をいくつか見つけました。お部屋で飼いたい、孵化を見たいといいましたが、それだけは勘弁して欲しいと(だってひとつの卵から200匹くらいのミニカマキリがうじょうじょ出て来て、部屋のいたるところに入り込むんですよ)頼んで、森のなかでその誕生の時に出会うのを待っています。

子どもたちがすぐ身近にいる生き物との出会いを通して、自然の不思議さや命の営み、生きることの尊さを生活の中で感じていかれるような幼児期であって欲しいと願っています。

だるまちゃんとかみなりちゃん

加古里子さく/え

福音館書店

 

だるまちゃんが そとに あそびに いこうとしたら あめが ふってきました。

かさを さして でたら へんなものが おちてきました。 そして-

 

ぴか ぴか ごろ ごろ がら がら どしん -と ちいさな かみなりちゃんが おちてきました。

 

おちてきた かみなりちゃんは えん えん あん あん なきました。

だるまちゃんが なぐさめると かみなりちゃんは へんな まるいものを とってほしいと いいました。 そこで-

 

だるまちゃんは えい やっ! と とびはねました。

うんと とおくから かけてきて うんとこさ! と とびあがりました。

かさを もって ぴょんとこさ! と はねあがりました。

しかし どうしても とどきません。

 

そこで だるまちゃんの かたのうえに かみなりちゃんを のせて せいのびしてみました。

まだ まだ とどきません。

どうしたら よいだろう? と だるまちゃんも かみなりちゃんも かんがえました。

 

かんがえ かんがえ かんがえているうち-

 

だるまちゃんは いいことに きがつきました。

だるまちゃんは ねらいを さだめて かさを- ひょう! と なげました。

だるまちゃんの ねらいのとおり-

 

かさは あたって-

 

ぶらさがって しまいました。

だるまちゃんも かみなりちゃんも こまって かなしくなって べそを かいていました。

☆加古里子さんのだるまちゃんシリーズの一冊です。絵もお話もわかりやすくおもしろく、言葉のテンポもいいので加古さんの絵本を親子でお好きな方も多いのではないでしょうか。

加古さんは東大工学部を卒業されている工学博士なのですが、たとえばかみなりちゃんが落ちてきた時にだるまちゃんは絶縁体として長靴を履いていたり、木にひっかかった浮き輪をとろうと傘を弧を描いて投げてみる作戦を実行したり、だるまちゃんがかみなりちゃんと雲の上の世界に行くとそこは近未来的な世界であったり、と工学を学ばれただけあって、科学的な要素がそこかしこにちりばめられています。

ですが「だるまちゃんシリーズ」は科学絵本という訳でもありません。あくまでそれは絵本を楽しく読ませる一要素としてエッセンスにはなっていますが、重要な絵本のおかしみ、お話のおもしろさは、おそらくは加古さんの生来の人間性が絵にも文にも現れているためにこの絵本が楽しく多くの方に親しまれているのでしょう。

一度読んで絵本そのものを楽しんだ後、次は絵や文の細かい部分にも注目して読んでみると親子で楽しい会話がさらに広がると思います。

さんまいのおふだ

新潟の昔話
水沢 謙一 再話
梶山 俊夫 画

福音館書店

 

むかし、やまのてらに、おしょうさんとこぞうがすんでいたって。

てんきのいいひに、こぞうが「おしょうさん、やまへはなきりにいってくるでの」といってでかけた。

こぞうは、はなをさがしさがし、だんだんやまおくへいった。

ひとえだきっちゃぶっかつね、

ふたえだきっちゃぶっかつね、

みえだめにひがくれたって、

くらくなって、てらへかえるみちもわからなくなった。

「さあこまった」とおもうていたら、やまのむこうに、ちいさなうちがあって、ピカンピカンとあかりがみえた。

そこへいったら、しらがのおばばがひとりいて、いろりにひをたいていた。

「こんやひとばんとめてもらえるかの」というたら、おばばはジロリとみて、「おうとまれとまれ」というてとめてくれ、こぞうは、おばばのそばでねたって。

よなかに、こぞうがめをさましたら、おばばが、こぞうのあたまをペランペランとなめたり、おしりをザランザランとなでたりして、「こぞうはうまそうだな」なんていうていたって。

そのときザーッとあめがふってきて、とおりすぎていった。

あまだれが「テンテンてらのこぞう、かおみろ、かおみろ」というたって。

おばばをみると、くちはみみまでさけたおっかなげなおにばさだった。

「おばば、おれべんじょへいきたい」「おれのてのなかへしれ」「もったいない、おばばのてのなかになんかしれない、もうたれそうだ」「それならいってこい」とおばばは、こぞうのこしになわをつけて、べんじょへやったって。

こぞうがにげようとすると、おばばがこしのなわをキツンとひっぱって、「こぞうこぞういいか」という。

「まだまあだ、ピーピーのさかり」とへんじした。

また、「こぞうこぞういいか」「まだまあだ、ピーピーのさかり」とてもにげることができない。

すると、べんじょのかみさまがあらわれて、「このさんまいのふだをもって、はやくにげていけ」としろいふだとあおいふだとあかいふだをくれたって。

こぞうは、こしのなわをべんじょのはしらにしばって、そのふだをもって、そとへにげていった。

☆各地に語り継がれている有名な昔話ですね。いろいろなパターンがあるようですが、基本的にはこぞうさんが山奥で鬼婆につかまり、3枚のお札の助けを借りて逃げ帰るというお話です。この絵本は「新潟の昔話」の再話です。必ず共通しているのは小僧が逃げ出すきっかけに必ず便所に立ち寄るということ。

どうやらこれは仏教以前から日本にあった厠神信仰が影響しているのではないかと考えられるようです。また、紙が身代わりになったり鬼婆の邪魔をしてくれるのは呪術的な考えの影響からでしょうか。登場人物はお寺の和尚さんや小僧なのですが仏教的なことを感じさせる部分は意外とありません。民俗学的見地からこのお話を読み解くのも面白そうです。

この絵本は、方言や繰り返される擬音・擬態語(ピカンピカン、テンテンなど)でテンポ良く読める文章と、ユーモラスでありつつ非常に質の高い絵が、読む人を絵本の中に引きこんでいきます。

上記の引用紹介では冒頭からこぞうが便所から逃げる場面までですが、この続きも本当におもしろいです。ぜひこの絵本を手に取られて、どきどきはらはらしながら、こぞうと一緒に鬼婆から逃げてください。

ピッキーとポッキー

ぶん・あらしやま こうざぶろう
え・あんざい みずまる

福音館書店

 

朝、うさぎのピーッキーとポッキーが楠の木の根っこのお家で目を覚ましました。

今日はお花見にでかける日です。

お隣のもぐらのふうちゃんにも声をかけ3人でお弁当を作りました。

そのおいしそうなこと。いっぱいいっぱい作りました。

さぁ 出発!

菜の花畑を通り、れんげ畑でお花摘みをし、川を飛び越えたあたりで、もうふうちゃんはお腹がすいて、おむすびをばくりと食べていると、近くの土がむくむくとあいて、桜山に住んでいるふうちゃんのおばあちゃんが顔を出しました。

「そろそろ来るころだと思って待っていましたよ」と迎えてくれたおばあちゃんと一緒にトンネルを抜け、階段を上がると・・・・・。

まあ、見事な桜の花の下に友達がいっぱい集まって3人を待っていました。

ごちそうもいっぱい。

さぁ、みんなでお花見の始まりです。

☆ようやく春がきた!という喜びを感じさせてくれる一冊です。

シンプルなお話ではありますが、ことばのリズムや話のほのぼのとした温かさ、それに一ページごとに展開する絵の鮮やかな色彩が見事にあいまって、いつまでも楽しく印象に残る絵本です。ことばと絵がそれぞれの役目をきちんと果たしながらそれを互いに何倍にも膨らませ合って魅力的なものにしているように感じられます。

話の展開も新鮮で楽しく、子どもが好きになる要素がすべて備えられているものになっています。

信州の冬は長い上に、特に今年は大雪が降り、春が来るのをことさら待ちこがれるなかで、春の色や香り、あたたかさと明るさを思い描くとき、不思議にこのピッキーとポッキーの桜の下の華やかなピンクとおいしそうなお弁当が思い浮かんできました。

春がやってきた4月、思いきりその香りを吸い込み、色を吸収して喜びたいと思います。

この子どもが大好きな絵の作者、安西水丸さんは2014年3月19日にお亡くなりになりました。去年11月には、嵐山光三郎さんと「ピッキーとポッキーのはいくえほん」を出版されたばかりでしたので、読者としてはたいへん衝撃でした。

ユーモアとやさしさにみちたお二人の新刊絵本はもう見られなくなりましたが、読者の中にはいつまでも弾むような楽しいピッキーとポッキーのお話が躍動し続けることと思います。

はなをくんくん

ルース・クラウス ぶん
マーク・シーモント え
きじま はじめ やく

福音館書店

 

ゆきが ふってるよ。

のねずみが ねむってるよ、

くまが ねむってるよ、

ちっちゃな かたつむりが からのなかで ねむってるよ、

りすが きのなかで ねむってるよ、

やまねずみが じめんのなかで ねむってるよ、

や、みんな めを さます。みんな はなを くんくん。

のねずみが はなを くんくん、

くまが はなを くんくん、

ちっちゃな かたつむりが からのなかから

はなを くんくん、

りすが きのなかから はなを くんくん、

やまねずみが じめんのなかから はなを くんくん。

みんな はなを くんくん。みんな かけてく。

のねずみが かけてく、

くまが かけてく、

ちっちゃな かたつむりが からを おんぶして かけてく、

りすが きのなかから かけてく、

やまねずみが じめんのなかから かけてく。

みんな はなを くんくん。みんな かけてく。

みんな かけてく。みんな はなを くんくん。

みんな はなを くんくん。みんな かけてく。

みんな ぴたり。

みんな とまった。みんな うっふっふ、

わらう、わらう。おどりだす。

☆白黒の絵で冬の景色と動物が描かれています。

そしてみんな何かの匂いを感じ、その元へと駆け出します。はたして、その先にあったのは春でした。春が何なのかはぜひ絵本を読んで納得してくださいね。

その春だけはこの絵本の中で唯一、色がついています。私たちが感じる冬と春もこのようなことかもしれません。凍てついたモノトーンの世界が色溢れる世界へとだんだんと変わっていく。

3月はまさにそういう世界でしょう。私たちの身の回りにもいろいろな春が隠れています。鼻をくんくんして、目を凝らして、もうすぐそこまで来ている春を見つけてみたくなる、そんなテンポの良い絵本です。

ノウサギとハリネズミ

W・デ・ラ・メア 再話
脇 明子 訳
はたこうしろう 絵

福音館書店

 

 ある日曜日の朝はやく、いっぴきのハリネズミが、小さなドアをあけて、お天気はどうかなと顔を出しました。野原はエニシダの花ざかり。カウスリップが蜜のようにあまいつぼみをのぞかせていました。ハリネズミは腰に手をあてて、口笛でちょっとした歌を吹いてみました。どんな歌かですって?それはね、お天気のいい日曜日の朝に、ハリネズミが口笛で吹く歌としては、とくべつよくもないけど、そう悪くもないものでした。

 さて、口笛を吹いていたら、ふっといい考えがうかびました。すぐに家のなかへもどらないで、おくさんが洗いものをしたり、こどもたちの身づくろいをしてやったりしているあいだに、となりの畑までちょいとさんぽをして、イラクサの芽ののびぐあいを見てくるというのはどうでしょう。あのイラクサのしげみには、以前、おいしい甲虫が住んでいました。イラクサがのびてくれないと、甲虫だって出てきてはくれません。

 ハリネズミは、じぶんだけの細い細い小道をとおって、畑にはいっていきました。リンボクはもう花がおわって、みどりの葉っぱを広げはじめていましたが、そのしげみをぐるっとまわったところで、ハリネズミはノウサギにでくわしました。ノウサギもちょうど、じぶんのキャベツのぐあいを見に、朝はやく出てきたところでした。

 ハリネズミは頭をさげて、ていねいに「おはようございます」といいました。でも、すべすべの毛皮を着たノウサギは、日曜日の朝日をあびてつやつや光っているじぶんを、ひとかどの紳士だと思っていたので、あいさつをされてもフンと鼻をならしただけでした。

「こりゃまた、どうしたんだい?」と、ノウサギはいいました。「あんたが朝っぱらから出歩いているとはね。あんたは、夜こそこそする連中の仲間だとばかり思ってたよ」

「ちょいと、さんぽをしようと思いまして」と、ハリネズミはいいました。

「さんぽだって!」と、ノウサギは鼻をならしました。「そのひんまがった短いのを、あんたは足と呼んでいるらしいが、そんな足にでももうちょいましな使い道がありそうだがね」

 ハリネズミはむっとしました。たしかにハリネズミの足はまがっていますが、それは生まれつきであって、わざとそうしているではないのです。自分でもわかっていることに、はたからけちをつけられるなんで、とてもがまんできません。

 ハリネズミは全身の針をさかだてて、こういいました。「どうやらだんなは、ご自分のその足のほうが、わたしのこの足よりも、ずっと役に立つと思っておいでのようですね。そっちも四本、こっちも四本ですがね」

「そりゃそうさ」と、ノウサギは得意げにいいました。

「だったら、いわせていただきますがね」ハリネズミは、ビーズのように黒い目で、じっとノウサギを見ながらいいました。

「それはあまい考えというものですよ。よーい、どん、でかけっこをしたら、勝つのはまちがいなくわたしのほうです。何回やったっておなじですよ」

「かけっこだって!ハリネズミのだんな」ノウサギは、ひげをピンとそりかえらせました。「頭がどうかしたんだじゃないかい?正気のさたとは思えんよ。あきれたね。しかし、まあ、やるとしたら、何を賭ける?」

「そっちがブランデーひとびんに対して、こっちはギニー金貨一枚でどうです」と、ハリネズミがいいました。

「よし!」と、ノウサギはいいました。「それで決まりだ。さあ、はじめようぜ」「まあまあ、あわてないで」と、ハリネズミはいいました。「わたしはまだ、朝めしがすんでないんですよ。三十分まってから、ここへきてくだされば、わたしもかならずまいります」

 ノウサギはしょうちして、ちょいと準備運動でもしておくかと、朝露のおりた野原のふちを、元気よくはねまわりはじめました。

 ハリネズミのほうは、しゅっしゅっと足をひきずりながら、家へかえっていきました。

「いやはや、自信まんまんといったところだな」と、ハリネズミは歩きながら考えました。「どうなるか、見てるがいいや」

 家に帰りつくと、ハリネズミはせかせかとなかにはいり、真剣な目でおくさんを見つめて、こういいました。

「ねえ、おまえ、ちょっと手伝ってもらえないかね。いそぐんだ。何もかもほっといて、畑までいっしょにきてほしいんだよ」

「いったいなんのさわぎです?」と、おくさんがいいました。

「じつはな」と、ハリネズミのだんながいいました。「ノウサギのだんなと賭けをしてな、かけっこをしてこっちが勝てばブランデーをひとびんもらい、むこうが勝てばギニー金貨を一枚やるということになったんだよ。だから、見にきておくれ」

「まあ、おまえさんったら!」とハリネズミのおくさんはさけびました。「ばかだねえ!頭がおかしいんじゃないの?どうしたのよ?ノウサギとかけっこだなんて!ギニー金貨なんか、どこにあるっていうの?」「いいからだまってろ」とハリネズミのだんながいいました。「頭がまわらないやつには、わからないこともあるのよ。ぶつぶついったり、めかしこんだりはなしだ。ちびどもには、じぶんで身づくろいさせときゃいい。おまえはすぐにわたしとくるんだ」そしてふたりは、いっしょに出かけていきました。

☆この絵本はグリム童話がもとになっているお話しです。つまり西洋の昔話です。・W・デ・ラ・メアさんがユニークに再話したものですが、はたこうしろうさんの絵の愉快さがまたこのお話しにピッタリに感じます。また、この絵本は福音館書店のランドセルブックスシリーズの一冊で、小学生低学年くらいの子どもが、読んでもらっても、自分で読んでも楽しめる絵本として作られています。そのためか、脇明子さんの訳も登場人物(動物?)の個性がよく感じられる言葉遣いを意識しているようでお話しに感情移入がしやすいですね。

 ハリネズミが歩く様をご存じでしょうか?ヨタヨタと頼りなくて、とても素早く動ける歩みではありません。その歩く様子が可愛くて笑ってしまうほどです。そんなハリネズミですから、ノウサギにかけっこで勝てるはずはないのにハリネズミのだんなは勝負を挑みます。もちろんその時点で勝機を見出しているからなのですが、さてさてこのあとどうなるのでしょう。

 似たようなお話しに「うさぎとかめ」がありますね。日本古来の昔話ですが実は「うさぎとかめ」も室町時代くらいに西洋から伝わってきたのではと言われています。一般的に知られている「うさぎとかめ」では、かめは直向きにゴールを目指して歩みを止めないことでうさぎに勝ちます。そしてうさぎは油断をして昼寝をしてしまうことで負けてしまいます。

 しかしこの絵本のハリネズミのだんなは「頭」を使うことで自分の能力を過信したノウサギに勝つことになります。どのように「頭」を使うのかは絵本を読んで笑ってください。

 大人も子どもも、あははと笑って楽しく読める絵本です。弱者が強者に知恵や努力で勝つというのは読み手に爽快感を与えます。ずるい、卑怯だと思う人もまた読みとった思いの一つでいいのでしょう。はたさんの絵に癒されながら気楽に笑いながら読みたい一冊です。

ぶどう畑のアオさん

馬場 のぼる

こぐま社

 

 アオさんは、森のなかで くらしていました。

そこは みどりが いっぱい。

森は どこまでも ひろがっていて、

おくのほうには みずうみも あります。

 アオさんは、その森が とても きにいっていました。

 ある日、アオさんは、ゆめを みました。

 ゆめのなかで、アオさんは、

森のこみちを さんぽしていました。

「きょうも、いいてんきだなあ」

 ぽっくり ぽっくり あるいていくと、

森が おわって、はらっぱに でました。

「ああ、こんなところに でぐちが あったのか……」

 ひろいはらっぱの むこうに、ちいさなおかが みえます。

「なんだか、いいにおいが するぞ……。あのおかの うえかな」

 おかに のぼって みると、

そこは ぶどう畑でした。

「わあっ、ぶどうが いっぱいだー」

 アオさんは、うれしくなって、

ぴょーんと とびはねました。

 で、とびはねた ひょうしに、ゆめから さめたのです。

「あ、……」

 アオさんは、がっかり。

「あー、おいしそうな ぶどうだったのになあー」

 アオさんは、とびはねなければ よかったと、おもいました。

 それから アオさんは、ゆめのとおりに、

いってみようと おもったのです。

「このみちだ。ここを あるいて いったんだよ」

 アオさんは、森のこみちを、

どんどん あるいていきました。

 森が おわると、ゆめのとおり、はらっぱが ありました。

「やあ、アオさん どこへ いくの」

「やあ、ネコさん。

ぼくね、ゆめで みた ぶどう畑へ いくんだ」

「へえー、ゆめで みた……。

そりゃ おもしろい、ぼくも つれてって」

 ネコは、そういうと、アオさんのせなかに

ぴょんと もう、とびのっていました。

 アオさんは、ネコを のせて いきました。

 

『11ぴきのねこ』で有名な馬場のぼるさんの絵本です。

この絵本のアオさんはとことんマイペースな馬です。その何事に対しても超然、泰然とした姿は神々しささえ感じてしまう、と言ったら言い過ぎでしょうか。ナンセンスでユーモア溢れるお話の中で、自分らしくいること、みんなで楽しく生きるとはどういうことかを教えてくれている気がします。いえ、きっとアオさんは何も考えずただ絵本の中でぶどうを食べているだけなんでしょうけれどね(笑)

今年は午年。アオさんを少しでも見習って、動じることなく、自らを見失うことなく、みんなで仲良く楽しい年にしたいものです。

ふしぎなよる

原作 セルマ・ラーゲルレーヴ
再話 女子パウロ会
絵  こいずみ るみこ
女子パウロ会

 

真っ暗な晩、今生まれたばかりの赤ちゃんと母親を温めるため一人の男の人が「火をください」と家々を尋ね回っていました。

でもどこの家も起きて来ません。

遠くの野原に羊と羊飼いが眠っていました。ちらちらと火が見えます。

男の人が走っていくと、大きな3匹の番犬が吠え飛びかかろうとしましたがそのまま吠えもしないし飛びかかってもきません。

男の人が羊たちの背中の上を歩いて火のそばに近付くと、羊飼いは持っていた杖をその男の人めがけて投げ付けました。でも杖は横にそれてしまいました。

男の人は羊飼いに火を分けて欲しいと頼みました。

羊飼いがしぶしぶ承知すると、男の人は手で火をつかむと、自分のマントに包みました。

やけどもしないし、マントもこげないのを見て不思議に思った羊飼いはその男の人のあとについていきました。

すると冷たい洞穴で震えている赤ちゃんとお母さんを見つけました。

それを見た時、羊飼いはとてもやさしい気持ちになってふわふわの羊の毛皮を差し出しました。生まれて初めての気持ちです。

ふと気が付くと、まわりには不思議な光りと歌声に満たされていました。

羊飼いは誰よりも早くイエス様のお誕生を知り、その場に出会ったのです。

 

☆不思議なそして幻想的なクリスマスのおはなしです。

人々の集落から離れて一人、羊と生活している偏屈な羊飼いのおじいさんに起こった不思議な出来事。それは聖書のなかで、野原で野宿している羊飼いに天使が現れ、救い主イエスさまのお誕生を告げ知らせた。そして羊飼いたちは貧しい家畜小屋に導かれ生まれたばかりのイエスさまに出会った」という記事と照合します。

そして、赤ちゃんイエスさまに出会った羊飼いは、今までの生き方を変換するような恵みをいただくのです。

このお話は、おばあちゃんが孫に聴かせるおはなしとして展開しています。

原作は、19から20世紀に生き、母国の自然と生活を児童に伝える「ニルスの冒険」を書いたスエーデンのセルマ・ラーゲルレーヴです。女性で初めてノーベル文学賞を受賞した方です。

この話のなかで彼女はクリスマスは人間の人知や営みを超えた神様の偉大な業であり、そのこと自体が奇跡なのだということを言っているような気がします。

クリスマス物語には不思議な出来事や、奇跡がよく描かれていますが、その多くがイエスさまの誕生の光に照らされることによって絶望から希望に、冷たさからあたたかさに、憎しみから愛に、自己中心から他者と共に、断絶から融和に、無関心から思いやりにと生き方を変えられ復活していく奇跡です。

2000年以上前から人々はこの奇跡の希望を待ち望み、暗闇から光りある生活へと誘われて喜びのクリスマスをお祝いしてきました。

そしてクリスマスは、今年も一人ひとりの心のなかにその奇跡と復活を起こしてくれます。そのことを信じ、静かに、そして喜びのなかでイエスさまのお誕生を待ち望みたいと思います。

かなと やまのおたから

土田 佳代子 作
小林 豊 絵

福音館書店

 

家族総出で稲刈りが終わったある日、かなはおとうさんに頼んできのことりに連れていってもらいました。

まだうす暗い山のぼこぼこした道をおとうさんの車はゆっくり登っていきます。

お父さんは「これからいくのは秋のお宝がたくさんある山なんだ。お父さんしか知らないとこだで だれにも内緒だぞ」といいました。

曲がりくねった山道を登って行くと、いろいろな山の動物たちがまるでお宝を見張って いるように動いているのに出会いました。

「さあ、ついたぞ」

ずんずん山のなかに入っていくお父さんの後を、かなと弟は追いかけるようについていきます。

お父さんは早速きのこを見つけました。でもかなにはどこなのかぜんぜん見えません。

お父さんは落ち葉をどけてきのこを見せてくれました。かなは教えてもらったとおり大事にきのこをとりました。

かなは山のお宝のお返しにいっぱい集めたどんぐりやまつぼっくりを落ち葉の上に山盛りにおくと、また車に乗って山を下っていきました。

夕飯は、山のお宝の栗ご飯と、きのこ汁でしたよ。

 

☆この絵本は「こどものとも」11月号として配本されました。できたてのホヤホヤです。

この物語は、福音館書店が創立60周年記念として募集した「絵本にしたいお話」のたくさんの作品のなかから選ばれたものだそうです。

作者は「今は亡き父と共有した、心に残る思い出を自分の娘に語ってあげたい」との思いからこの作品を応募されたとのこと。

ページをめくったとたん、里の豊かな稲の収穫の風景が広がって、家族がみんなで働いている様子が描かれています。畑でみんなで食べるお昼ご飯。

青く高い空の下、稲の匂いが漂っているようななかでの昼ごはん。「家族がいる」ということをひしひしと感じさせてくれるうれしい一時でもあります。

私の家は農家ではありませんでしたが、祖父母の田圃にはよく通いました。一番好きだったのがこの稲刈りでした。幼い私にもできる束ねた稲を運ぶ仕事があってみんなにほめられたり、いなごや土の中をほじってツブをとったりして遊びました。

みんなが体を動かしてほがらかでした。

そんな情景と匂いがありありと思い出されるようなオープニングでした。

そして、色づいた山へと場面は移っていきます。

山の土の感触、小さな山の動物たちとの遭遇、山のお宝の発見、そして山の豊かな幸との出会い。ここでもドキドキワクワクと臨場感を感じさせてくれます。

そんな山のなかで感じるお父さんの存在の大きさ、自然に対する知恵や真摯な生き方の伝授。最後は山のお宝を持ち帰ったかなたちを囲んで、みんなで夕飯をいただく家族の笑顔があります。そのなかでかなは今日一日の満たされた思いをじっとかみしめているように描かれてこの物語は閉じられます。

この絵本は里と山とで生活する人々の暮らしのなかで育まれた豊かさのなかでの家族や親子の関わりが描かれています。それは限定された時空を超えて、実際に作者自身が体のなかにあたため続けて来た子ども時代の思い出が「出来事として」だけではなく、「宝物」として描かれているように思います。そこに方言や絵のあたたかさが加わってより感覚的な輝きを感じさせてくれます。

しかしこの思い出は作者だけの宝物ではなく、お父様にとっても子どもたちとのかけがえのない色あせることのない宝物としての思い出であったのではないかと思うのです。

互いに「共にいること」、「共に感じること」、「共に喜ぶこと」が親子の尊い宝物となるのでしょう。

そして作者のお父様への思い出は娘さんにもきっと宝物として伝わっていくことでしょう。

このような原風景を記憶のなかにもっている人、また追体験できる人はとても幸せだと思います。

このような自然との共生のなかでの原風景は今、なかなか得難いものになっていますが、子どもたちが家族、親、自然との強いつながりのある豊かな生活、思い出を体のなかに温存し育てていかれるような、そしてそのことを自分の子どもや孫に語り継ぎたくなるような幼児期の生活を積み重ねられるよう願ってやみません。

ともだちからともだちへ

アンソニー・フランス さく
ティファニー・ビーク え
木坂 涼 やく

理論社

 

何もすることがない、何かを一緒にする約束もないし、だれも会いにきてくれない」と何日も家にひきこもったまま、ため息をついていたクマネズミのところに、誰かから手紙が届きました。

「きみはすてきなともだちです。きみとともだちになれてほんとうによかったと思っています。きみはたいせつなたいせつなともだち。それをつたえたくててがみをかきました。またね。!」

クマネズミはうれしくて何回も読みました。でもだれからの手紙か名前が書いてありません。「この手紙を書いてくれた人をさがそう」と、クマネズミはスキップしながら外に飛び出しました。

まずカヤネズミに尋ねると、嵐で屋根が壊れて直すのに忙しくて手紙なんて書いていないといいました。クマネズミはカヤネズミがそんなに大変だったことを知りませんでした。二人は一緒に屋根をなおしました。

次にカエルを訪ねました。するとカエルは足を折って動けないでいました。クマネズミはカエルがそんな目にあっていることも知りませんでした。クマネズミはカエルの買い物を手伝いました。手紙はカヤやネズミからでもカエルからでもなさそうです。

今度はコウモリに会いに行きました。すると「誰も手紙をくれないのに僕が手紙を書く訳がない」とクマネズミは追い返されてしまいました。

そのばん、クマネズミは、もっと早くコウモリに会いに行ってあげていたらよかったなと考えました。そして、本当の友達って何だろうと思いを巡らせました。

次の日、パーティの招待状をたくさん持ったクマネズミはカヤネズミとカエルを誘ってみんなに届けました。

最後に、コウモリの家に行くと、招待状と一緒にもうひとつ特別な手紙を郵便受けに入れました。

パーティの日、元気になったコウモリが手紙を片手にみんなのところにかけつけました。
特別な手紙には何が書いてあったのでしょうね。


☆この絵本の原作の題名は「FROM ME TO YOU」で2002年にロンドンで発行されています。日本では2003年に出版され、2013年2月には18刷になっています。
たくさんの読者を得た絵本です。
私がこの絵本を読んだ時、ちょうど病を得て、家にじっとしている時でした。最初の頃のクマネズミのように「パジャまんま」(朝からパジャマのままで一日中ぼんやりしていること)の生活でした。
クマネズミのように「何もすることがなく、だれも会いにきてくれない」なかで、どんどん心が縮こまっていってだれも自分のことなんか気にもかけてくれていないのではないか、自分はいてもいなくてもいい存在なのではないかなどと気持ちが落ち込んでいきます。
そんな、体だけでなく気持ちも動かない、「独り」でうずくまっているような状態の時、この本を読んだのです。
ですから、すてきな手紙を読んだクマネズミが、パジャマを脱ぎ捨て、服を着て顔を洗い、歯を磨いてひげの手入れをし、スキップをしながら差出人を捜しに飛び出していく心情に共感し力づけられました。
一歩外に飛び出せば、自分を必要としていた人や出来事に出会ったり、自分を気遣っていてくれた人がいたことを知ったりと、どんどん自分の世界が自由に広がっていきます。
そして人に求めるばかりだった自分から、自分から人に働きかける自分へと変わっていかれるのだと思います。
ではクマネズミにその一歩を歩み出させた力とは何だったのでしょう。
それは自分をともだちといってくれる人はだれ?自分を好きといってくれる人はだれ?その人に会いたい!という一途な思いでした。それは同時に「自分は忘れられていなかった」、「ともだちといってくれる人がいた」、「独りではないんだ」という確認ができた喜びでした。
誰だかわからない、目に見えない人からの「きみは大切な大切なともだち。きみがいてくれてよかったよ。」というメッセージ。一歩踏み出させたものはたったそれだけのことばでした。でもそれは「愛しているよ。あなたは愛されているんだよ」ということばの重みを伝えています。
人が生きていく時、自分が愛されていることを確信できることは一番大きな力になります。そしてそのことこそ、人を愛したり人を思いやったり、人のために奉仕したり、幸せな世界を創るために尽力したりしていく根っこになります。
「あなたから私へ」ではなく「私からあなたへ「FROM ME TO YOU」」と転換することによって、それが連鎖となって「ともだちからともだちへ」と続いていきます。
どんな状態でも、自分が必要とされ、愛されている存在だと感じた時、希望と力が沸いてきます。
クマネズミがそれまでの暗い部屋から光に満ちた外に向かって飛び出したように私もまた新しい明るい光りのある生活が始まるように思いました。

この物語りは読み終わるとたくさんの深い示唆や意味をくみ取ることのできる内容ですが、楽しくやさしく読み進んでいかれる絵本です。それは色の明るさ美しさ、動物たちの表情の豊かさ、自由に広がる画面の空間などが大きな役割をしていると思います。
この舞台は森なのか、都会なのか、田舎なのか、現代なのか、昔なのか、正体不明なのもおもしろい。
作者たちのセンスと力量の光る作品だと思います。

つきのせかい

フランクリン・M・ブランリー ぶん
ブラディミール・ボブリ え
山田大介 やく

福音館書店

 

 ゆうべはつきをみましたか。

 おおきくてまるいつきでしたか。

 つきがまるいとき、つきでうさぎがもちつきしているようだとよくいわれます。

 つきにはくらいところやあかるいところがあるので、ちょうどそのようにみえるのでしょう。

 こんどつきがまんまるいとき、じっとみてごらんなさい。

 つきはとてもとおいけどとてもよくみえます。

 つきがボールのようにまるいことがわかるでしょう。

 つきには、あかるくひかるところやくらいところがあります。あかるくみえるところには、ふんかこうがたくさんあります。くらくみえるところはうみです。

 つきにいってみたとしましょう。
つきのうえはどんなふうになっているでしょうか。

 つきにはくうきがありません。
くうきがないとにんげんはしんでしまいます。
だからつきではうちゅうふくをきなければなりません。

 うちゅうふくのなかにはくうきがはいっています。

 つきではひのあたるところはとてもあついのです。
でもうちゅうふくをきていればあつくありません。

 ひかげにはいると、こんどはひどくさむくなります。
でもうちゅうふくをきていればさむくありません。

……

 にんげんがつきにいけば、やまやふかいわれめやふんかこうやうみをじぶんでたんけんすることができます。
 つきにいってたんけんすることをかんがえると、むねがわくわくしますね。
 きみもいつかつきのせかいにいけるかもしれませんよ。


☆福音館書店の科学絵本の一冊です。
暑かった夏も過ぎ、だいぶ涼しくなってくるとなんとなく空を見上げる余裕も生まれてくるのでしょうか。古来から人々は、夜空に浮かぶ月を見て想いを馳せ、宴を催し、歌を詠い、秋の感傷に浸ってきました。
9月、10月(旧暦の8月)になりますと「中秋の名月」と呼ばれる八月十五夜がきますね。今年(2013年)は9月19日です。
数年前には探査機はやぶさが戻ってきたり、つい先日もイプシロンロケットを発射するなど宇宙への夢や希望が膨らむ話が次々と伝わってくる現在ですが、そんな宇宙関連の出来事として大きく残る一つにアメリカのNASAによるアポロ計画、人類初の有人宇宙船による月の探索を挙げることに異論はないでしょう。
古来から見上げ続けてきた近くて遠い星である月へ人が降り立つ、ということは人類にとって科学的にも精神的にも非常に意義深く、当時遠い地上でじっとテレビを見つめる人々にとっても興奮する一瞬だったことでしょう。
その瞬間はご存じの通り1969年、アポロ11号によってもたらされるわけですが、この絵本が日本で最初に発刊されたのはその前年、1968年のことでした。今この絵本を読んでもその当時の人々が持っていたアポロ計画への興奮、希望が伝わってくるようです。また、科学絵本として当時として知りうる宇宙のことや月の様子をわかりやすく伝えてくれています。この絵本を読んだ子どもたちは胸の内で想像や夢が宇宙に届くほど膨らんだことでしょう。絵本の最後の一文がまたすばらしいですよね。
「きみもいつかつきのせかいにいけるかもしれませんね」
そう言われて希望が膨らまない子どもはいなかったことでしょう。
もちろん今読んでも非常に楽しく、宇宙への夢が広がる絵本なのはまちがいありません。
また、この絵本の絵がモノクロトーン調で、今風の言い方をすればとてもクール。60年代のグラフィックの特徴の一つだったのでしょうが、今見てもとてもセンス良くかっこいいのです。この絵だけでも大人も非常に楽しめること請け合いです。
ちなみに園にある「初版本」の表紙は、冒頭に載せた表紙の写真とはちょっとだけ違っていまして、「つきのせかい」のフォント(字形)がもっとかっこいいのです(なぜ変えてしまったのでしょうか?)。
個人的にはこの絵本は科学絵本の名作です。秋の夜長に、枕元でお子さんに読んであげれば目を輝かせて聞いてくれると思いますよ。

かぶさんとんだ

五味太郎

福音館書店

 

とっても てんきの いい あるひ

あかかぶさん とんだ

しろかぶさんも とんだ

てるてるぼうずくんも とんだ

たこさんが ついてきた

かみなりくんも ついてきた

うちゅうじんさんも ついてきた

みんな そろって とんでった

どこまでも どこまでも とんでった

それから さきは しらないよ

どこかの はたけに おちたかな

それとも おなべに おっこちて

ばんの りょうりに なったかな。

☆ナンセンス。その一言ですんでしまうようなお話しですが、実はそのナンセンスな世界を絵と文、絵本という形にして出力できる能力を持っている大人はどれほどいらっしゃるのでしょうか。子どもの空想は現実との垣根なしに無限に広がり、子どもたちはそれをまだ数少ない言葉で何とか伝えようとしたり絵で表現しようとしたりします。でも年を重ねるにしたがってそんな「嘘話」はだんだんと知識と常識のその奥に押し込めてしまう、ということもまた大人のみなさんならおわかりのことでしょう。
そんなことを思うと、子どもと一緒に絵本を読むということは大人にとっても童心に戻れる貴重な時間なのかもしれません。
この「かぶさんとんだ」はあかかぶさんを筆頭になんとなく形が似ている(ように描かれる)キャラクターが次々と空にとんでいきます。そのセンスあるユーモアと、次々にとんでいく爽快感。子どもも大人も笑ってしまうこと請け合いです。
そして最後は「しらないよ」と言いながらも、「はたけにおちたかなあ」「おなべにおちたから今夜の料理に出てくるかなあ」と読者(子どもも大人も)の想像をもっともっと膨らませるようにして閉じられます。
五味太郎さんの独特なグラフィックが夏の空や海、宇宙をシンプルに描き出していて、どことなく涼しげなのもいいですね。
子どもには「もう一度もう一度」とせがまれること必至の絵本ですが、短い作品ですので大人の方も一緒になっておもしろがって読んであげてほしい絵本です。
そして、もしかぶさんが晩ご飯に落ちてきていたら、もっと想像が膨らんで楽しくなれそうですよね。

ふるやのもり

 

瀬田貞二 再話
田島征三 画

福音館書店


むかし、あるむらのはずれに、じいさんとばあさんがすんでいました。ふたりはりっぱなこうまをそだてていました。
さて、あめのふるあるばんのこと、うまどろぼうが、そのこうまをぬすもうと、うまやにしのびこみました。そして、うまやのはりにのぼって、こっそりかくれていました。ところが、また、やまのおおかみも、このうまのこをとってたべようとおもって、うまやのわらやまのなかに、ひっそりとかくれていました。
そうとはしらず、じいさんとばあさんは、
「こんなばんに、どろぼうでもきたら、こわいなあ」と、はなしていました。
はりのうえのどろぼうは、「このおれが、おそろしいのか」と、たわしのようなひげづらをくずして、にかにかわらっていました。
すると、ばあさんが、
「じいさん、じいさん、おまえは、どろぼうよりも、なによりも、いちばんこわいものは、なんじゃ」とたずねました。
じいさんは、「そりゃ、やまのおいぬの、おおかみじゃ」と、こたえました。
どろぼうは、おおかみにこられたらかなわんとおもって、からだをちいさくしましたが、わらやまのなかのおおかみは、とがったきばをがちゃがちゃさせて、よろこんでいました。
ところが、こんどは、じいさんが、
「ばあさん、ばあさん、おまえがこのよで、いちばんこわいとおもっているのはなんじゃ」と、たずねました。
すると、ばあさんはこえをひそめて、
「こんなふるいいえは、かぜふきゃふるう、あめふりゃしみる。おりゃ、どろぼうよりも、おおかみよりも、ふるやのもりが、いちばんこわい」と、いいました。
じいさんは、おおきなこえで、
「そうじゃ、そうじゃ。どろぼうよりも、おおかみよりも、このよでいちばんこわいものは、ふるやのもりじゃなあ」と、いいました。
さあ、これをきいた、はりのうえのどろぼうと、わらのなかのおおかみは、
「このよで、いちばんこわいという、ふるやのもりというもんは、どんなばけものだろう」と、きもがふるえるほどこわくなって、からだをちぢめておりました。



☆さてさて、この後、どろぼうとおおかみはどうなるのでしょうか?ふるやのもりとはいったい何なのでしょうか?
日本に古くからある民話を瀬田貞二さんが再話した絵本ですが、なんと登場する人(動物)たちが生き生きとしていることでしょう。
もともと笑えるお話が、瀬田さんの表現、言葉、そして田島征三さんの大胆かつユーモア溢れる絵によって、一流の落語家の寄席を見ているかのような絵本になっているように思うのです。まるで目の前でそのお話が起こっているかのような錯覚さえ、大げさではなく感じられる絵本です。
このお話の重要なポイントになる「お家の雨漏り」は現代ではあまり体験はできなく、子どもにはピンとこないことかもしれません。でも、感じることはきっとできるはず。田島さんの雨漏りの絵を見て、ただ「なんかおもしろそうだぞ」と思うだけでもこのお話に入り込んでいけるのではないでしょうか。実際に雨漏りするお家はそんな悠長なことは言っていられないでしょうけれど。
7月は多くの地域で梅雨が明けますが、雨の降る音がするちょっと暗い中、子どもと一緒に読んで楽しい気持ちになれる一冊です。

かなえちゃんへーおとうさんからのてがみー

原田宗典 ぶん
西巻茅子 え

福音館書店

 

かなえちゃんへ。

こういうふうにいうと
キミはおこっちゃうかもしれないけど、

キミはまだまだチビだ。

からだもこころもチビだ。
だから

いっぺんにいろんなことをしようとしちゃいけない。

なんでもいいから、だいすきなことをひとつ、

キミはみつけるべきだ。それは、

すなばのよこっちょにさいてる、はなかもしれない。

いけのコイかもしれない。

せんせいかもしれない。

おともだちかもしれない。

とにかくキミがじぶんでみつけるんだ。

がんばってね。


☆6月には世界の多くの国で「父の日」があります。
1909年、アメリカのワシントン州に住んでいたソノラ・スマート・ドッドさんが、男手1つで自分を育ててくれた父を讃えて、教会の牧師に父の誕生月である6月に礼拝をしてもらったことがきっかけと言われています。
その後「母の日」という日が新たに認知されていることを教会の説教で聞いていた彼女は、「父の日」もあるべきだと考え「母の日のように父と神に感謝する日を」と牧師協会へ嘆願したところ、6月第三日曜日が「父の日」と制定され、後々世界中に広まっていきました。

この絵本は、小説家である原田宗典さんが、娘にあてた父親の思いを綴る形で書かれています。
母親と子どもとの関わりを描いた数ある絵本と比べますと、一見、ただの励ましのような、説教のような、突き放しているような、そんな印象を受けるかもしれません。またそれもあながち間違いとも言えないでしょう。
ですが、父親という存在、父親の愛情というものは母親のそれとはまた違っていいのではないでしょうか。
抱え込み庇護することが母性的な愛情であるとすれば、社会の中で我が子が生きていけるようにするのが父性的な愛情といえるかもしれません。
それは愛情としてどちらの方が優れている・劣っている、暖かい・冷たいということではなく、我が子を思い、慈しみ育てる気持ちには変わりありません。
そして子どもの成長にとってはどちらも必要な愛情なのです。
そんな目線でこの絵本を読んでいただければ、きっと原田さんの、お父さんの深い愛情が伝わってくるのではないでしょうか。
小さい子には少し難しいことが綴られていますが、この絵本の言葉は、子どもたちにも何かしら感じることがあるように思います。
また、今すぐは何もわからなくとも、心の隅に残って、いつか思い出してほしい気がします。
短くも、西巻さんのかわいらしい絵と一緒に、説教のような文言とは裏腹に楽しく読めると思いますよ。
できればお父さんが、子どもに読んであげてほしい一冊です。

この絵本のように、お父さんの愛情は表面的にはわかりにくいものかもしれませんね。
でもお父さんの子どもに対する愛情はお母さんに負けていないことでしょう。
この絵本の父性的な愛情を感じつつ、父の日の「感謝」をしたいと思います。

クリスマス・イブ

マーガレット・W・ブラウン ぶん
ベニ・モントレソール え
やがわ すみこ やく

ほるぷ出版

 

まよなかのことでした。

それも クリスマスの そのばんでした。

こどもたちは とこについても ねむれません。

ねたふりをしたまま さっきから みみをすませていたのです。

となかいや キャンディーや おほしさまや てんしや 3にんのはかせたちが めにうかびます。

やがて ひとりのこが いいだしました。
「ねむるまえに みんなで したへいって クリスマス・ツリーにさわって おねがいごとをしよう」


☆クリスマスイブ、というと賑やかで華やかで人が溢れて楽しそうで、とイメージしがちです。
この絵本のクリスマスイブはそんな騒々しい世界ではありません。
寝静まった静謐な家の中を四人の子どもたちが足音を忍ばせて静かに探索する様子を通して、子どもたちのクリスマスに対するわくわくとした気持ちを描いています。
そして、その静かな家の外からは讃美歌を歌う声が聞こえてきます。
子どもたちは窓にかけより、雪がしんしんと降る中、ランプ一つの明かりで歌う大人たちの姿を見つけます。
自分たちが見てはいけない世界を見てしまったかのような気持ちになり、こどもたちはあわててベッドに戻っていきます。
その静かにも美しい世界に、子どもたちはとても崇高なものを感じ取ったのかもしれません。そしてそれは、クリスマスという特別な日にこそ感じられることだったのでしょう。

作者のマーガレット・W・ブラウンさんは42歳で亡くなるまで100冊以上もの絵本を世に出した有名な作家ですが、この作品が遺作となりました。そしてこの作品にピッタリの絵をベニ・モントレソールさんが描きました。オレンジを基調とした暖かくも落ち着いた色彩で、マーガレットさんの言葉を見事に絵に表してくださっています。
賑やかなクリスマスもよいものですが、静かに過ごす中でこの子どもたちのようなクリスマスを迎えられたら、それはとても素敵なことのように思えます。

しんしんと静かに雪が降る夜、クリスマスを待ちこがれる子どもと一緒に読みたい一冊です。

へんてこ へんてこ

小野かおる 文・絵

福音館書店

 

みたてをたのしむ

だれかが雲をみて
「あっ、きょうりゅう」
と言ったとします。
その人は、雲のかたちを
きょうりゅうにみたてたのです。
物や事を、なにかほかのものに
なぞらえて表現することを
「みたて」といいます。
つまり発想の転換です。
ものごとをよくみて、
想像し、創造するあそびです。

小野かおる
(前書きより)

☆日常の中にあるいろいろな物を利用してそれらの写真や切り抜きなどを絵の中で様々に使い(いわゆるコラージュといわれる芸術の創造技法)、「みたて」を遊ぶ絵本です。
最近、売れ行きが非常に伸びている書籍に「キノコの図鑑」があるそうです。購入層は小学生が主だとか。もともと植物の図鑑を出した出版社が、アンケートはがきの「おもしろかったページ」にほんの数ページしか載せていなかった「キノコ」が多いことに着目し、キノコ専門の図鑑を出したところ子どもたちにヒットしているのだそうです。
もちろん子どもたちが山に登ってキノコを探したり比べたりするために本が売れているとはあまり考えられないでしょう(本がきっかけになってキノコを探す子はいると思いますが)。他の植物に比べてキノコはどこか暗いイメージがつきものです。かさの形や生えている姿も千差万別、色彩も土や木肌とそっくりな地味なものから、どこからこの色を持ってきたのかと驚くほど派手なものまで様々。さらにカビと親戚だとか毒だとかの言葉の響きを聞けば、おどろおどろしいものに惹かれてしまう子どもの習性がこんなおもしろそうな生き物を放ってはおかないのでしょう。
この絵本もキノコと同じように、大人が一般的に「美しい」「かわいい」と感じるような色彩や雰囲気とはかけ離れています。色も濁りじめっとした湿り気を持っているようなバックの絵の中に、それ単体では綺麗だったりかわいかったりしそうな品々ですらどこの異世界からきたのかしらと思ってしまうような異様さを持たせて描かれています。まさにタイトル通り「へんてこ」な世界がページごとに広がります。
子どもに読んであげたとき、ちょっと気持ち悪いな、と思ったのですが、子どもたちは「おもしろい」と目を輝かせて「へんてこ」な世界を心から楽しんでいました。
今ちょうど秋です。落ち葉や木の実、紅葉に大人は「綺麗」を求めてしまいがちですが、実はこの「へんてこ へんてこ」の絵本に描かれる色彩は秋の景色に近いような気がします。こんなおどろおどろしい世界が、「みたて」の中では実はすぐ身近にもたくさんあるのでしょう。「へんてこ」な世界が子どもたちの目にはそれもまた楽しいものとして日常の中に見えているのかもしれません。そういう感性を高めることが、実は綺麗なもの、美しいものを見つける感性へとつながっていくような気がしないではいられません。
ちなみにこの絵本の最後のページには絵本の中でコラージュとして「つかったもの」が記されています。どこに何が使われていたか確認してみれば「日常」と「へんてこ」の世界がより深みを増して繋がり広がっていくことでしょう。

かえるのつなひき

儀間比呂志 さく・え

福音館書店

 

かーまかーまむかし、おきなわじまにあったはなし。
あがりむらのたんぼのいねにわるいむしがわいたと。
ほっておいたらむしはしまじゅうのたんぼにひろがりかねんありさまだった。
そのことをしんぱいしたおうさまは、
「はやくむらぜんたいのいねをやきはらえ!」と、むらびとたちにめいれいしたのよ。
むごいむごい!といってもおうさまのめいれいだ。
「あすはみんなでひをつけよう」

さあ、それをきいてたましぬかしたのはおなじむらにすむかえるたちよ。
「にんげんはくいもんがなくなったら、きっとおれたちをとってくう!」
「ちゃすがやー」
「ちゃすがやー」
それで、としよりのものしりがえるのところへそうだんにいくと、
「あぜみちでおまつりさわぎをすればよい。むしはおどろいてみずにおちてしぬだろう。それにはつなひきがいちばんだ」


と始まる、沖縄出身の版画家、絵本作家の儀間比呂志さんの作品です。
沖縄は芸能の島といわれるだけのことはあり、みんなお祭り好き。旗を立て、太鼓をうち鳴らしながら様々な行事が行われます。
綱引きもそんな中で欠かせない行事の一つです。
沖縄の綱引きは一本のつなを引き合うのではなく、雄綱と雌綱の二本を連結して引かれます。もともとは農耕儀礼として雨乞いや害虫除けをし、次の年の豊作祈願のために農事の区切りとなる旧暦6月から8月に多く行われました。今でも大小様々な綱引きが島の各地で行われています。那覇の大綱引きは綱の長さ(200m)が世界一なんですよ!
そんな沖縄の綱引きの様子を、かえるたちのユーモラスなお話に仕立てて楽しませてくれている絵本です。
この絵本が描かれたのは1967年だそうですが、半世紀近くになる現在(2012年)でも綱引き自体の様子はほとんど変わらず人々が楽しんでいるのが沖縄の伝統文化のすばらしさでしょう。
文化と言えば、沖縄は言葉も独特です。うちなーぐち、とも言われますが、沖縄の方言がこの絵本にもちょこちょこと出てきます。また「~よ」「~さ」というような独特な語尾とアクセントも沖縄の言葉がわからない人にはちょっと難しく感じるかもしれませんね。
でもそこは、なんとなく、でいいのだと思います。意味がわからなくても文章の前後や中身から推察して「こんな意味かな」とこどもと一緒に考えてみるのもまた楽しいのではないでしょうか。

先日も幼稚園ではスポーツディにみんなで綱引きができました。子ども同士も大人同士も、とにかく一生懸命、意地になって綱を引っ張ります。勝つと飛び上がるほど嬉しく、負けると「もう一回」と言うほどくやしいのは、なぜなんでしょうね。
大勢の人間がみんなで息を合わせ、全身を使って相手と争う楽しさが単純に短時間で味わえるからなのかもしれません。また、それを見ている人も思わず汗を握って応援してしまう魅力が綱引きにはあります。

みんなで力を合わせることの魅力と沖縄のどこか陽気な雰囲気が、躍動感に満ちたかえるたちから伝わる絵本です。

わにわにとあかわに

小風 さち ぶん
山口 マオ え
福音館書店

 

だれも いない だれも いない。
いえのなかは しずかです。
いねむり していた わにわにが
きんいろの めを あけました。
 ぎろり。

ずる ずり ずる ずり
 だれもいないな。
ずる ずり ずる ずり
 しずかだな。

”クィ…”
 だれ?

でてきたのは、あかい わに。
わにわには だいどころへ いきました。
あかわには カシャカシャ ついてきました。

たべるかな?

たべたぞ たべたぞ

わにわには
おふろばへ いきました。
あかわには
カシャカシャ ついてきました。

おゆを ためます。
じゃばじゃばじゃば じゃばじゃばじゃば

およぐかな?

ぴしっ!しゅるるん

「オー!ララー」

わにわには もぐります。
あかわにも もぐります。

おふろから でると、
ならんで からだを ふきました。

 ぐにっ ぐにっ ぐなっ ぐなっ
 くにっ くにっ くなっ くなっ

それからくちをあけて
ひなたぼっこをしました。

とぷとぷ
ゆうひが しずみます。

いちばんぼしが ひかりました。

あかわには カシャカシャ
かえってゆきました。


☆小風さちさんと山口マオさんのコンビで描かれる「わにわに」シリーズの一冊です。
この「わにわに」シリーズは私も大好きな絵本です。
文中にたくさん出てくる擬音語擬態語の妙とわにわにの個性、版画の色彩の鮮やかさとユーモラスさ、それらが本来のワニという動物が持つ恐ろしいイメージとのギャップで深みを持ち、さらに面白く感じさせているように思います。
そもそもワニが人間の家で人間の生活をしている時点でナンセンスな訳ですが、だからと言ってこの絵本のわにわには普段から服を着ていたり2本足で歩いたりするわけではなく、よくある動物を使ったキャラクターのような見た目の擬人化はあまりされていません。堅そうな肌を見せつつはいつくばってずりっずりっと動く様はワニのまま。
でも、そうやってわにわにが歩く場所は板張りの廊下だったり、ハサミを使って怪我をして泣きながら包帯を巻いたり、エプロンをつけて料理をしたり、けん玉をしたり、コップに牛乳を注いで飲んだりと、普通に人間の行動をとる、ワニというキャラクターを大事にしたやりすぎない擬人化がお話を楽しくさせています。

さて、今回のわにわにでは、小さなワニのあかわにが登場します。
突然の来客であるあかわにに戸惑いながら、わにわにはあかわにのお世話をしたり、様子を観察したり、一緒に活動したりします。
そして日が沈むとあかわにはどこかへ帰っていってしまいました。
この様子ってどこかで見たことあるな、と思っていたのですが、今年の夏休みに「ああ!」と判りました。
夏休み、お盆で親戚が集まって子ども同士が久しぶりに顔を合わせるとちょうどこんな様子になりませんか?
普段一人っ子だったりする大きいお兄さんが、訪れてきた小さい子に戸惑いつつも、自分の後についてくる小さい子をお兄さんぶって面倒を見たり一緒に遊んだり。そして夜になってそのいとこが帰ってしまうとまた静かな家に。なんとなく寂しいようななんとなくホッとしたような、そんな気持ちになりながら…
もしかしたら、小風さんや山口さんもそんな体験を通して、このお話を作ったのかもしれませんね。
こんな風に考えたら、何だかわにわにがもっと可愛く思えてきました。

わにわにシリーズは他にも、『わにわにのおふろ』『わにわにのごちそう』『わにわにのおでかけ』『わにわにのおおけが』があります。
どれも楽しいお話です。

あつい あつい

垂石眞子 さく
福音館書店

 

あつい あつい

どこかに すずしいところは ないかな

ひかげだ ひかげだ ああ すずしい

だれ!

ぼくの ひかげで すずんでいるのは

ぼくだって あついんだよ

すずしいところを さがそうよ

ひかげだ ひかげだ

ああ すずしい

だあれ!

あたしの ひかげで すずんでいるのは

あたしだって あついのよ

すずしいところを さがしましょう

ひかげだ ひかげだ

ああ すずしい

だれだ!

わしの ひかげで すずんでいるのは

わしだって あつくて あつくて たまらんよ

どこかに すずしいところは ないかなあ

ん? なにか おとが きこえるぞ

ザザザ…

ピシャピシャ…

うみだ!

ざっぶーん!

すずしーい

☆あついあついと口をついて出る8月ですね。
この絵本は表紙から始まって背景はずっと真っ黄色です。
じりじりと焼きつくような太陽に照らされて熱くなっている地面。
そしてその中をだらだらと汗をかきながら、ペンギン、アザラシ、カバ、ゾウたちが涼を求めてひかげを探して歩きます。
読んでいるこちらまで「あついあつい」と言いたくなるような中、
最後に真っ青な海と空、白い波間と雲が現れます!
その爽快感!
動物たちと一緒になって海に飛び込んだような気持ちで、思わずこちらもニンマリ。
そんないかにも夏らしいお話が、テンポの良い語り口とマンガチックな表情の動物たち、次のページに何が出てくるのかなというワクワク感で、とても軽快な絵本になっています。
また、テンポが良く短いということもあるのでしょうか、「もう一回読んで」と子どもに言われることも多い絵本です。
夏の海に飛び込むような気持ちで、子どもと一緒に何度でも楽しみながら読んであげてほしい一冊です。

幼稚園の庭には小さな森があります。森の中はたくさんのひかげでやはり涼しくて、子どもたちはそこで楽しく遊んでいます。
プールの水の中の涼しさとはまた違う気持ちよさを体いっぱいで感じています。
ひかげも、水も、それぞれにまた違った涼味と言えるでしょう。
暑い中だからこそ、みなさんもいろいろな涼しさを見つけてみてはいかがでしょう。

ブルブルさんのあかいじどうしゃ

平山暉彦 作
福音館書店

 

ブルブルさんとあいぼうのねこのドミニック

きょうはうみへドライブです

ブルンブルンブルブルブルブル…

さあ しゅっぱーつ

ブルブルブルブル…

まちをぬけて、

ブルブルブルブル…

のはらをこえて、

ブルブルブルブル…

はしをわたって、

ブルブルブルブル…

あめだ!

ドミニックかさにはいって

ブルブルブルブル…

トンネルだ たすかった

ブッルンブッルンブッルン

きついさかみちも

ぐんぐんのぼる

わあ、とおれないぞ

こまったな

バックオーライ

ブルブルブルブル…

あっちのみちをいってみよう

ブルルルルルルルル

ブルブルブルブル…

うみがみえてきたぞ!

ブルブルブルブルブルンプスン

ついたよドミニック

さあおひるにしよう


☆作者の平山暉彦さんは大人向きのクルマのイラスト集も手がけるイラストレーターさんです。
それだけに、この絵本に登場する赤いオープンカー(1928年頃のMGミジェットというイギリスの車と思われます)や小道具が細かく描かれていて、クルマが好きな方なら思わずニヤッとできること請け合いです。
今時の道行くクルマは静かだったり、モーターのようにスムーズな音だったりするものが多いのですが、この絵本に描かれる古いクルマはブルブルブルブル…とどこか鼓動のような音(と振動)を出して走っていきます。
その生き物のようなクルマと躍動感いっぱいの絵、ページをめくるたびに次々に変わる景色を見ていると、オイルの焼ける匂いや羊や牛の農場の匂い、雨の冷たさやトンネルの暗さ、陽の光で暖かくなった潮風やカモメの鳴き声までも肌に感じられるようです。
ちなみに、何十年も昔のクルマというものはいつ何が起こるかわかりません。また今のクルマのように何でも楽ちんで快適というものでもありません。いつどんな理由で止まるかもわからない道具に搭乗者は身を任せ操り、共にその道の先にある目的地を目指して走り到着した時の喜びといったら、到着して当たり前のドライブとは全く違うものでしょう。
ドライブというよりもツーリングと言った方が似つかわしい、短いお話の中で起こるちょっとした冒険がドキドキワクワクの気持ちにさせてくれるお洒落な雰囲気の絵本です。
子どもも大人も難しいことを考えず、まさにオープンカーを走らせているような爽快感の中で一緒に読んで楽しめる一冊です。

もりのなか

マリー・ホール・エッツ ぶん/え
まさき るりこ やく
福音館書店

 

ぼくは、かみのぼうしをかぶり、あたらしいらっぱをもって、

もりへ、さんぽにでかけました。

すると、おおきならいおんが、ひるねをしていました。
らいおんは、ぼくのらっぱをきいて、めをさましました。

「どこへいくんだい?」と、らいおんがききました。
「ちゃんとかみをとかしたら、ぼくもついていっていいかい?」

そしてらいおんはかみをとかすと、

ぼくのさんぽについてきました。

二ひきのぞうのこどもがみずあびをしていました。
ぞうのこたちはぼくをみると、みずあびをやめました。

「まっててくださぁい」ぞうのこたちは、みみをふきながらいいました。

それから、一ぴきはせーたーをきて、もう一ぴきは、くつをはいて、

ぼくのさんぽについてきました。

きのしたに、二ひきのおおきなちゃいろのくまがすわっていました。くまたちは、ぴーなっつのかずをかぞえたり、じゃむをなめたりしていました。

「ちょっとまって!ぼくたちもいっしょにいきますよぉ」と、くまたちはおおきなこえでいいました。

そしてくまたちは、ぴーなっつと、じゃむとおさじをもって、

ぼくのさんぽについてきました。

しばらくいくと、おとうさんかんがるーとおかあさんかんがるーが、あかちゃんに、とびかたをおしえていました。

「わたしたちは、たいこをもっていきますわ」と、おかあさんかんがるーがいいました。「それに、あかんぼうも、ちっともじゃまにはなりませんよ。ぽけっとにいれていきますからね」

そして、あかちゃんは、おかあさんのおなかのふくろにとびこんで、かんがるーたちも、

ぼくのさんぽについてきました。

としとったはいいろのこうのとりが、いけのそばにしゃがんでいました。あんまりじっとしているので、いきているかどうかふしぎになって、ぼくは、そばまでいってみました。

すると、こうのとりはたちあがって、ぼくをみました。こうのとりは、なんにもいいませんでしたが、ぼくが、みんなのほうへもどっていくと、このみょうなとりもついてきました。

ちいさなさるが二ひき、たかいきのうえであそんでいました。

けれども、ぼくをみると、あそぶのをやめてさけびました。
「ぎょうれつだ!ぎょうれつだ!ぼくらは、ぎょうれつだいすきだ!」

そして、二ひきのさるは、きのうろから、よそいきのようふくをだして、

みんなといっしょに

ぼくのさんぽについてきました。

すこしいくと、せのたかいくさのかげに、うさぎがいるのをみつけました。

「こわがらなくっていいんだよ」と、ぼくは、とおくからうさぎにいいました。「きたけりゃ、ぼくとならんでくればいいよ」
それで、うさぎもやってきました。

ぼくは、らっぱをふきました。らいおんはほえました。ぞうは、はなをならし、おおきなくまは、うなりました。かんがるーは、たいこをたたき、こうのとりは、くちばしをならしました。

さるは、おおきなこえでさけびながら、てをたたきました。けれどもうさぎは、なんにもいわないで、ぼくのさんぽについてきました。

しばらくいくと、だれかがぴくにっくをしたあとがありました。そこで、ぼくたちは、ひとやすみして、ぴーなっつやじゃむをたべました。また、そこにあった、あいすくりーむやおかしをたべました。

それから、”はんかちおとし”をひとまわりしました。

それから、”ろんどんばしおちた”もやりました。

それから、かくれんぼうをしたら、ぼくがおにになりました。
みんな、かくれました。でもうさぎだけはかくれないで、じっとすわっていました。

「もういいかい!」と、ぼくはいって、めをあけました。
すると、どうぶつは、一ぴきもいなくなっていて、そのかわりに、ぼくのおとうさんがいました。おとうさんは、ぼくをさがしていたのです。

「いったいだれとはなしてたんだい?」と、おとうさんがききました。
「どうぶつたちとだよ。みんな、かくれてるの」
「だけど、もうおそいよ。うちへかえらなくっちゃ」と、。おとうさんがいいました。「きっと、またこんどまでまっててくれるよ」

それでぼくは、おとうさんのかたぐるまにのって、かえりながらいいました。「さようならぁ。みんなまっててね。またこんど、

さんぽにきたとき、さがすからね!」


☆子どもの想像力は、現実との垣根なく無限に広がります。
そしてその想像力は、あらゆる物を擬人化し、自分の友だちにしてくれるのでしょう。

この絵本で出てくる「もり」の雰囲気は、絵が独特なモノトーンで描かれていることもあって決して明るくはありません。
木々が光を遮っている「もり」が持っている暗さ、不気味ささえ感じさせられます。
その暗い「もり」で、「ぼく」はラッパを持って動物たちの行列の先頭に立ってさんぽを楽しみます。
その行列の光景と、列に次々に加わる動物たちがとてもユーモラスに書(描)かれていることで、読者もいつの間にか「もり」のちょっと怖いなという雰囲気を忘れ、「ぼく」と一緒に「次は何が出てくるんだろう」とワクワクしながら散歩を楽しんでいることに気づきます。
この、暗いもりの中で広げられる愉快なお話というギャップがまたこの絵本の持つ魅力の一つになっているのはないでしょうか。

また、このナンセンスとも言えそうなお話が、どこかあたたかく懐かしく感じることができるのは、誰しもが、子どもの時に「ぼく」と同じように想像と現実が入り交じる世界で散歩をしていたことを想い出させてくれるからかもしれませんね。

そしてその楽しいもりの中の世界に「ぼく」を探しにきてくれたのは、「おとうさん」。
先月ご紹介した絵本の『くさはら』では、子どもを不安の中から見つけてくれたのはおかあさんでしたが、このお話では、子どもの楽しい世界から現実へと導き出してくれたのはおとうさんでした。
「ぼく」が動物たちと楽しい時を過ごし、一緒にかくれんぼをしていたことを聞いたおとうさんの返事の素敵なこと。
「きっと、またこんどまでまっててくれるよ」
それを聞いた「ぼく」は安心して、おとうさんに肩車をしてもらってお家へ帰ります。動物たちに別れを言いながら。
なんとなく、読者も寂しく感じてしまうおしまいですが、「ぼく」の最後の言葉通り、作者のマリー・ホール・エッツさんはちゃんと続きも準備してくださいました。
『またもりへ』
次に「ぼく」がもりへ行ったとき、どんなことが待っていてくれるのでしょうか。
こちらも合わせて読んでみていただきたい一冊です。

くさはら

加藤幸子 ぶん
酒井駒子 え
福音館書店

 

おとうさんとおかあさんとおにいちゃんとかわにあそびにいったゆーちゃん。
ちょうちょをおいかけてきづくとくさはらのなか。

はみがきみたいにすっとするにおいがしました。

ながいはっぱ、まるいはっぱ、ギザギザのはっぱがあしをこちょこちょ。

せのたかいくさにとりかこまれてしまいました。

うごいたらピシッとはっぱがほっぺたをぶちました。
なきたくなったのでめをつむりました。
きゅうにいろいろなおとがいちどきにきこえてきました。
ザワザワ。カサコソ。ジージー。ピッピ。キリリ コロロ。
とおくでかわもシャラシャラうたっています。
ここってどこなんだろう。

「ゆーちゃん、なにしてるの?」

めをあけるとおかあさんがわらっていました。
おかあさん、どうしてここがわかったの?


☆おとなにとって「くさはら」は自分より背の低い、何も感じない相手になっているのではないでしょうか。
でも、この絵本を読むと「ああ、そうだったよね」と誰しもが感じたことのあるこどもの視点、感性が思い出されます。
この絵本の主人公、ゆーちゃんは家族と一緒に河原にきました。
ちょうちょを追いかけているうちに、くさむらに入っていってしまいます。
そのくさはらの中で、普段の生活では得られにくい触覚、嗅覚、視覚、聴覚を通して、ゆーちゃんは不安になっていきます。
そこから助け出してくれたのが、おかあさん。
ゆーちゃんと一緒にドキドキしながら読んでいた読者も「ああよかった」とホッとしてしまいます。
そして、おかあさんに見つけてもらえたゆーちゃんの気持ち。
『おかあさん、どうしてここがわかったの?』
ゆーちゃんにとって自分よりも背の高いくさはらの中は不思議な怖い場所であり、自分ひとりが誰からも隔絶されてしまったかのような場所になっていたことがうかがえます。
そして、それはその前のおかあさんの言葉「ゆーちゃん、なにしてるの?」という言葉ともつながっています。
おかあさんにとってはそこは何のことはないただのくさはらの中だったということ。
上から見ていればゆーちゃんがどこにいるかすぐわかり、まさかゆーちゃんがこんな冒険をしているとはおかあさんは微塵も思ってはいなかったことでしょう。
おとなの視点とこどもの視点の違いをはっきりと感じさせてくれます。
春になり、夏に向かって草花もどんどん伸びている今日この頃ですが、身をかがめてこどもの目線の高さでくさはらを、庭を、家の中を、世界を改めて眺めてみてはいかがでしょうか。
おとなになって忘れていた感性を思い出させてくれるかもしれません。

また、さいごにゆーちゃんを見つけてくれたのがおかあさんだったという点も、おとなが読んだときのこの絵本の優しさ、郷愁につながっていると思います。
ゆーちゃんのおとうさんはおにいちゃんと川で遊んでいました。もしゆーちゃんを見つけたのがおとうさんだったら、話が何か大事のようにも感じてしまいますよね。ゆーちゃんがいなくなった、大変だ、探さなきゃ、というところでお父さん登場というような。
そうではなく、こどもといつも一緒にいて、「普通」の生活を感じさせてくれるのはいつの時代もおかあさんだということ。そしてこどもが困ったときに目を開けると、何気なく笑ってくれているのがおかあさんなのでしょう。
いつもそばにいてくれる存在、そしてこどもをいつも見ていてくれるおかあさん。
5月は「母の日」があります。そんな母の愛を考えながら、母の日を迎えられたらと思います。

はるかぜさんといっしょに

えとぶん=にしまきかやこ
こぐま社

 

あるひ、こんちゃんはにわのさくらのきのしたで、えほんをよんでいました。
すると、はるかぜさんがさあーっとふいてさくらのはなびらをとばしました。
「かぜさーん、はなびらどこまでとばすの」
と、こんちゃんがきくと、
「さあ、どこまでかな」と、はるかぜさんはこたえました。

「ついていってみようか」
こんちゃんはしろにあいずをして、はなびらのあとをついていきました。
じめんからかおをだしたへびも、うしろからついていきました。

たんぽぽすみれ、つくしにわらび。
のはらは、はるがいっぱいでした。
ながいぎょうれつが、のはらをよこぎっておかをのぼっていきました。
「ああ、なんていいきもちなんでしょう」
みんなはむねいっぱいにはるのくうきをすいこみました。

はるかぜさんは、きのうえでおひるねをしました。
こんちゃんとしろとへびは、
きのしたでおひるねをしました。
あとからおかをのぼってきたまちのひとたちも、
「あ~ぁ」と、おおきなあくびをして、
じぶんのすきなところで、よこになりました。

まちのひとたちはみんな、おかのうえでおひるねをしました。
おひさまはおきていて、にこにこしながらみんなのねがおをみていましたよ。


☆絵も文も春の色彩に溢れた絵本ですね。
読んでいると春の日差し、さわやかな風、野山の香りに包まれているような心地になって、こちらまでこんちゃんにつられてのんびりとおひるねがしたくなってしまいます。

こんちゃんを筆頭に、しろ(犬)、へび、パンやさん、はなやのおばさん、さかなやのにいさん、バスをまっていたひとたち、みちをあるいているひとたち、じどうしゃにのっているひとたち、まどからかおをだしたひとたち、まちのひとたちが、みんなで風に吹かれるさくらのはなびらを追いかける一団になっていく様は、春という季節だけが持っている、誰しもが外に出かけたくなるような、ウキウキとした楽しい気持ちになる様子が表れているようです。
そして、おひるね。
花の咲く野原でおひるねが似合うのも、春という季節そのものですよね。
そんな“春らしさ”をみんなに連れてきてくれるはるかぜさん。
みなさんも空を見上げて地面を眺めて、はるかぜさんとのんびりお出かけしてみませんか。

うさぎのおうち

マーガレット・ワイズ・ブラウン文 ガース・ウイリアムズ絵
松井るり子訳
ほるぷ出版

 

春、こうさぎが自分の家を見つけて歩きます。
こまどりは枝の上に家があります。でも、ここだとこうさぎは落っこちてしまう。
かえるの家は沼地の湿った泥の中です。こうさぎだったら沼の底に沈んじゃう。
グランドホックは木のウロに棲んでいます。でもこうさぎは入れてもらえない。
こうさぎがかけてかけていくと、うさぎに出会いました。
「あなたの家はどこですか?」とたずねると
「ここですよ。この岩陰の石をくぐった穴の中が私のお家。」とこたえました。
そこでこうさぎが「入っていい?」といいました。
するとうさぎは「ええ」とこたえてくれました。
ここがこうさぎのお家になりました。


☆何ときれいな絵本でしょう。
1ページごと、まるで1枚の絵画のようです。
春の空気が漂ってくるような美しい背景、それに鳥や動物、カエル、蝶など春になった喜びのなかで生き生きしい生命力にあふれて動いています。
ストーリーはシンプルで、こうさぎの家さがし、すなわち自分探しの物語ですが、詩のような短いことばが、絵とぴったり合って、読み手に必要以上のことを伝えてくれます。すばらしい絵本だと思います。
それもそのはず。なにしろこの絵本は子どもの心を奥深くまで知り尽くしていたマーガレット・W・ブラウンの文と、「しろいうさぎとくろいうさぎ」のガース・ウイリアムズの絵が一体となった傑作なのですから。
それに、訳もこの2人の世界を本当によく現した美しい文章です。
「えだがめぶき 
     はながひらき
        ひながかえる
           そんなはるに
              こうさぎがみちをかける」
歌いたくなるような躍動感があります。
このストーリーと絵とことばがうまく解け合って、春の喜びと生命の輝きを私たちに感 じさせているのだと思います。
ガース・ウイリアムズはこの後、名作「しろいうさぎとくろいうさぎ」を作っています が、その絵本はまるでこの「うさぎのおうち」の二匹のうさぎたちのその後を描いているような感じがするのですが思い過ごしでしょうか。

長い冬が終わり、すべての生き物があたたかい日の光のなかで動きだし、自然を謳歌し 生命力を輝かします。
 冬が長ければ長いほど、寒ければ寒いほど、その春の息吹はあこがれであり希望です。
その希望のなかで、人は新しい居場所を求めたり、自分探しを始めたり、他の人と一緒に生きたくなったり、大きくなりたいと願ったりします。特に小さい子どもたちは、その思いが顕著です。神様がくださったこの自然の恵みに呼応してすべての人々が幸せを希求し、自分の居場所を見つけられたらどんなにいいでしょう。

おおきな木

シェル・シルヴァスタイン 作 絵
ほんだ きんいちろう 訳
篠崎書林

 

りんごの木とちびっこは大の仲良し。毎日一緒に遊んだ。木もちびっこも幸せだった。
けれど、ちびっこは少しおとなになりりんごの木はひとりぼっちの時が多くなった。
ところがある時、その子がやってきて「買い物をしたいからお金が欲しい」といった。
木は「私にあるのは葉っぱとりんごだけ。りんごをもいで町で売ったらどうだろう。そうすれば楽しくやれるよ」
そこでその子は木によじ登り、りんごをもぎとってみんな持っていってしまった。
木はそれでうれしかった。
それから長い時がたち、その子がまたやってきていった。
「あたたかい家が欲しい。」
木が言った。「私の枝を切り、家をたてることはできるはず」
そこで男は枝を切りはらい、自分の家を建てるためみんな持っていってしまった。
木はそれでうれしかった。
また、長い時が流れて、ひょっこり男が帰って来ていった。
「年はとるし、悲しいことばかり。船にのって遠くに行きたい。船をくれるかい」
「わたしの幹を切り倒し船をお作り」と木はいった。
そこで男は木の幹を切り倒し船を作って行ってしまった。
木はそれでうれしかった。
長い年月が過ぎ去って男がまた帰ってきた。
木は「すまないねぇ。何かあげられたらいいんだが。わたしには何もない。今のわたしはただの古ぼけた切り株だから」といった。
すると今やよぼよぼになった男は「わしは今すわって休む静かな場所がありさえすればいい。」それなら、と木は精一杯背筋をのばし「この古ぼけた切り株が腰掛けて休むのに一番いい。さあぼうや、こしかけて休みなさい」男はそれに従った。
木はそれでうれしかった。


☆この絵本はアメリカのシンガーソングライターでもあり、マンガ家でもあり、イラストレーターでもあるシェル・シルヴァスタインが、1964年に書いた児童書です。
シンプルな輪郭だけの絵に、余白も含めて「すべてのもの」が描かれ語りかけてくるこの表現は彼の感性と芸術性それに思想性を余すところなく読み手に伝え、ただごとならぬものを感じさせます。
このものがたりから読み手の立場や年齢などによって読み取るものは違うかもしれませんが、訳者の本田錦一郎は“「愛とは第一に与えることであって受けることではない」というエーリッヒ・フロムの思想が中心を貫いている”といいます。
“「与える」ことは人間の最高の表現なのであり「与える」という行為においてこそ人は自分の生命の力や富や喜びを経験することになる”というこの思想を、シェルは一本のりんごの木が一人のともだちに自分の肉体をけずって、木の葉を与え、果実を与え、枝を与え、幹を与え、すべてをささげるという行為で表現しています。
そしてそれが自己犠牲ではなく、喜びなのだといっています。
この木の存在は時に子どものために自分の体をけずり、すべてを与えようとする母性に似ています。親は子どものためにこれと同じような思いと行為をすることが可能です。
そう思うと、このものがたりは親と子の人生の姿を見せてくれているような気もしてきます。親は子どもが自由に外の世界で幸せに生きることを願い、自分のさびしさに耐えながら待ちます。自分の都合のいい時だけ戻ってくる子どもをも受け入れ、自分の精一杯できることをして子どもの思いを叶えてやりそれが喜びになります。
すべてを与え尽くしても、まだ子どものために何ができるかを考えます。
私も親として、ここまでできるかどうかは自信ありませんが心情的にはわかるような気がします。
同時に、自分が子どもだった時、確かにこうして親に愛されたということを思い出すのです。もう両親共にこの世にはおりませんが、最後の命の輝きさえも私に与えて逝ったような気がするのです。
そして、人生の節々、自分の都合のいいように、親に無理難題をふっかけて苦労させたな
と心苦しく思うのです。
でも、この本で、「木はそれでうれしかった」ということばに何回も出会い救われる思いももらいました。
人生のなかでこんな木の存在がどの人にもあってほしいと思います。
港から航海に出て長い間波にもまれ、ぼろぼろになった船が、時を経てまた港に戻り、ドックで傷を癒し気力を再び得て航海に出発するように、“もどれる場所”“ぼろぼろになった自分をさらけ出せる場所”“受け入れてもらってまた出発できる場所”は人が生きていく時に絶対に必要なのだと思います。
この本は世界30カ国語に訳され、たくさんの人たちに感動を与えてきました。(こんなに人気がでたのを一番驚いたのが作者自身だったとか)
今、残念ながらこの訳本は絶版となっています。他の人(村上春樹さん)の訳で販売していますが、図書館にはこの本田訳の本がまだあるはずですので、どうぞご一読なさってみてください。

クリスマスのまえのばん

クレメント・ムア 詩 / ターシャ・テューダー 絵
中村 妙子 訳

偕成社

 

クリスマスの前の晩、おとうさんが物音に気づいてベットから起き上がり、窓から外を見ると、8頭のトナカイが小さなソリを引っ張って遠い空からやって来るのが見えた。

トナカイのたずなを引いているのは・・「サンタだ!サンタがやってくる!」

どっさり荷物を積んだソリが屋根の上に降りたかと思うと、煙突からドシンとススだらけのサンタが落ちてきた。

サンタは背中の袋から次々におもちゃを出して並べ始めた。

そのサンタ、いたずらっぽく目が光り、バラ色の頬にえくぼが2つ、鼻はぷっくりサンランボのよう、わらうたんびにぷるんぷるんつきでたおなかがよく動く。

ほんとにゆかいなこびとのおじいさん。

おとうさんは思わずクスクス笑い出した。

サンタはひとつひとつの靴下にプレゼントを入れるとあっという間に煙突から屋根へ。

ヒラリとソリに飛び乗るとソリは夜空を遠ざかる。

だんだん小さくなっていくソリを見送るとうさんは、サンタの声をきいたんだ。

「みなさん クリスマスおめでとう!」


☆1822年のクリスマス、クレメント・ムアは自分の子どもたちのためにこの詩を作ってきかせました。ムアは大学の先生で、むずかしい専門(神学)の本を何冊も書き、ヘブライ語の辞典の編纂もした人ですが、自身が体験してきた子ども時代のクリスマスのワクワクするような思いを、その躍動感と喜びの旋律のなかで子どもたちに伝え、また一緒に喜びを分かち合いたかったのでしょう。
また、この世のなかで一番大切なことを父として子どもに伝えたかったのだと思います。希望と喜びの象徴でもあるサンタクロースは見えないけれど必ずいると信じることによってのみ光として存在します。
そして幼い時にそれを信じることができた人は人生を通して希望と幸福を身につけることができます。
幼い時に「サンタを見たよ」、「サンタと会ったよ」、という父親の話は、子どもたちにとっては絶対的な真実として、見えないものを信じるに足るものとなったことでしょう。
父親ムアから子どもたちへの「幸せな生き方」のプレゼントだったともいえると思います。200年近くたった今では、この詩がアメリカ中の子どもたちの愛誦の詩として広く親しまれているということですが、世界や時代が変わっても、変わらないもの、変えてはならないものは人々の心に生き続けて繋がっているのではないかと思います。
 このムアの物語詩は80年後の1902年に「オズの魔法使い」の挿絵で知られたフィリアム・W・デンスロウが、姪のために絵をつけて絵本に仕立てあげました。
その絵本は1996年に福音館書店から、渡辺茂男さんの訳で出版されています。
そこではサンタはセントニコラスとなっています。
絵は時代を超えてとてもモダンで美しく、子供たちの想像力をふくらませてくれること請け合いの絵本となっています。
さて、話を今回の絵本に戻しますと、この絵本は1975年にターシャ・テューダーが絵をつけました。
ターシャ・テューダーと言えばアメリカの画家として最も親しまれ、毎年アドベントカレンダーには彼女の絵が多く選ばれています。余談ですがホワイトハウスのアドベントカレンダーも彼女の絵だそうです。
先年亡くなりましたが彼女の絵本や独特の生き方、生活の有り様は日本でもたくさん紹介されています。この絵本の中にも、ターシャのお家の中や愛犬なども描かれており、細部にわたってこの詩を自分のものとして表現しているかが感じられ、絵をみているだけで彼女がどんなにかムアの詩がお気に入りだったかが分かります。
そして、その絵本が1980年に中村妙子さんの訳で日本で出版されました。
中村妙子さんの文は、原文を越えて詩的であり、ことばの一文字一文字に意味があります。美しい流れるような旋律は読む者に楽しいリズムを創造させ、まるでムアの息遣いが伝わってくるように生き生きしく響きます。
両方の「クリスマスのまえのばん」を読んで、やはり古典とよばれるものにはそれだけのインパクトがあるんだということを実感いたしました。
その時代に最も活躍した画家が絵をつけ、秀でた訳者が訳したムアの物語詩。
時代を超えてたくさんの人々の子ども時代を豊かに支えてきたこの物語詩と絵本の重み。

私も子どもたちに、この美しい旋律を損なうことなく生き生きと読んで、その心を伝えていきたいなと思っています。

あかいぼうしのゆうびんやさん

ルース・エインズワース 作
河本 祥子 訳/絵

福音館書店

 

庭の動物たちは、手紙を書いたりもらったりするのが大好きでした。

でも郵便やさんがいないのでとても不自由をしていたのです。

そこで手紙を配達してくれる郵便やさんを決めることになりました。

子猫、リス、犬が自信たっぷりに立候補しました。

コマドリも郵便やさんになりたかったのですが、みんながとても立派に見えたので黙っていました。

けれど、郵便やさんは3人もいたら多すぎます。

そこで代わりばんこに郵便やさんをやってみて、誰が一番いい郵便やさんになるか試してみることになりました。

まず子猫が雌鳥に手紙を配達します。

でも子猫は鳥の羽を捕まえようと飛び上がって、手紙をどこかにやってしまいました。

次はリスです。

リスはカシの木に棲んでいるフクロウに手紙を届けます。

ところが濡れた枝に手紙を置いたまま、大好きなハシバミを食べていて大事な手紙をビショビショにしてしまいました。

最後は犬の番です。

犬は土手に住んでいるノネズミに手紙を届けることになりました。

でもいつも骨を埋める樫の木の根元に来ると、土を掘り返して手紙をどろだらけでクシャクシャにしてしまったのです。

3人とも郵便やさんにはなれません。

みんなが集まって相談している時、コマドリが木に止まっているのに気が付きました。

コマドリは胸をはって「郵便やさんになりたい」とみんなにいいました。

そしてコマドリは手紙をどこへでも、間違いなく、そして親切に配達しました。

すばらしい郵便やさんのコマドリにノネズミのおばあさんは赤い帽子を作ってくれました。コマドリはそれがとても気に入って赤い帽子をいつもかぶって配達しています。


☆福音館書店から10月に出版された新刊本です。
しかし、このおはなしはイギリスの作家、ルース・エインズワースが1970年に発表したもので、今から40年以上前の作者の生きた時代背景が描かれています。
その雰囲気をそのまま伝えてくれているのが、河本幸子さんの絵です。
見開きの最初のページには、紙面全体に動物たちの生活の拠点である森をバックにした広い農場と農家、そして庭に棲む動物たちの居場所が描かれています。
牧歌的なゆったりとした中に人と動物が共存しているあたたかさを感じることができます。そしてこれからどんな話が始まるんだろうとワクワクしてきます。
ストーリーは動物たちの世界の多少シニカルな物語ですが、ここに登場する動物たちの組み合わせが庭に棲む動物、森に棲む動物、空に棲む鳥、など多様でおもしろい。
そしてそれぞれの動物の特徴を実によくとらえて表現しています。
けれども、それらの動物たちが自分の目の前にいる実際の子どもたちの個性とよく重なって見えてきます。
コマドリが、他の動物たちに圧されて、「自分も郵便やさんになりたいよ」と言えないという場面も、「いる、いる。こういう子が。」と思います。
でもそんなコマドリが状況や人の動きをじっと観察していて、自分が必要とされた時に胸をはって「わたしがやります」といいきることができるようになっていくところに子どもの成長や自己容認の姿を見いだすのです。
動物たちの手紙を欲しい、書きたいという欲求から始まって、ことがらや解決の方法をみんなで考え合い一番いい方法をみつけていくという過程も、何やら子どもたちの生活のなかに見られるような気もします。
最後のページには、最初の見開きと同じ絵が描かれています。
でもひとつだけ違うところがあります。
子どもといっしょに見つけてみてください。

やぎのアシヌーラ どこいった?

渡辺 鉄太 さく

加藤 チャコ え

福音館書店


ものぐさのスタマティスじいさん、ぼうぼうになった庭の草をどうにかして楽に刈る方法はないものかと考えて、小さな雌ヤギのアシヌーラを町の市場で買ってきました。

アシヌーラは働き者で、たちまちのびた草をすっかりきれいに平らげました。

そこにやってきた農夫は、ビール3本とひきかえにアシヌーラを貸してもらい黒いちごのやぶをきれいにしてもらいました。

そこに羊飼いがやってきて、ひつじかいパイとひきかえにアシヌーラを借り枯れ枝の皮をばりばり食べてもらいました。

今度は果樹園の男がやってきてアシヌーラのふんを肥料にしたいとりんご一樽とひきかえに借りていきました。

そこへチーズつくりのおばあさんがやってきて、うちの雄ヤギと一緒にしたら子やぎをはらんでお乳をたくさん出すだろう、とチーズとひきかえにアシヌーラを借りていきました。さて、いつの間にかまた庭が草ぼうぼうになったスタマティスじいさんはようやくアシヌーラのことを思い出しました。

「アシヌーラはどこいった?」ときくと農夫は「羊飼いに貸したよ」。

でも羊飼いのところに行っても、果樹園にも、アシヌーラはいません。

やっとチーズつくりのおばあさんにたどり着きました。おばあさんは「チーズもたんとできたことだしヤギは返すよ。だけどヤギがスタマティスじいさんのものならばこのチーズも、ビールもパイもりんごもタスマティスじいさんのものさ」といいました。

スタマティスじいさんはほくほく顔。

それからもアシヌーラはあちこちに借り出されてはおみやげを持ち帰ってきたそうです。


☆この絵本は福音館書店「こどものとも」10月号として出版されました。
作者の渡辺鉄太さんと絵を描いた加藤チャコさんはご夫婦で、今オーストラリアに住んでおられます。
なるほど、このおおらかなお話といい、ユーモラスなそしてしゃれた美しい色彩のやわらかみのある絵といい、牧歌的とでもいいましょうか、どことなく雄大な自然のなかの生活観が滲み出ています。
ご夫妻の住むメルボルンの田舎ではヤギの貸し借りは珍しいことではないそうで、借りたお礼は絵本のなかのようにお金ではなく生産物などで物々交換することが盛んだとのこと。
現代の都市化された日本ではこういう物語りは出て来ないかもしれませんね。
日本でもかつて地方ではヤギをかっている家がたくさんあって、草原や河原などに繋がれて草を食んでいました。その絞り立てのお乳はあたたかく濃厚で甘みが強く、ちょっと青臭かったのを覚えています。 
子どもにとって、ヤギは大きくもなく小さくもなく、ちょうど扱いやすい(でも後を向くとドンと押し倒されたりしますけれど)また感情移入ができやすい動物で、よく子どもがその世話をしていたように記憶しています。
今ほとんどヤギをかっているという話はきけなくなりました。
この絵本のアシヌーラを通して描かれた、豊かな大地に暮らす人々のコミュニティと生活をある意味でなつかしくまた、うらやましく感じながら、次々に展開していく繰り返しのものがたりの心地よさと大地の匂いが伝わってくるような絵のなかで絵本の醍醐味を楽しませてもらいました。

しりたがりやのふくろうぼうや

マイク・サラー作/デービッド・ビスナー絵
せな あいこ訳

評論社

 

アウリーは何でも知りたがりやのふくろうのぼうやです。

夜になるとアウリーぼうやはおかあさんにたずねます。

「お空にはどれくらいお星さまがあるの?」

おかあさんが応えます。「たくさんあるのよ」

「でも一体いくつ?」と聞くアウリーぼうやにおかあさんはにっこり笑って「数えてごらん」といいました。

そこで、ぼうやは数え始めます。朝になるまで数えても数え切れません。

ぼうやは疲れ切っておかあさんの羽に抱かれて眠ってしまいました。

次の夜も、ぼうやはお空はどれくらい高いのか、空にむかって飛んでいきました。

けれどどんなに高く飛んでも空はまだまだ高いのでした。

次の夜は海にはどれくらい波があるのか浜辺まで飛んでいって波の数を数えました。

おひさまが上るまで数えてもまだまだ海には波が残っていました。

次の夜、ぼうやはおかあさんに「海はどれくらい深いの?」とききました。

するとおかあさんは「お空の高さと同じくらい深いのよ」と応えました。

その夜、ぼうやはじいっと考え事をしていました。

そして、おかあさんに言いました。

「ぼく、おかあさんが大好きだよ」

「どれくらい?」おかあさんがききました。

「おそらの高さと同じくらい。海の深さと同じくらい大好き」といって抱きつきました。

「これからもたくさんだっこしてくれる?」ときくとおかあさんは
「ええ、海の波の数と同じくらい、お空の星の数と同じくらい」と応えるのでした。

そして、そのとおりにしてくれました。


☆子どもは時々周りの大人に対して質問攻めにする時があります。
ひとつひとつのことが気になって聞きたくなるのです。
その質問は種々雑多で、時には崇高な哲学的なことやむずかしい科学的なこと、真理に関することなども混ざっているので聞かれた対象にとっては戸惑うことも多々あります。そんな時、真面目な方は辞書やインターネットなどでしっかり調べて答えるかもしれませんし、そうでない方は「知らないよ、そんなこと」「そんなことどっちでもいいでしょ」なんて応えているかもしれません。
このアウリーぼうやのように自分の身の回りにある深遠なる真実のなかの「たくさん」「とっても」ということをもっと確かなものとして知りたいんだという子どもたちもいることでしょう。
星の数?何かで調べれば大体の数は教えられるかもしれません。
でもそんな大きな数を教えてもらっても子どもには尚更理解できないでしょう。
そんな時、ふくろうのおかあさんはどうしたか?
「たくさん」で納得しないぼうやに「じゃあなたが数えてごらん」と言うのです。
ぼうやは夜通しかかって空の星、波の数を数えますが、数え切れないくらいたくさんだということを知ります。
空の高さも飛んでも飛んでも届かないくらい高いのだということを自分が飛んでみて知ります。
おかあさんはそのぼうやに最後まできちんと相手をしてあげます。
そして、海の深さが空の高さくらいなのだとおかあさんから聞いた時、空を飛んだ時の実感によって海の深さを想像でき「知」を得ることができました。
そして、それらが熟成されておかあさんの愛が深く広いことに気づいてつながっていくのです。
子どもがする抽象的な問いに、抽象的な応えをしても満足はしませんし、子どもの本当に知りたいこととは的はずれなものになるかもしれません。
ふくろうのおかあさんのように、子ども自身に体験させ実感させるということが一番分かりやすいでしょうし、また満足できるものとなるはずです。
そのくらい大人が先々まで見通す力とそれを子どもの要求にフィットさせていく度量を備えたいものです。
この絵本のテーマは多分、おかあさんふくろうとアウリーぼうやの親子の情愛の深さ強さやさしさなのでしょうが、私はふくろうおかあさんの愛にあふれた知恵深さに感心させられてページを繰りました。

カボチャばたけのはたねずみ

木村晃彦 作

福音館書店

 

おじいさんが大事に育てている畑のカボチャたちも、もうすぐ収穫できます。

そこに「はたねずみ」の一家がやってきておいしそうなカボチャを見つけると、おとうさんが実を切り取り、こどもたちが種を運びだしてお日様にあてて乾かしました。

種を運び出したところは小さなお部屋になりました。

その晩はおかあさんが作ったカボチャのスープをおなかいっぱい食べて小さなお部屋で休みました。

次の日もその次の日もおとうさんはカボチャを切り取り、ベットやドアを取り付け、こどもたちは種を運び出して働きました。

部屋はだんだん広くなりました。

そしておかあさんが山ほど作ったカボチャのコロッケや、ホクホク煮や、種のからいりをみんなで食べました。

カボチャの葉が黄色くなり、種もカラリと乾いてできあがった快適な家のなかに全部しまうことができるとおかあさんは祝いにカボチ
ャケーキを作りました。

そのケーキを食べようとしたその時、ドッサドッサと足音がしてきました。

おじいさんが収穫にきたのです。カボチャの実を収穫しながらだんだん近づいてきます。

そして「はたねずみのカボチャの家」をツルから切りとろうとしたその時、おじいさんは煙突や窓に気づき、不思議に思って中をのぞき込みました。

カボチャのケーキと、はたねずみの家族が隅で震えているのが見えました。

おじいさんは「年寄りにはこれだけカボチャがあれば十分だ」と大きな声でいうと「はたねずみの家」をそっとしたまま、愉快そうに口笛を吹きながら帰っていきました。

はたねずみの家族はホッとしてそれからおいしいカボチャケーキを食べたんですって。


☆先月の「あむ」に続いて、福音館書店の「こどものとも」年中版8月号からの紹介です。これを初めて読んだ時に、不思議な安定感を感じました。
それがどこからきているのか、考えてみました。
たしかにおだやかなそしてあたたかい話の展開や、のどかな自然の風景、収穫の喜びなどがやさしい絵とともにふんだんに描かれていてそれだけでも心が落ち着いて楽しくなってきます。
けれども私が感じた最初の感覚は、はたねずみの一家がカボチャの家を作っていく過程と重ねて、何もないところから家を作っていくということ、すなわち自分の世界を作っていくということの喜びがなつかしさと共に甦ってきたことでした。
いってみれば、雨の降った日、ともだちとカサを寄せ合い重ね合って屋根を作り雨音をききながら、狭くて身を小さくしながらも外と隔絶した小さな空間に特別の感覚をもったこと。家の隅に椅子などを並べ毛布やシーツをかけて自分の部屋を作ってはだれからも見えないようにして遊んだ時のミステリアスな満足感。
ひいては箱などを使って人形の家を作り、人形を自由に行き来させたあの感覚。
はたねずみのおとうさんは、カボチャを切り取り、こどもたちは種を出して、だんだんに部屋を大きくしていく、そのうち窓や戸をとりつけ、煙突までつけてしまう。
最後には本当に素敵なベッドルーム、キッチン、貯蔵庫ができあがるのです。
これって「世の中にできないことはないぞ」、という感じしませんか。
自分たちの身の丈にあった空間を創り出していくことの喜びが共感をもって伝わってきたのです。
それから、おかあさんが作るカボチャ料理のおいしそうなこと。
私も相伴に預かりたいと心底思ってしまいます。一生懸命働いているおとうさんやこどもたちに、おかあさんは一生懸命お料理しておなかいっぱい食べさせます。
本当に「ここに家庭があるんだなぁ」と感じさせてくれます。
そして、そんな小さな家庭をやさしく見守るおじいさんの存在は、このおはなしをおとぎばなしのように包み込んでくれます。
作者そっくりのおじいさん、木村さんは自分の畑でねずみたちと共存しながら作物を作っていらっしゃるとか。
はたねずみたちは木村さん以上に畑のおいしいものを知り尽くしているのかもしれません。自然の恵みを共にいただいている木村さんとねずみたち、いい仲間なのかもしれないですね。
人が豊かに生きて行く時に欠けてはならないやさしさや、素朴な生活感がなつかしさと共に描かれている絵本です。

あむ

小風 さち 作
山口 マオ 絵
福音館書店

 

黒犬「あむ」のおはなし。

「あむ」はかっちゃんの家の庭に住む犬。

かっちゃんが大好きだ。

一緒に散歩に行く。かっちゃんはいろいろ教えてくれる。

今度、かっちゃんと「海に行こう」って約束した。

でもかっちゃんは、「あむ」をおいてともだちと海に行っちゃった。

「あむ」は「かっちゃん、おれもいく!」と吠えて、跳ねて、ぐるぐるまわった、ひっぱった。

すると お!首輪がとれたぞ。

かっちゃんはどこだ、海って何だ?とどんどん歩く。

かっちゃんが教えてくれたように、たんぼには入らず(たんぼの水路は走ったけど)

踏み切りでは電車が通過するのをじっと待った。

でも落ちてた魚を食べて腹痛だ。

「落ちてるもの食うんじゃない」ってかっちゃんいってたのに。

かっちゃんがいないとさびしい。かっちゃんまって。

その時、聞こえた。「海の音だ!かっちゃんがいる海だ!」

あっ、「あむー、あむー」 かっちゃん、かっちゃんだ。!


☆このおはなしは、小風さちさんと山口マオさんというコンビの新作です。
このお二人は「わにわにシリーズ」の作者たちです。
子どもたちに大人気の「わにわにシリーズ」は4作目の「わにわにとあかわに」をもって一応完結ということらしいですが、新たにこの「あむ」が新シリーズになっていくかもという予感がします。
「わにわに」は版画でしたが今回の「あむ」は絵です。
犬の息が聞こえてきそうな犬らしい犬です。
そして人のように表情豊か。隣の友達みたい。
またまた「かっちゃん」がマオさんにそっくりで、思わず笑ってしまいました。
その「あむ」をより魅力的にしているのが、さちさんの文。
自ら「あむ」になりきっています。
「わにわに」の時に、ワニ園に通ってずっと観ていたとききましたが、今回も「あむ」のそばにずっと一緒にいて観察していたのではないでしょうか。
さちさんは擬音をよく発明していつも楽しいのですが、この「あむ」でもさちさん特有 の感性がことばになって 絵本のなかを飛び回ります。
「あむ」はやはりさちさんとマオさんの世界だと思います。
ちなみに、このものがたりの舞台はマオさんのお家の近所であり「あむ」はマオさんちの実在の犬だそうです。
この絵本は「こどものとも」7月号でデビューいたしました。

おやすみなさい フランシス

ラッセル・ホールバン ぶん  ガース・ウイリアムズ え
まつおか きょうこ やく
福音館書店

 

7時、あなぐまのフランシスの寝る時間です。
フランシスはおとうさんにおんぶしてもらって部屋にいきます。
キスをしておとうさんとおかあさんは出ていきました。
でもフランシスは眠れません。目をつむってもちっともねむくならないのです。
歌を歌っているうちに、部屋の隅にとらがいるような気がしてきました。
おとうさんとおかあさんに言いに行くと「きだてのいいとらだから大丈夫」とおとうさんに言われて部屋にもどったものの、今度は大男がいるように感じました。
居間にいってそのことを話すとおとうさんは「その大男に何の用事か聞いてごらん」といわれたので部屋にもどりよく見るとそれは椅子にかかったガウンでした。
ベットにもどったフランシス、今度は天井をながめているうちに割れ目からこわいものが出てくるような気がしておとうさんを呼びにいきました。
おとうさんは見に来てくれましたが「心配ならばみはりをたてたらいい」といいました。
フランシスはくまちゃんとかわりばんこに見張りをしていましたが今度はカーテンが風に揺れているのが気味悪くなっておとうさんのところにいきました。
おとうさんもおかあさんも寝ていました。
目をさましたおとうさんに「何かがカーテンを動かしているの」というとおとうさんは
「あれは風の仕事なんだ。おとうさんは会社にいく、それが仕事なんだ。おまえは早く寝て明日の朝早く起きて幼稚園にいく。それが仕事だよ。もしおまえがたった今寝にいかなかったらどうなるかわかるかね?」「失業する?」「いいや」「おしりぶたれる?」「そのとおり!」
フランシスは「おやすみなさい!」といってもどると、窓をしめベットにもぐりました。
するとドシン!バタンと窓のところで音がしました。「こんどこそ大変」とおとうさんに言いに行きましたけれど、部屋のドアのところで考えました。そして、何もいわずに部屋に戻ると毛布を被って「なんだろう」と考えました。
そっと見ると、それは窓に当たっているガの羽の音でした。
その音がまるでおしりをぶたれているようにきこえました。
フランシスは横になって目をを閉じると疲れてそのままおかあさんが起こしにくるまでぐっすり眠りました。


☆夜眠る前に、子どもが「この本を読んで」と持ってくると、「わぁこの本かぁ。ちょっと疲れるぞ」と覚悟をしたのがこの「おやすみなさいフランシス」でした。
でも子どもはこの本が大好きで、大人になった今も愛着をもっているようなので、あのころ一生懸命読んでやってよかったかなとも思うのです。
私自身もこの絵本は印象が強く、いつも心の底にあり続けているのですが、なぜか今までのホームページのこの欄には取り上げていません。

何故なのか、と聞かれるとちょっと困るのですが、ひとつにはあらすじを書くのに苦労しそうだったからです。
今回も上のあらすじの部分は大分はしょってあって、大事なことが伝えられていないのではないかと思います。
このものがたりは、あなぐまの家族のある夜の出来事が細かい描写で語られています。
フランシスがなかなか眠れないなかでひきおこすおとうさんおかあさんとのやりとりはどこのお家でもあるように思います。
フランシスが次々にいろいろ理由を訴えてきてはおとうさんおかあさんを煩わせるのをまるで自分の子どもがそうであるように思い、だんだんはらだたしく思ってしまうのもこの絵本が実生活そのものの描写であることの証拠でしょう。
しかし、この生活の短い一端のはなしのなかで、親と子どものあり方や、大人と子どもの生活のありようなどがものの見事に描写されていて、新鮮な感動を与えてくれます。
特におとうさんのフランシスに対する関わりが、充分受け入れるところと、きちんと線を引くところが明確で、「大人の対応」と「父の存在」を強く感じさせてくれます。
子どもの側だけに立っていいなりになることが子どもを大切にしていることではなく、子どもには子どもの生活があり大人は大人の領分があるということ、社会の秩序といったことを子どもに伝えていく役目がおとうさんにはあるのだということをこの本から読み取ります。
また、フランシスが窓がドシン!バタン!となった時、すぐにおとうさんおかあさんのところに飛んでいきますが、その部屋の前で立ち止まり、考えた結果いわないことにするという場面があるのですが、それはある意味の自立、自律の芽生えと育ちなのでしょう。
受け入れられることと、返されることのバランスのなかで子どもは大きくなっていくのだと思います。
それらのひとつひとつのやりとりや文がとても大切なものに思えて、筋書きだけではとうてい語り切れない本なのです。

また、もうひとつの理由は、この本は絵が語っている部分が多いということです。
文字では説明できないことを絵を見れば一目瞭然にわかってしまうという絵本なのです。
絵は、ガース・ウイリアムズが描いています。
あの「しろいうさぎとくろいうさぎ」の作者です。
実在感のある動物の描き方に加えて、その表情の何と豊かなこと。
フランシスが寝室に行ったあと、居間にいるおとうさんとおかあさんはテレビを見てお茶を飲み、ケーキまで食べている!なんて場面はもう圧巻です。
眠っているおとうさんがフランシスに起こされてやりとりをする場面では、その表情からどんな声でどんなふうに語っているかが想像できてしまうほどの表現力。
この絵本は絵と文が一緒になってものを語っているのです。

ですからこの絵本はどんなに言葉で説明してもしきれないという訳です。
そんなわけですので、ぜひ一度、ゆっくりとお読みいただけたらうれしいです。

おはなをどうぞ


三浦太郎

のら書店

 

メルシーちゃんはおかあさんにあげる花をたくさんつみました。
お家へ急いでいるとうさぎがやってきて「すてきなお花ですね」といいました。
メルシーちゃんは「おかあさんにあげるお花だけど少しだけならおすそわけ。お花をどうぞ」といってお花を渡すとうさぎは大喜び。
つぎにやってきたのはライオンです。
ライオンにも、「お花をどうぞ」とおすそわけ。
ライオンは大喜び。
次はキリンがやってきました。
メルシーちゃんは「少しだけならおすそ分け。お花をどうぞ」とあげました。
キリンも大喜びしましたが、メルシーちゃんの手にはもうお花が一本しか残りませんでした。
そこにゾウがやってきて「すてきなおはなですね」といいました。
メルシーちゃんはゾウさんにも1本しかないそのお花をあげてしまいました。
手には1本のお花もありません。
メルシーちゃんはとうとうお花を全部あげてしまったのです。
「おかあさんにあげようと思ったのに・・・・・」

メルシーちゃんはお家に帰っておかあさんにいいました。
「おかあさんにお花をたくさん摘んだけど、全部あげてしまったの」
するとおかあさんはいいました。
「いいのよ。おかあさんのお花はね、メルシーちゃん、あなただもの。ありがとう」


☆三浦太郎さんの美しいそしてやさしい絵本です。
メルシーちゃんのおかあさんを思う気持ち、そしておかあさんのメルシーちゃんに対する思いが「おかあさん」と「こども」の存在を的確に表していて、読み終わった時にほんわりとしたやわらかい幸せと喜びで包まれます。 
子どもはおかあさんが大好きです。おかあさんに代わるものはありません。
自分の喜びはおかあさんの喜びと一緒だということを疑いませんし、おかあさんを喜ばせるために一生懸命になります。
メルシーちゃんはきれいなお花をおかあさんにあげたらきっと喜んでくれるに違いないと確信して花を抱えきれないほどいっぱい摘みます。
けれども途中で出会うともだちにお花をおすそ分けして相手に喜んでもらっているうちに手元には花が一本も残らなくなってしまいました。
おかあさんにあげたかったのにとしょげながら帰ると、おかあさんは
「お花はなくてもメルシーちゃんが私のお花なのよ」と喜ぶのです。
きっとおかあさんは、たくさんの人に喜びをおすそ分けした我が子のやさしさや成長が何よりの大きな喜びだったことでしょう。
そして、そんな我が子を心からいとおしんだのでしょう。
子どもにとっておかあさん、おかあさんにとって子どもは何よりの美しい花なのだと思います。
三浦さんの絵本のもつ色の美しさとハイセンスな造形からあふれる豊かな表現によって、絵だけ見ていてもあたたかい物語がうかんできてしあわせを感じます。

きんぎょのトトとそらのくも

えとぶん にしまき かやこ

こぐま社

 


ひとりぽっちのきんぎょのトトは金魚鉢のなかでいつも空を眺めていました。

きんぎょの雲がみえた時、「あの雲がきっとともだちなんだ」と思ったトトは無性に空に行ってみたくなりました。

そんなトトに小鳥が「元気に行っていらっしゃい」と赤い風船をもって来てくれました。

ふわぁと空に浮かんだトトは、パンの雲やゾウの雲に訪ねながら金魚の雲を捜しました。やっと金魚の雲たちのところについたと思った時、その雲はどんどん形がくずれていって真っ黒な雲だらけになってしまいました。

「ぼくのともだちはどこにいるんだろう」とトトは雨の中を夢中で泳ぎました。

ピカッ ドッシーン!かみなりです。

風船が割れてまっさかさま。

気が付くとトトは水のなかにいました。

まわりにたくさんの魚たちがしんぱいそうに取り囲んでいました。

トトは広い池でたくさんのともだちに出会いました。


☆にしまき かやこさんのやさしい作品です。
子どもが、今までの居心地のよい囲みのなかから、外界の未知の世界に憧れ、自分の思い で飛び立とうとする旅立ちの世界が描かれています。
金魚鉢のなかからいつも眺めていた空に現れる雲たちをトトは本当のともだちだと思ってどうしても会いたくなります。
小鳥に風船をつけてもらって空に飛び上がり、やっと会えたその雲たちは実は実態のな いものでした。
混乱のなかで、池に落ちたトトはやっと形がくずれたり消えたりしない本当の友だちに会うことができたのです。
ある年齢になると子どもは自然に自分の世界を広げたい、友だちと遊びたいという欲求をもちます。
そして、さまざまな援助の手を差し伸べられるなかで、自分なりの葛藤や混乱を経てよ うやく自分の世界を獲得していくのだと思います。
子どもがそんな成長をしていくために必要なことは、まずは安定した金魚鉢のなかでゆったりと外界に興味関心をもち願いを実現させようとする意欲をもてることかなと思います。
この絵本のタイトルが「きんぎょのトトとそらのくも」となっているのはそんな時空のことをいっているのかも知れません。
それからその思いを後押ししてくれる「小鳥の風船」が必要です。
小鳥は赤い風船を渡しながらこういいます。「元気でいっていらっしゃい」と。
そして、トトが池でたくさんの魚たちと遊んでいる様子を遠くから見守るのです。
子どもが旅立ちをする時、「大丈夫だよ」とそっと背中を押してやりずっと見守る存在が不可欠だと思います。
その存在とはおかあさんやおとうさんであり、私たち保育者も同じだと思います。
私たちは子どもが自由に自分の思い描く世界に遊ばせ、安定した信頼関係のなかで旅立ちにふさわしい手助けをし、それをずっと見守っていきたいと願います。 
そして、幼稚園という広い池で子どもたちが友だちと自由にのびのびと気持ちよく泳ぎまわれるよう心を込めて保育をしていきたいと思います。

あいつもともだち

内田麟太郎 作
降矢 なな 絵

偕成社

 

森も寒くなってきました。

キツネとオオカミは冬ごもりに入るクマやヤマネたちとしばらくお別れです。

みんなと「それじゃあ 春までな」といって挨拶をしました。

でもキツネはヘビだけには声をかけられませんでした。

あの長い体に抱きつかれた時など、ゾゾゾーとしてしまうくらい苦手だったのです。

森は雪になりました。

キツネは雪をぼんやり見ている時も、オオカミとスキーをしたり年賀状を作ったりして楽しい時も、挨拶をしないで別れたヘビのことが気になってしかたありませんでした。

ヘビは今頃ひとりぼっちでさびしい思いをしているんじゃないだろうか。

雪がやんだある日、オオカミとキツネはソリにのって冬眠中のともだちのお見舞いにでかけました。クマやヤマネも気持ち良さそうに眠っています。

キツネはヘビの家をのぞきました。

キツネは眠って入るヘビに「ごめんね」というと「春になったら、ね」とヘビの顔をなでました。でもゾゾゾーっとはなりませんでした。

ヘビはその時、夢を見ていました。

春になって原っぱに出て行ったら、だぁれもいないというさびしい夢を。

春がきました。

冬眠からさめた動物たちがまた一緒になりました。

でもヘビだけは、さびしい夢の続きになるような気がしてなかなか外に出ていかれませんでした。

みんながいなくなってからそっと外に出ると、その時、目の前にキツネが「やあともだち」と笑って待っていたのです。オオカミも一緒です。

「ヘビさんまっていたんだよ」。

キツネとオオカミとヘビはしっぽを巻き付けながら大きくふりました。


☆この絵本は「キツネとオオカミ おれたち ともだち!」シリーズの1冊です。
子どもたちはこの絵本がとても好きで、よく「読んで」といって持ってきます。
このシリーズはコミカルな絵(色の美しさ、生き生きとした表現は素晴らしい)や物語りの展開が「楽しい」「おもしろい」絵本たちではありますが、繊細な心の機微や人間の本質や人との関わりについて実に深いものを与えてくれます。
今回とりあげた「あいつもともだち」もキツネの心理のとらえかたや変化が実に巧みに表現されていて、だんだん自分自身を投入していきます。
誰でも苦手な人、嫌いな人っていますよね。
ちょっと近寄りずらい人、いつも不愉快になる人、心を逆なでされる人、腹立たしい人。でも逆に、そういう人って「心にひっかかる人」「気になる人」でもあります。
自分の心によりインパクトが強い人ともいえます。
キツネは、ヘビが苦手でお別れの挨拶をしませんでした。
でもそのことが自分の良心の呵責となってずっと心にひっかかります。
何をしていてもヘビのことが心のなかにあって、だんだん自分が挨拶をしなかったことでヘビが寂しがっているのではないかというところまで思い至ります。
そうなってくると、前にはゾゾゾーとしたあのヘビの体の感触も嫌だと感じなくなってきました。
ヘビのことを思い続けることでヘビのことをより深く知ることにつながり、遠くから毛嫌いしていた自分自身のことをも冷静に見つめることができるようになってきたのだと思います。
そして、春になってヘビと会える時を心待ちにするようになるのです。
こういう心理の変化っておもしろいし本当にそのとおりと思ってしまいます。
キツネの心根のやさしさがまずあってこの物語りは成立する訳ですが、「人と共に生きる幸せ」「人と和解する喜び」ということが冬から春という寒さから暖かさへの移行を背景に描かれています。
そして、それを支える友達、キツネの心情を深く理解してあたたかく見守るオオカミの存在はとても大きいと思います。
私たちも冬眠している間にさまざまなことに心を巡らせ、ひとまわり大きくなって春を迎えたいものです。
子どもたちにも、さまざまな冬の季節があります。
でもその冬を大切に過ごすことによってうれしい春を迎えられることを信じて、オオカミのようにじっくり寄り添って見守っていきたいと思います。

きつねとかわうそ

梶山 俊夫 再話・絵

福音館書店

昔むかし、山のキツネとふもとの川のカワウソが道でばったりと出会った。

キツネは「ごちそうの呼び合いをしよう」とカワウソに誘いをかけた。

次の日、キツネはカワウソの家にやってきて、ごちそうをよばれた。

その次の日、カワウソがキツネの家に行くと、キツネは天を眺めてばかりいて返事もしない。ごちそうどころではなく、カワウソは家に帰った。

次の日、キツネはカワウソの家にやってきてまたごちそうになった。

その次の日、カワウソがキツネの家に行くと、今度は下をじっと見たままキツネは動きもしなかった。

怒ったカワウソは次の日やってきたキツネに魚を食べさせず、魚の採り方を教えた。

キツネは教えられた通り、川に氷がはると、おしっこで穴をあけそこにしっぽをつっこんで魚がかかるのを待った。

寒さのなか夜中待って、しっぽはすっかり凍って引き上げられなくなったが、キツネはカワウソのいった通りきっと魚がいっぱいかかったのだと思い込んだ。

夜が明けて、そのうち子どもたちがキツネを見つけてとんできた。

キツネは「これは逃げねば大変」と、力んで力んでしっぽを抜こうとしたものだから、しっぽは根元からぷつんと切れてしまった。

キツネはやっとの思いで山に帰って行った。


☆今月のこの一冊は福音館書店の月刊誌「こどものとも 年中版」の2011年2月号として発刊されたもので、2000年1月号として出版されたものの再販です。
このものがたりは新潟県に伝わる昔ばなしだということです。
文体から、いろりを囲んだり、おひざに入れてもらったりしながら、大人から子どもたちに語られている情景やその声色や表情、周囲の空気までもが伝わってくるようです。
きっと長い時代にわたって、繰り返し語り継がれ聞き継がれてきたのでしょう。
ずる賢しこそうなキツネが、最後には間抜けな大失敗をするというおはなしは、他にもたくさんありますね。福音館の「キツネとねずみ」(子どものとも傑作集)などもそうですし、確かオールドアメリカンのお話にもビーバーとキツネのバトルのものがあったように記憶しています。
キツネは獲物をとることに関してとても巧妙で、頭もいいのですが、どうもおはなしの世界では最後の最後で自分の才に溺れたり、だまされたりしてポカをすることが多いようです。
キツネは山に住んでいるのですが、里に近いところまで姿を現すという動物であったため、人を化かしたり、悪さをしたり、また人に恩返しをしたりというイメージでその存在は語り種になってきました。
その人間と近しい関係にあったはずの本土ギツネも、今絶滅寸前と言われています。
カワウソもイタチの仲間であり、川岸などに棲んで水陸両方に出没する動物で昔はどこにもいたはずなのですが、今は絶滅したのではないかと言われほとんど人の生活圏には見当たらなくなってしまいました。
この昔ばなしのなかでいきいきと語られているキツネやカワウソと共に生きた生活はもう戻ってこないのでしょうか。
このような昔ばなしのなかでしか会えなくなってしまうのでしょうか。

どんなにきみがすきだかあててごらん

サム マクブラットニィ ぶん
アニタ ジェラーム え
小川仁央 やく

評論社

 


小さな茶色いノウサギと、大きな茶色いノウサギのおはなしです。

小さなウサギは大きなウサギに「ぼくがどんなにきみが好きだかあててごらん」とききました。

そして、「こんなにさ」と腕を思いっきりのばしました。

デカウサギも腕をぐんとのばして「ぼくはこーんなにだよ」と見せますと、あらチビウサギよりもずっと長い。

考えたチビウサギは今度はせいのびをせいいっぱいしました。

でもデカウサギがせいのびをすると、もっと大きい。

逆立ちをしても、とびあがっても、はねまわってもデカウサギにはかないません。

あたりはすっかり暗くなり、チビウサギはもう眠くって何にも思いつかなくなりました。

「ぼく、お月様に届くくらいきみが好き」というと、目を閉じました。

デカウサギはチビウサギを木の葉のベットにそっと寝かせると、そばに横になりながらほほえみながらつぶやいたのです。

「僕はきみのこと、お月様まで行って帰ってくるくらい、好きだよ」


☆今年は兎年ということもあり、ウサギのおはなしの絵本を何冊か取り出して読みました。
「しろいうさぎとくろいうさぎ」や「うさこちゃん」。「かちかちやま」や「めがねうさぎ」、「ゆらゆらばしのうえで」。それに、それに、・・・いっぱいあります。
そんななかに、この「どんなにきみがすきだかあててごらん」がありました。
この絵本は前にもご紹介したことのある「パパとママのたからもの」を作った作者・画家・訳者と同じトリオで作った作品です。
この本のなかでチビウサギは、自分がデカウサギをどのくらい好きかをあらゆる表現で 伝えようとします。
けれどもチビウサギがどんなにがんばっても、デカウサギがチビウサギを好きだよという表現にはかなわないのです。 
一生懸命伝え合うチビウサギとデカウサギ。
最後は「月に届くくらいの思いだ」というチビウサギ。それに対して「月に行って帰ってくるほどの思い」だとデカウサギ。
人の思いは宇宙まで続くほど果てしないものであり、際限のないものなのでしょう。
チビウサギのけなげさ、一生懸命さと、デカウサギの鷹揚で包み込むような掛け合いが ほのぼのと楽しく、最後には、眠ってしまったチビウサギにデカウサギがそっと「君が僕を好きなことなんかよく分かっているよ」というようにまるでおかあさんかおとうさんのようにそっと見守るのです。

自分がどれだけ愛されているかを確かめたい思いと、自分が相手をどれだけ愛しているかを分かってほしいと思うことは似ているようで、少し違うように思います。
後者はすでに相手と自分の間の信頼関係がきちんとできているなかでより一歩進んでそ の絆を強くしたいというような力づよさを感じます。
でもこのチビウサギとデカウサギってお友達?兄弟?親子?それとも恋人?
どんな関係にもあてはまるようで、それもまたおもしろいです。
目に見えないものを大切にしたいという作者たちの思いがやさしさを与えてくれる一冊です。

バブーシュカのおくりもの

サンドラ・アン・ホーン ぶん
ソフィー・ファタス え
さわ ともえ やく

日本キリスト教団出版局

 

昔、バブーシュカというやさしいおばあさんがいました。

バブーシュカの心にはぽっかり穴があいていてじっとしていると悲しくなってしまうのでいつも朝から夜まで家のなかをピカピカに磨いて忙しく働いていました。

ある夜のこと、窓の外に見たことのない明るい星があらわれました。

でもバブーシュカはそんな星には目もくれません。

天使も現れましたが追い返してしまいました。

しばらくすると、戸口に博士たちが立って、「私たちと新しい王様に会いにいきましょう」と誘いますが、バブーシュカはラクダが道を汚くするからと追っ払ってしまいます。

博士たちはあわててラクダを追って行ってしまいました。

バブーシュカは夢を見ました。

さっきの天使が現れてうまごやで生まれて産着だけで飼い葉桶に寝かされている王様のことを歌い始めました。

そして星が明るく照らしたので、バブーシュカは目をさましました。

「あたたかいショールにも包まれていない王様なんて。今すぐ行ってあげなくちゃ」。

バブーシュカは、あかちゃんのためのピエロのお人形と、あたたかいショール、しょうが入りの飲み物をかごに入れて出発しました。

道の途中でバブーシュカは人形を落として泣いている女の子に、かごの中からピエロの人形を取り出すと愛を込めて差し出しました。

しばらくいくと、足が痛くて思うように歩けないおばあさんに会いました。

バブーシュカはしょうが入りの飲み物を取り出して愛を込めておばあさんにあげました。またしばらく行くと今度は寒くて歩けないでいる羊飼いの少年に出会いました。

バブーシュカはショールを取り出すと、少年の肩にしっかりとかけてあげました。

かごにはもう何も入っていません。

「せっかくのおくりものをみんなあげちゃうなんて。新しい王様にはもう会いにいけないわ」とトボトボともどろうとした時、後ろから「バブーシュカ!」と呼ぶ声がしました。うまごやの前に立つマリアでした。

「私はおくりものを何一つ持っていないんですよ。」「いいんですよ。さあ中にお入り下さい。」といわれて中に入ると、あかちゃんがバブーシュカの持ってきたあたたかいショールに包まれてピエロの人形と一緒にねていました。

ヨセフはしょうが入りの飲み物を気持ちよさそうに飲んでいます。

「いったいどういうこと?」

「あなたが愛をこめてみんなにあげたのはわたしたちの赤ちゃんにくれたのと同じことなんですよ」とマリアは静かにいいました。

バブーシュカは赤ちゃんのほほ笑みを見ているうちに、不思議な気持ちでいっぱいになっておそうじのことなど忘れてしまいました。

バブーシュカはあかちゃんをギューッとだきしめました。


☆このお話は「最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。 マタイによる福音書25章40節」という聖句が底に流れているクリスマス物語です。
悲惨な状況のなかでお生まれになった王様に差し上げようと用意したお人形やショールや飲み物を持って出かけたバブーシュカは、その道の途中でその贈り物を必要としている人たちに出会い、愛を込めてあげてしまいます。
何も王様に差し上げることができなくなって意気消沈して帰りかけたバブーシュカに母マリアは声をかけます。そして「あなたのした愛の業はすべてわたしの赤ちゃんにしてくれたものだ」というのです。
クリスマスには、このメッセージが奇跡物語のような響きをもってよく語られます。
これらの物語から、神は何者か、どこにいるのか、自分との関係は、ということが語りかけられているように思います。

また、この絵本で深く心に響くのは、バブーシュカという人となりの描き方です。
バブーシュカは、おばあさんと描かれていますが、「やきたてのクリスマスケーキのようにふっくらまるっこくて、せわずきのやさしいおばあさん」としてそれは美しくかわいらしく描かれています。
でも「バブーシュカのこころにはぽっかりとあながあいていて、じっとしているとかなしくなってしまう」人、として設定しています。
その穴を埋めようと、いつも忙しく掃除をしているバブーシュカ。
まどに見たこともないような明るい星が輝いても、天使がよい知らせを持ってきても、贈り物をもった博士が訪ねてきても、お掃除のことだけでいっぱいになっていて、一番大切なことを心に受け入れる余裕がありません。みんな拒否してしまうのです。
けれども、神様は何度も機会をくださって、粘り強くバブーシュカに語りかけてくださいました。ようやく、赤ちゃんが馬小屋で産着もなく生まれたという事態がのみこめたバブーシュカは、元来の親切な世話好きな人として「何か自分にできることをしなければ」という思いで急いで王様に会いにいきますが、その道すがら出会った人々に「今、自分のできること」を「愛をこめて」行うのです。
そんなバブーシュカにマリアは声をかけ、赤ちゃんはほほ笑み返します。
その新しい王様である赤ちゃんの不思議なほほ笑みのなかで、バブーシュカは今まで自分を捕らえていたお掃除をしなくちゃあという脅迫概念から解放されて、希望と喜びをとりもどしていきます。
心の穴が喜びで充たされていったのです。
このことは、現代に生きる私たちの姿に二重写しになりませんか。
私たちはいつも自分の近くの目に見えるものに心を支配され、いつも忙しがっていて、目に見えないけれども人が生きていくのに一番大切な最も価値あるものがあることを受け入れようとしません。
全く気づかなかったり、気づいても考えることさえ億劫だったりして、跳ねのけてしまいがちです。そして、いつも空虚や充たされない思いで生活しています。
そんな私たちに、神様はクリスマスをくださいました。
歴史の上に、あるいは世界中に神様がその御子をお与えになったということだけでなく、一人ひとりの心のなかに神様は働いてくださって赤ちゃんイエスさまを生まれさせてくださり、希望と喜びのうちに人間性の回復と再生をお与えになるのだと思います。
毎年毎年、クリスマスの度に、バブーシュカのように心のなかにぽっかりあいた穴を喜びと平和で充たしてくださる神様の呼びかけを素直に受け入れたいと思います。
やっぱりクリスマスは、喜びの時。
メリーメリークリスマス!

もりのてぶくろ

八百板 洋子 ぶん
ナターリア・チャルーシナ え

福音館書店

 

しずかな森に葉っぱが一枚落ちていました。

「わぁ きれい」ねずみが葉っぱに手をあててみました。

「ぼくの手よりずっと大きいや」

うさぎがやってきて「まあ何てきれいな葉っぱ」

葉っぱに手をあてて見ます。

「わたしの手より大きいわ」

きつねが通りかかって素敵な葉っぱに手をあててみます。

「ぼくの手より大きいや」

バシンともじゃもじゃの手をのせたのはくまでした。

「ぼくの手よりずっと小さい」

お母さんと男の子が通りかかりました。

「いいもの見つけた。手袋みたい」

男の子がそっと葉っぱに手をあてるとぴったり。

男の子は葉っぱを拾っていきました。


☆この絵本は福音館の幼児絵本ふしぎなたねのシリーズです。
2004年11月号に「ちいさなかがくのとも」から発行されました。
「WHOSE GLOVE IS IT?」という副題がつけられています。
「だれのてぶくろ?」という感じでしょうか。
それが「もりのてぶくろ」という題で発行されたのは、チャルーシナさんの絵が「森の秋」そのものであり、八百板さんの文が「静かな秋の森」を伝えるのに余りあることばだったからではないかと思います。
森という響きのなかには、木々や花々、木の実、若芽、老木、動物や鳥、道や洞穴などのイメージがあり、それが生命や死、再生、光と闇、温かさと冷たさ、こわさと未知への憧憬などにつながって不思議な魅力と探求心をかりたてます。
その森のなかの片隅でおきた一枚の美しい落ち葉の静かな静かなものがたりがここに描かれています。
森に住む動物たちがみんな思わず手をあてたくなるほど美しく素敵な黄色く紅葉した落ち葉、その一枚の葉っぱがあるだけでものがたりになるような森の絵と、出来事がおきては引いていくという繰り返しの波はとても静かです。
そして最後には男の子がその落ち葉を大切に拾っていくというあたたかさと安定感が秋を尚更に引き立てています。
冬の森のなかでおじいさんが落とした手袋を軸に展開するウクライナ民話「てぶくろ」(福音館書店)があります。寒いなかでみんなが寄り合っていき最後はぱっと散っていくというにぎやかなそして劇的な物語ですが、ここに描かれた秋の森はもっと静かで叙情的です。
秋の日、お母様の体温を感じながら読んでもらえば子どもたちはその呼吸にぴったりと絵本の世界が呼応して静かな森を心おきなく探検することができるでしょう。

そらまめくんとながいながいまめ

なかや みわ 作

小学館

 

そらまめくんとグリーンピースの兄弟、それにピーナッツくん、さやえんどうさんたちは草むらのなかにへんなものを見つけました。

みんなでひっぱって、ひっぱって、ひっぱって。

「よいしょ よいしょ よいしょ」

ようやくながーいながーい三尺豆のベットがあらわれて、中からころころとたくさんの三尺豆たちが出て来ました。

「何て長いベットなんだろう。でもぼくのベットにはかなわないよ」とそらまめくんがいうと「ふん!おれたちのよりずっと短いじゃないか」と兄さん三尺豆がいいました。

「じゃどっちのベットが素晴らしいかくらべっこしよう!」

そこでまず丘の上から早く下りる競争をしました。

そらまめくんたちは勢いをつけてベットに飛び乗ると風を切って進みます。

速いこと、速いこと。

でも三尺豆たちはのんびりとベットをまるめて、それをぱっと離すと、まぁ滑り台に早変わり。

「おれたちの勝ち!」と大笑い。

次は水たまりを向こう岸までこいで渡る競争。

そらまめくんたちが気持ち良くこいでいると、あらら、三尺豆たちがあっという間に追い抜いていきました。

「おれたちのベットにかなうものなんてないのさ」と三尺豆は勝ち誇っていいました。

その時、おぼれている末っ子三尺豆を見つけたそらまめくんたちは、あわてて逆戻りして
助けました。

そして、ふかふかのベットに寝かせるとみんなでつきっきりで看病しました。

朝、末っ子三尺豆が目をさまして元気にいいました。

「そらまめくんのベットはふわふわで暖かくて気持ちよかったよ」

兄さん三尺豆は「そらまめくんありがとう。きみのベットのおかげだよ。俺もねてみたくなっちゃった」といいました。

その夜、そらまめくんは三尺豆の兄弟をふわふわベットに招待したんですって。


* この絵本は「そらまめくん」シリーズのなかの1冊です。
シリーズの最初である「そらまめくんとべット」は1997年に福音館こどものとも年中版で、「そらまめくんとめだかのこ」は1999年こどものともで出版されました。
そしてこの「そらまめくんとながいながいまめ」は2009年に小学館から出版されています。
このそらまめくんのおはなしは子どもたちにとても人気があります。
どのおはなしも、そらまめくんのベットをめぐってそらまめくんとまわりの仲間とのやりとりや交流が描かれ最後には読み手がホッと幸せな思いになれるような展開をしています。けれどもそらまめくんが最初から決して「いい子」としているのではなく、自分と相手を比べていばったり、誇ったり、かたくなに人を排除したりするのです。
そんな緊張のなかで何かとんでもない事件がおき、まわりの仲間の思いやりややさしさのなかでそらまめくんが自己変革していくという展開になっています。
今回の「ながいながいまめ」も横暴な三尺豆に対抗してそらまめくんも競争心がムラムラとおきてくるというなかで、末っ子三尺豆の危機という事件がおきます。
その事件をきっかけにそれまでの「勝ち負け」から、心を何にむけたらいいのかという変換がおこり、みんなが思いをひとつにすることができるようになります。
仲間たちそれぞれの特徴もよく描かれていて読み手はそらまめくんだけでなく、その時によってピーナッツになってみたりさやえんどうになってみたりしながら自分自身を投影させてみたり、相手の思いを推し量ったりしながら登場人物(登場豆?)に親しみをもてるのも魅力のひとつではないでしょうか。
私は、この作者が描いている登場豆たちを通してあまりにも子どもの姿を見事に言い当てているような気がしてなりません。
さまざまな子どもの心情をよく分かっている方なのではないかと思うのです。

ねぼすけ はとどけい

ルイス・スロボドキン 作
くりやがわ けいこ 訳

偕成社

 

スイスの山奥に小さな村がありました。

そこに小さな時計屋がありました。

店の中は鳩時計でいっぱいでした。

たくさんの時計から毎時間、いっせいに鳩が飛び出してポッポーとなきます。

でも1羽の鳩だけはいつもみんなより遅れて飛び出してきては鳴くのでした。

村の子どもたちは学校の帰りにいつもこの時計屋さんの前で立ち止まって鳩が一斉に飛び出すのを喜び、そして、1羽だけ遅れる鳩を今か今かと待ちます。

ある日、遠く暑い国の王様が象に乗ってやって来ました。

旅のおみやげに何かいいものがないかと捜していると 子どもたちが時計屋をのぞき込んでいるのを見つけて王様も象から降りて中を見ました。

するとたくさんのかわいい鳩時計が見えました。

「何てかわいい時計だろう。よしこの店にある鳩時計を全部買おう」とお店に入ると、丁度その時、長い針が動いて一斉に時計から鳩が飛び出して鳴きました。

王様が大喜びしていると、あの鳩がちょっと遅れて時計から飛び出して鳴いたのです。

「一体どれが正しいのかわからん。買うのはやめだ」と王様はいいました。

時計屋のおじいさんは、「必ず明日の朝までに、この鳩時計を直しておきますから」と約束をして早速修理にかかりました。

子どもたちは心配をして時計屋のおじいさんと一緒にどこが悪いのかいろいろ考えました。

一人の女の子が「あの鳩、時計のなかでぐっすり眠ってしまっているんじゃないの?」といいました。

子どもたちが帰ったあと、時計屋さんはいろいろ試してみましたがどこも悪い所はありません。

最後に、鳩が出てくる小さな扉をそっと明けてみました。

すると、鳩はぐっすりと寝込んでいたのです。

女の子のいったとおりでした。

そこでおじいさんは「どうやって時間が来る前に起こしたらいいんだろう」と考えていいことを思いつきました。

その夜遅くまでおじいさんは仕事をしていました。

次の日。王様との約束の時間がきました。

子どもたちも心配してみんな集まっています。

10時。鳩たちは一斉に飛び出して鳴きました。

あのいつも遅れた鳩は・・・。

みんなと一緒に鳴いています!

王様は大満足で全部の時計を買って象に包みを乗せて帰っていきました。

でも時計屋のおじいさんは、ねぼすけ鳩時計だけは残しておいたんですって。

変わりにすぐ宝石をいっぱいつけた時計を作って送りますからっていってね。

ねぼすけ鳩時計がどうしてねぼうをしなくなったか、ですって?

それは村の子どもたちが知っています。

ねぼすけの鳩の小屋のなかに小さな目覚まし時計がついていたことを。

そしてこの目覚まし時計に毎日ネジをしてあげられるのは時計屋のおじいさんだけだってことを。


* この絵本は時計が主人公の話ですが、読んでいるうちにまるで時計がとまったような不思議な感覚になりました。
本全体にやさしい空気が漂い、そのなかで人々がゆったりと生活をし互いに信頼し合って暮らしているというよき時代のよき共同体を感じさせられます。
ことばも絵も素朴でこのお話にぴったりという感じです。
不正確な鳩時計という「ひとつのもの」が、人々をホッとさせたり、喜ばしたり悲しませたりする様子はまだ手仕事が生きていた時代の豊かさを伝えてくれます。
その「ひとつのもの」に、夢のような御伽噺がからんでどこまでがどうなのかというようなお話になっていく訳ですが、その「現実離れした現実」を支えているのが本のなかの子どもたちです。
子どもっていつの時代も、「もの」が単なる「もの」ではなく、共に生きているものとして思い入れをすることができます。
女の子が「鳩がねぼうしているんじゃないか」というふうに考えることは、非現実的ですが、作者はその思いをその通り話のなかで実現させています。
私たちは今、目に見えるものだけを信じ、計算できるものだけに頼りがちです。
でもほんとうに幸せなことって、子どもの心のなかで感じられるようなそのままの感性や発想をもち続けているということではないでしょうか。
大人はそんな子どものやさしさやあやうさや奇抜さに添っていく時、自分も豊に充たされていくのではないかと思います。

じろう ひとりで でんしゃにのる

夏休み、じろうはおじさんの家に遊びにいくことになりました。

初めて一人で電車に乗ったのでドキドキしています。

駅につくたびにお客さんが降りて、とうとうじろう一人になりました。

電車が山のなかのトンネルに入った時、窓から冷たい風が入ってきて、じろうは大きなくしゃみをしました。

トンネルを出ると、いつのまにかじろうの前にはおじいさんがニコニコと座っています。

おじいさんはじろうがもっていたおみやげのおまんじゅうとヤマモモを交換しようといって、窓からヤマモモやらすももナツグミ、それにクマイチゴをどっさりとってくれました。それに、滝の裏を通る時には、アユがたくさん窓から飛び込んできてそれをつかまえては笹に通してくれました。

おまんじゅうはおじいさんとじろうですっかり食べてしまいましたが、おみやげはいっぱいになりました。

長いトンネルに入った時、冷たい風が吹いてきてじろうはまたくしゃみをしました。

顔を上げると、おじいさんの姿はありません。

そして、じろうが降りる駅に着くまでおじいさんは帰ってきませんでした。

じろうが重たくなったリュックを背負って駅に降りると、おじさんが待っていてくれました。

不思議なおじいさんのこと、たくさんのおみやげのことを話すとおじさんはいいました。

「小さな子どもが一人で電車に乗っていると、ときどきそのおじいさんが遊びにくるらしいよ。明神山の神様だっていう話だよ」と。


* この絵本はこの8月に配本になった「こどものとも 年中向き」です。
初めて一人で電車に乗って旅に出るじろうの物語。
山のなかに深く入っていくという設定に、日常生活から遠ざかっていくという導入がされています。
初めてのこと、それも一人で、未知の世界へ。
どんなことがおきても不思議ではありません。
案の定、思いがけないことがおきます。
それが読み手にとっても夢とうつつの世界の境界線がないくらいの自然さで話が展開していくのです。モノトーンの絵がこの効果抜群。
突然のおじいさんの出現に「あなたは誰?」と怪訝に思い、おみやげのおまんじゅうを2人で食べてしまって「本当にいいの?」とハラハラ。
山の幸をいとも簡単におすそ分けしてくれるおじいさんの不思議な力には「手品みたい」と拍手したくなります。
そして、さいごのオチ、「小さな子どもと遊びたがっている明神様の神様かも」というところでは何やら背筋がゾクッと。
夏の暑い時に涼感を与えてくれること疑いなしの絵本です。
話はちょっとはずれますが、くしゃみをするとおじいさんが現れたり、消えたりするのですが、このくしゃみ。
私の周りにも、とてつもなく大きなくしゃみをする人がいまして、その度に飛び上がってしまうほどなのですが、何かその時自分の霊力が抜けて行くような気がするのです。
だから、くしゃみが不思議な世界への入り口という設定が大いに納得できるのです。
またまたはずれますが、このおはなしのなかで、じろうはおじいさんに勧めた水を入れたコップを返してもらっていないと気づくのですが、私も気になって捜し回りました。
そしたら「あった」というべきか「なくなった」というべきか。
でも絵の中にちゃんと描かれていました。捜してみてください。

ピッキーとポッキーのかいすいよく

ぶん・あらしやま こうざぶろう
え ・あんざい みずまる

福音館書店

 

夏になったので、うさぎのピッキーとポッキーはいかだに乗って海水浴に行くことにしました。

もぐらのふうちゃんとねずみも一緒です。

川を下っていきながら「やぎの帽子やさん」で、いかだに乗せたクローバーの葉っぱと、ひまわりの帽子をとりかえてもらいました。

「りすのパラソルやさん」で、どんぐりをさといもの葉っぱのパラソルに代えてもらいました。

海の近くになって、いかだに乗せてきた石を、「かにの床屋さん」に水中メガネに代えてもらいました。

さあ海につきました。

みんなで水を掛け合って遊んでいると、ピッキーとポッキーが急にひっくりかえり、ふうちゃんがうきわごとぽーんとほうり出されました。

それはいたずらなタコの仕業でした。

カモメの監視員がピッキーとポッキーを助けに飛んで来てくれました。

トビウオの救助員もふうちゃんを助けに来てくれました。

みんな助けてくれてありがとう。さあごはんにしよう。みんなでお弁当を食べました。

いっぱい遊んでこんどは連絡船に引っ張ってもらってお家に帰ります。

ピッキーとポッキーは「またくるからねー」と、海に向かって手をふりました。


* この絵本は1980年に「福音館のペーパーブック絵本」として発行されました。
その4年前、1976年にはやはり「福音館のペーパーブック絵本」として「ピッキーとポッキー」が発行されています。
この「ピッキーとポッキー」はホームページ2004年の4月に紹介済みですが、このシリーズ(といっても2冊ですが)は、私にとっては何がというではないのですけれど魅力的で子どもたちによく読みました。
この絵本たちは読んでいるうちにとても楽しくなってくるのです。
嵐山光三郎さんの文には、奇想天外なストーリーをそのまま自然に受け入れられるような楽しさと説得力があります。そしてピッキーとポッキーそれにその仲間たちを包み込むようなやさしさとおおらかさ、上質なユーモアがあります。
大人の文章だなと思わせます。
そして、この安西水丸さんの絵の華やかなこと。にぎやかなこと。色もきれい。
私の個人的な好みを福音館さんが知ってか知らずか(きっと知らない)1993年に「ピッキーとポッキー」が、そしてこのたび2010年5月にこの「かいすいよく」が福音館幼児絵本としてハードブックになりました。

このピッキーとポッキーのものがたりは、いってみれば「おまつり」のような要素をふんだんにもった物語だと思います。
「ピッキーとポッキーのかいすいよく」も、目的地に行き着くまでにさまざまな人たちと気持ちよく関わり、事件がおきるとみんなで助け合い、そしてみんなで集まってきてワイワイとお弁当を食べて最後にはハッピーな思いをもって自分の居場所にもどっていくという楽しさ満載のお話です。
登場人物すべてが善意で、それでいてみんな独特のキャラクターをもっていてみんながそれらを認め合い、補完し合っています。
事件をおこしたいたずらのタコでさえみんなでお弁当を一緒に食べて遊んでいます。
そういう「みんなが一緒で楽しいね」という思いがいっぱい詰まったお話なのです。
そして、そのメッセージが教条的ではなく伝わって来るのがいい。
それにしてもいかだを作るという発想、そのいかだに物々交換の品々を載せて、海水浴の準備をしていく、帰りは連絡船に引っ張ってもらう、何て自由で楽しい発想でしょう。
それに登場する一人ひとり(?)の特徴を的確に捕らえてそれをユーモラスに味付けしています。
嵐山さんという作家、どんな楽しいお話の玉手箱を持っているのでしょうか。

きんようびはいつも

ダン・ヤッカリーノ 作

青山 南 訳

ほるぷ出版

 

金曜日はいつもパパと一緒に早く家を出る。

街のお店がだんだんあいてくる。

ビルがだんだんできてくるのを見る。

街の人たちと挨拶をしたり、よそ見をしたり、ポストに手紙をいれたりする。

みんな急いでいるけれど、ぼくらは急がない。

そしてお店について、一緒に朝ごはんを食べる。

ぼくらは食べながらゆっくりお話しをする。いろんなことを。

でもそのうちパパは仕事にぼくは学校に行く時間になる。

また、来週の金曜日が待ち遠しい。

ぼくは金曜日が大好きだ。


* この本を描いたダン・ヤッカリーノさんは1965年生まれ。ニューヨークに住んでいます。
私はこの物語を読んだ時、お父さんと子どもの付き合い方の新しい姿を見たように思いました。
都会的、といいますか、現代的といいますか、何かモダンな感じがしたのです。
「お父さん」といいますと、昼は外で仕事、そして子どもとは休みの日に家の中か、もしくは近所の空き地で一緒に遊び、時々車で遠くに連れて行ってくれる、というパターンの父親像が多いなかで、このお話は少し異色です。
朝早くに家を出て、二人でお気に入りのお店で朝食をとる、それも毎週金曜日に。
金曜日に何か外的な要因があって(お母さんがいないとか)その習慣になったというのではなく、絵本を見る限りではお母さんはお家にいて赤ちゃんの世話をしています。
朝ごはんの用意ができないわけではなさそうです。
この習慣が始まったきっかけは分かりませんが、もう長い間この習慣は続いていて、このことを周りの人々も普通に認容しているようです。
何よりも、お父さんもぼくも金曜日の朝のこの習慣がとても大切で、とてもうれしいことなのだとわかります。
朝の街を手をつないでゆっくりと歩きながら、さまざまなものを同じように見、人と挨拶し、お馴染みの店でおしゃべりしながら朝ごはんを食べるお父さんと「ぼく」。
時間がくるまでその時間と空間を楽しみます。
そして時間になると、お互いに仕事と学校に出掛けていきます。
そしてもう来週の金曜日が待ち遠しくなるのです。
こんな父と子の関わりって楽しいと思いませんか。
「よき子育てのためのスキルとしてこんなこともできるよ」ということではなく、人格をもった一人の大人と一人の子ども、あるいは同士的な二人の、二人だけの大切な世界を共有する喜び。
幸せなひとときなんでしょうね。人生って楽しいと思えるんでしょうね。
お父さんも「ぼく」も。
作者のダン・ヤッカリーノさんは息子のマイケルくんと毎週金曜日、実際にこのことをしているのだそうですが、私はもしかしたらダンさん自身がお父さんとこのような体験をしていたのではないか、あるいはお父さんとのそんな時空にあこがれていたのではないかと思うのです。
絵が今のニューヨークというより、一世代前の街のように描かれているように思えることもその要因かもしれません。
「お父さん」の姿は、千差万別。お母さんのようなある一定のイメージにはあてはまらないほど多種多様な部分があります。
それぞれのスタイルでいいのです。子どもと対等に付き合い子どもと一緒に楽しむことのできる素敵なお父さんがたくさんいてほしいなと思います。

ちょっとだけ

瀧村有子 さく
鈴木永子 え
福音館書店

 

なっちゃんのお家にあかちゃんがやってきてなっちゃんはおねえちゃんになりました。

買い物にいく時、今まではママと手をつないでいたのに、ママは赤ちゃんを抱いているので、なっちゃんはママのスカートをちょっとだけつかんで歩きました。

牛乳も自分でコップに入れて飲みました。パジャマも自分で着てみました。

髪の毛も自分でふたつにしばりました。

みんなママがやってくれるのを見ていたのでちょっとだけ成功しました。

公園に行くと、一人でぶらんこにのりました。

いつもはママが背中を押してくれたのに一人ではうまく動きません。

でもつまさきでちょんと蹴ったらちょっとだけブランコがゆれました。

公園から帰ると、なっちゃんは疲れて眠たくなりました。

ママの所に行って「ちょっとだけ抱っこして」といいました。

するとママは「ちょっとだけでいいの?いっぱい抱っこしたいんですけどいいですか?」とききかえしました。

「いいですよ!」なっちゃんはにっこり笑っていいました。

そして、なっちゃんはママのにおいをいっぱいかぎながらいっぱい抱っこしてもらいました。


* この絵本は何回読んでもなっちゃんのけなげな姿に胸を熱くします。
赤ちゃんが生まれて、「自分はお姉ちゃんになったんだ」という思いが、今までママにしてもらっていたことを何とか自分でしなくちゃあとなっちゃんに思わせます。
そしてひとつひとつがんばって、ちょっとだけ成功していくなっちゃん。
赤ちゃんのお世話で忙しそうなママにちょっと遠慮して孤軍奮闘していきます。
けれども、公園でおともだちのふみちゃんがママと一緒に遊びに来ているのに出会ったり、疲れて眠たくなってくると、どうにもママのあたたかい胸に包まれたくなります。
そして、「ちょっとだけ抱っこして」と遠慮しがちに頼むのです。
読者はここでグッと来てしまいます。
何てけなげなんだろう、何てやさしいんだろう、何て頑張っているんだろう。
小さななっちゃんの体をすっぽりと抱きとめてあげたい衝動にかられます。
でも、そのあとのママのことばに読者は急に緊張がほぐれ、あたたかい思いに包まれるのです。
「ちょっとだけ?」「ちょっとだけじゃなくていっぱい抱っこしたいんですけどいいですか?」
その時のなっちゃんの笑顔!。「いいですよ!」
「ママは自分を大切にしていてくれるんだ」という喜び、「今までと同じなんだ」という安堵感。
こちらまでうれしくなっちゃいます。
おねえちゃんになっても、また大きくなっても、おかあさんはいつも自分を抱きとめていてくれる存在。スカートのはじをつかんでいたい存在なのです。
そうやっておかあさんに抱きとめ受け入れられている実感をもつことは、自分をより大きくしていく力になります。
終わりのページには赤ちゃんを慈愛の目でながめているなっちゃんの表情と、裏表紙には、はりきって乳母車を押しているなっちゃんの姿が描かれています。
自分が愛されているという確信が自分自身を充たして成長させていくのだと思います。

また、なっちゃんが自分でさまざまなことをやろうとした時、今までおかあさんがやってくれたことをよく見ていたので、と描かれています。
そこにおかあさんとの生活の密度の濃さが表れているように思います。
女の子は特におかあさんと同じことをしたがる母子同一化ができやすいのですが、おかあさんのようになりたい、おかあさんと同じことをしたいという思いをもつことが、子どもを成熟に導いていくのだと思います。
幼い日、すべての子どもたちに母子の充実した幸せな関わりをして育って欲しいと願わずにはいられません。

わたしとあそんで

マリー・ホール・エッツ ぶん/え
よだ・じゅんいち やく
福音館書店

 

「わたし」は原っぱにいきました。

草を食べているバッタに「わたしとあそびましょ」とつかまえようとするとバッタはぴょんととんでいってしまいました。

蚊を待ち伏せしているカエルも、ひなたぼっこをしている亀も、樫の実を食べているリスも、枝に止まって鳴いているカケスも、花を食べ始めたうさぎも、へびも、みんなみんな「わたし」がつかまえようとすると逃げていってしまいました。

だれも遊んでくれないので「わたし」は草の種を吹き飛ばし池の石にこしかけてミズスマシが水にすじをひくのをじっとみていました。

ずっと静かに座っていると、バッタがもどってきて草の葉に止まり、カエルも亀も、りすもカケスも、そしてうさぎもへびもみんな「わたし」のそばにもどってきました。

その時、茂みのなかから鹿のあかちゃんが「わたし」を見つめていました。

「わたし」が息を止めていると近くに寄ってきて「わたし」のほっぺたをなめました。

「わたし」は今とってもうれしい。みんなが「わたし」と遊んでくれるんですもの。


* マリー・ホール・エッツは「もりのなか」やその続編「またもりへ」などをかいた作家です。
彼女は幼い時から家のそばの森に出かけたくさんの植物や動物の様子をじっと見つめ自然の中で何時間も一人で過ごした、ということですがこの本のなかにもそんな作者の姿が表現されているように思います。
子どものデリケートな心情を詩的に語ることのできる作家です。
「もりのなか」では「ぼく」が主人公ですが、この「わたしとあそんで」は「わたし」が主人公になっています。
「わたし」は誰かと遊びたくて遊びたくて仕方のない元気な女の子、原っぱで「ね、わたしと遊ぼう」と思わずつかまえようとすると動物たちは次々に逃げて行ってしまいます。
一人きりになった「わたし」は、自分で遊び出します。するとさっき逃げて行った動物たちが戻ってきて「わたし」と遊びだした、というものがたりをやさしい絵で描いています。
子どもにとって興味関心のあるたくさんの動物が登場し、くりかえしの楽しさと起承転結のはっきりした展開は絵本の醍醐味を余すところなく伝えてくれています。
散っていったものがまた集まってくる、といった出来事が感覚的に緊張と喜びにつながって「あぁよかった」という幸せ感を与えます。
作者は「あぁわたしは今とってもうれしいの。とびきりうれしいの。なぜってみんながみんながわたしと遊んでくれるんですもの」と最後のページで「わたし」に言わせていますが、幼い子どもが心に蓄積してほしいものとはこういう「幸せ感」なのではないかと思います。

4月、幼稚園にも「わたし」と同じように、誰かと遊びたくて仕方ないという子どもたちがたくさん入園してきます。
けれどもはじめは遊びたいのにどうやって友達になったらいいのか分からずに、叩いたりひっぱってみたりしては相手を泣かしたり拒否されたりする子どもがいます。
自分だけの思いでアクションを起こしてしまうのですね。
そのうち、周りの人たちの遊んでいる様子を見るゆとりが出てくるようになると、人との関わり方がだんだん分かってきます。
そして相手の思いや状態も思いやりながら自然に友達と一緒に遊ぶことができるようになります。
人との「間」が分かるようになるのです。
このことはことばでいくら説明しても分かるものではなく自分の体験と感覚を通さないと学習されていきません。
そして、このことは生涯を通して人との関わりの基となっていくのですから大切に見守ってあげなければならないと思います。

うっかりもののまほうつかい

エウゲーニイ・シュワルツ 作   オリガ・ヤクトーヴッチ 絵
松谷 さやか 訳
福音館書店

 

昔、あるところに、魔法使いであり、機械づくりの名人でもあるイワン・イワーノヴィチ・シードロフという学者がいました。

いろんな機械を作りましたが一番のお気に入りはロボくんでした。ロボくんは猫くらいの大きさで犬のようにいつも後からついてきて、人間のようにおしゃべりができます。

学者は大変なうっかりものでしたが、ロボくんが一生懸命助けます。

ある時、学者とロボくんは散歩にでかけました。

すると、男の子が荷馬車に麦をつんでやってきました。

男の子はロボくんを見て話しかけてきましたが、学者が魔法使いだと知ると、荷馬車をひいている馬を猫に変えられるかとききました。

学者は動物を小さくする魔法のレンズをとり出すと、馬のほうに向けて「1・2・3!」というと馬車につながれていた馬がたちまち猫になりました。

ところがその時、ロボくんはリスをおいかけていてその場にいなかったのが致命的でした。

だって、小さくなった動物を大きくもどすレンズはこわれていて修理に出していることをうっかりものの学者はすっかり忘れていたのです。

時すでに遅し。

レンズがなおるまでちょうど一月、馬は猫のままで暮らすことになってしまいました。

猫になった馬は、ネズミをつかまえたり、ミルクをピチャピチャのんだりペチカの上で眠るようになりました。

さて、25日目のこと。

うっかりものの学者は、予定より早く仕上がってきた「動物を大きくする魔法のレンズ」を、男の子に何も知らせずその家の方に「1・2・3!」と向けてしまいました。

ペチカの上で気持ちよく寝ていた猫は急に大きな馬に大変身。

ペチカはこわれるし、馬も家の人もみんなびっくり。

馬は猫から馬にもどることができました。

ところが馬にもどったものの、それからというもの毎晩のようにネズミを待ち伏せしたり、屋根にのぼって夜明けまで遊んだり、猫たちと語り合ったりするようになったということです。


* この話は、今現在の話のようですが、実は今から65年前にロシアの幼年雑誌に発表された話です。

65年前というと日本では敗戦の年です。

そんな世情のなかでロシアのエウゲーニイ・シュワルツはこんなことを考えて発表していたのですね。

科学の進歩、発展に国を挙げて力を入れてきたロシアというお国柄が影響しているのかもしれません。

65年前この話を幼年雑誌で読んだ子どもたちのなかには、こんな世界を夢に描きそれが実現できるように科学の進歩に寄与してきた人たちがいたかもしれません。

今現在、この絵本のなかに出てくる、掃除をする機械も、人が話すことを書いてくれる機械も、コーヒー豆をひいて入れてくれる機械も、ドミノゲームの相手になってくれる機械も、またロボくんのように人間のようにおしゃべりができて日常生活のさまざまなことが上手にでき、うっかりものの人間をコントロールさえできる機械も、科学の進歩のなかですでに実現して生活のなかに存在しています。

機械と人間との共存。それは今や必須のことで、否定するべきことではありませんが、馬が猫に変えることができたとしてもやはり馬には馬の本質があり、猫には猫の本質がある。それを機械で無理矢理変えるとするならば、世界は破壊にむかうでしょう。

これから先、人間が人間の本質を超えて破壊に向かうような事態になった時、ロボくんのようにベルをならして警告してくれるような機械が必要になってくるのでしょうか。


この話はこの65年間の時間のなかさまざまな形で出版されてきましたが、2010年1月、オリガ・ヤクトービィチの絵によって新しく絵本として出版されました。

オリガ・ヤクトービィチの絵は透明感のある美しさと確かな質感のあるデッサンで私の好きな画家ですが、残念なことにこの絵本の絵を最後にして亡くなりました。

このおはなしが現代の子どもたちにも夢と楽しさを与えてくれる絵本として出版されたのもこの画家の絵があってこそとも思います。

時代を超えて、この絵本がたくさんの子どもたちのものになっていってくれたら素晴らしいと思います。

三びきのやぎのがらがらどん

むかし、3びきのやぎがいました。

名前はどれも「がらがらどん」といいました。

ある時山の草葉で太ろうと山を登っていきました。

上る途中の谷川に橋があってそこを渡らなければなりません。

でも橋の下にはこわいトロルがいて渡るものはみんな食べてしまうのです。

3びきは相談しました。

まず小さいやぎが橋を渡りにやってきました。

トロルが「きさまをひとのみにしてやる!」というと

「まって。もうすぐ僕より大きなやぎがやってくるよ」といって見逃してもらいます。

次にやってきた2番目やぎも、「ぼくよりずっと大きいやぎがやってくる」といって橋を渡ってしまいます。

そして、最後にやってきたのが大きいやぎのがらがらどん。

トロルにとびかかるとこっぱみじんにして谷川に突き落としてしまいました。

それから山に登っていって、歩いて帰るのもやっとになるくらいおいしい草をいっぱい食べました。


* このホームページの「1冊の絵本」を始めてから9年。

ご紹介した絵本の数は今月で109冊になります。

その間、私は自分の独断と偏見の上ではありますが、幼稚園就園前のお子さんから就園している子どもたち向けの絵本をできるだけ新旧とりまぜてご紹介してきました。

そして、その履歴を確認してみたところ、何とこの「三びきのやぎのがらがらどん」がなくて、びっくりしました。

きっとこの絵本は私が取り上げるまでもなく、すでにたくさんの方たちが何代にもわたって読み継がれてきているだろうという私の謙虚さからこういうことになったのではないかと思います。

しかし、お正月に何の絵本をご紹介しようかなと思った時、「やっぱりこれでしょ」と手にとったのがこの本でした。

このお話は、北欧の民話となっています。

実際に北欧に行ってがらがらどんのふるさとを見てきた方に伺うと、この話はどこの家でも゛おとうさんが子どもたちに語ってきかせるもの゛でそれが代々語り継がれているというのです。

シンプルな話の展開、繰り返しのおもしろさ、悪いトロルとの一騎打ち。

確かに 何度きいてもドキドキしたり、ほっとしたりする昔話の語りです。

こわいトロルもおとうさんの迫力ある語りのなかで生き生きと躍動して伝わってくることでしょう。

しかし、どんなにこわくても最後はおとうさんの胸のなかに飛び込んでいかれる安心感のなかでのこわさです。

物語の内容も、深読みすればとてつもなく哲学的で、人のいきる過程を実に深く洞察し示唆しているものだと思うのですが、それが何気なく父から子へおもしろい物語として伝えられていくというところが昔話のすごさでしょうか。

父から子に、子から孫に、という語り継ぎは「文化」となって根付きます。

語り継ぐものがあるという文化は人としてのアイデンテティのもとになり得ます。

私たちもぜひ子どもに語り継ぐものをもちたい、お正月という非日常のなかでゆったりと私たちの歴史的存在を伝えていくものをもちたい、という思いが今月、この絵本を選んだ理由の大きなひとつです。

また、この絵本は、幼い子どもでも何回か読んでもらうとすっかり文を暗誦してしまうくらいことばが生きています。

これは、昔から語り継がれるなかで余分なものを削ぎ落とし、伝えるべきことばが力強く語られていることによるのでしようが、私はこの絵本の瀬田貞二さんの訳によるところが大きいと思っています。

洗練された無駄のない的確なことば、体が自然に動いてしまうようなリズム感、トロルとの一騎打ちのところの迫力。

瀬田さんのことばがすべて子どもの体のなかに入り込んで、子どもたちはまるで食べ物を食べているようにことばを食べているようです。

大人も子どもも一体となってことばのおもしろさを享受できる絵本、それがこの「三びきのやぎのがらがらどん」だと思います。

三びきのやぎのがらがらどん その2

北欧民話

マーシャ・ブラウン 絵
せた ていじ 訳

福音館書店

 

むかし、3びきのやぎがいました。

名前はどれも「がらがらどん」といいました。

ある時山の草葉で太ろうと山を登っていきました。

上る途中の谷川に橋があってそこを渡らなければなりません。

でも橋の下にはこわいトロルがいて渡るものはみんな食べてしまうのです。

3びきは相談しました。

まず小さいやぎが橋を渡りにやってきました。

トロルが「きさまをひとのみにしてやる!」というと

「まって。もうすぐ僕より大きなやぎがやってくるよ」といって見逃してもらいます。

次にやってきた2番目やぎも、「ぼくよりずっと大きいやぎがやってくる」といって橋を渡ってしまいます。

そして、最後にやってきたのが大きいやぎのがらがらどん。

トロルにとびかかるとこっぱみじんにして谷川に突き落としてしまいました。

それから山に登っていって、歩いて帰るのもやっとになるくらいおいしい草をいっぱい食べました。


* ちいさいやぎと2番目やぎと大きいやぎのがらがらどんが、おいしい草を食べようと山にのぼっていくお話。

のぼる途中の谷川に橋があってそこを渡らなければなりません。

橋の下にはきみの悪いトロルがすんでいて、橋を渡るものをみんな食べてしまいます。

やぎたちは知恵と力を合わせて見事トロルをやっつけて山にのぼっていきました。

というあらすじの絵本です。

1月のこの欄にもこの「三びきのやぎのがらがらどん」を選んでご紹介しました。

そこで2月は「その2」として書かせていただきます。

1月は、親から子へと語り継がれる物語の大切さについてお話しいたしました。

その文のなかで
「物語の内容も、深読みすればとてつもなく哲学的で、人の生きる過程を実に深く洞察し示唆しているものだと思う」
と書いたのですが、何人かの方にその哲学的、洞察、示唆とは何か、というご質問を受けました。

そこで今月は、少しそのことについて書いてみたいと思います。


私がこの絵本にであったのはもう40年も前のこと。

地味ながら、一度見たら忘れられない絵と繰り返しの物語のおもしろさ、それに滑りの良いリズミカルなことばに魅力を感じて、何度も何度も読みました。

どんな時でも、子どもたちがこの絵本には集中して、食い入るように絵を見、言葉を食べているように感じられたのも魅力でした。

でもそのうちに、何故このやぎたちは、小さいやぎから橋を渡ったんだろう、という疑問が芽生えました。

だって一番はじめから大きいやぎのがらがらどんが橋を渡れば、トロルを簡単にやっつけて他のやぎは危険を冒さず楽々と山にのぼっていけるのに、と不思議に思ったのです。

しばらくして、ふとひらめいたのです。

この三匹のがらがらどんは、三匹ではなく一匹のやぎのことではないか、と。

確かに「なまえはどれもがらがらどんといいました」といっています。

「がらがらどん君という一匹のやぎが小さい乳幼児期を経て、少年期になりそして青年期を迎えて自立に向かうという話。」と考えた時、私は思わず「納得!」したのです。

じゃあ、トロルって何?と思い巡らせると・・・・・

子どもが大きくなっていくときにその行く手を阻むもの、そして大きくなっていく時にそこを乗り越えなければならないもの、とは。

それは、息子に対しての父親だ、と。

一番小さいやぎのがらがらどんは、大きなこわいトロルに出会い食べられそうになると、「自分はこんなに小さいんだよ」と小さいことを武器にして許されます。

二番目やぎは「小さいんだ」とはいうものの自分ではあまり小さいことに納得していません。もっともっと大きくなれるんだぞという闘志がむんむんです。

でもそんな生意気をトロルは軽くあしらって追っ払います。

そして、瞬く間に大きく成長した大きなやぎは、今まで蓄えてきた武器を総動員してトロルに挑戦し、木っ端微塵にしてしまいます。

大きいやぎにやっつけられたトロルは何だかとても無力で小さく感じられます。


子どもは、親の庇護のなかで大きくなっていきますが、やがて来るべき時、その親を乗り越えなければ本当の自立は果たせません。

そんな時、乗り越えられた親は複雑ではありますが、子どもも意気揚々だけではなくどこかにさびしさも伴うものです。

子どもが自立する時、それはいつの世も、親も子も痛みと喜びが付きまといます。

でも子どもがトロルを木っ端微塵にしてやっつけて、希望に満ちた山に向かって登っていくことを、親は覚悟しながら成し遂げさせなければならないのだと思います。


絵本を自己流に深読みすることは邪道かもしれません。

しかし、北欧の地域に昔から親から子へと語り継がれてきたお話のなかで、人が人になっていくということはこういうことなのだよということを、代々「ことば」で伝えてきたのではないかと感じるのです。

そう感じた時、この「三びきのやぎのがらがらどん」がまた違う感覚で受け止められたのです。

クリスマスの夜はしずかにね!

ジュリー・サイクス 作

ティム・ワーンズ 絵
なかお えつこ 訳    

文溪堂

 

今日はクリスマスイブ。

サンタクロースはうれしくて、ウキウキしています。

トナカイのひくソリにいっぱいプレゼントを積み込み、,ネズミと一緒に、眠りについている子どもたちのお家をめざして出発です。

「ああ いそがしい いそがしい」といいながら地上に降りると、ネコが出迎えました。

思わず「メリークリスマス!」と大きな声でいうとネコがいいました。

「サンタさん、静かに。おこしちゃだめ」といわれました。

わかってはいるのですが、このサンタさん、うれしくてうれしくてたまらないものですから氷のかけらにつまずいてころんだり、プレゼントのびっくり箱から人形が飛び出したら愉快愉快と大笑いをしたり、床一面の飾りに足をひっかけてローラースケートにすっぽりはまり部屋の中をスケートしたり大きなくしゃみをしたり歌をうたったりとそのにぎやかなこと。

そのたびにその家のイヌやネコやトナカイに「サンタさん。しずかに。こどもたちをおこしちゃだめ」と言われてしまいます。

最後にはサンタさんは自分にむかって「サンタさん、しずかに。こどもたちをおこしちゃだめ」といいきかせました。

プレゼントをみんな配り終わってやっと家にもどったサンタさんはくたくた。

あたたかいココアを入れてスリッパにはきかえ肘掛け椅子に座ると

「ぐおー、ぐおー」と大いびきをかいて眠ってしまいました。

トナカイたちも「もぐもぐ むしゃむしゃ」と晩ご飯の干草を食べ始めました。

すると,ネズミがいいました。

「トナカイさん、しずかに!サンタさんをおこしちゃだめだよ!」


*楽しいクリスマス。

子どもの一番の楽しみはもちろんサンタクロースからもらうプレゼント。

サンタさんが来るのを待っているのは子どもなのに、この本には子どもは出てきません。

この本はサンタさんのお話なのです。


サンタさんは最初から上機嫌。

年に一度のクリスマス。

子どもたちと会える喜びの日。

子どもたちの喜ぶ顔を思い浮かべながら自分の方がウキウキワクワクしているのです。

プレゼントをもらうのは勿論うれしいこと。

でもプレゼントって、する方もうれしいのです。

相手のことを思い、相手の喜こぶ顔を思い浮かべながらプレゼントを作ったり、選んだりしていると何だかとてもうれしくなってウキウキしてきます。

それもクリスマスという恵みにあふれた時、みんなで喜びあう時に心と心を通わせ互いに互いを思いやりながら真心をやり取りするということは何と幸せなことでしょう。

サンタさんはきっとそんな幸せな思いで、子どもたちにプレゼントをしてくれるのでしょう。

人間味あふれるこの絵本のサンタさんは、子どもたちにサンタクロースをすぐ身近かに感じさせてくれるでしょうし、クリスマスの喜びや楽しみをより大きくしてくれること思います。

また、このお話では、子どもたちがとても大事に守られているということを感じます。

子どもの周りにいる,ネコやイヌたちがまるで子どもの番人のように子どもの眠りを守ります。そして、子どもにサンタさんの姿が見えてはいけないように気をかけるのです。

子どもにとってサンタさんは目に見えないものを信じる力を与えるもの。

サンタさんは子どもが目で見てしまったらいけないのです。

そのサンタクロースの真実、そしてクリスマスの秘儀をしっかりと描ききっているように思います。

なかなおり

シャ-ロット・ゾロトウ 文

ア-ノルド・ローベル 絵
みらい なな 訳

童話屋

 

雨がジャージャー降っている暗い朝です。

パパはママに「行って来ます。」のキスを忘れて出かけていきました。

ママは不機嫌になつてジョナサンに八つ当たり。

ジョナサンはむかついて姉さんのサリーにいらないおせっかいをしました。

サリ-はぷんぷんしたまま学校へ行ったものですから、今度は友達のマ-ジョリ-に難癖をつけました。

マジョ-リ-はかっとして不機嫌になり、家に帰って弟のエディに難癖をつけました。

エディは癪にさわってむしゃくしゃし、自分のベットに寝ていた犬のパジ-を追い出しました。

でもパジ-はへこたれません。

エディと遊びたくて飛びついて顔をペロンペロンなめました。

エディはくすぐったくて笑い転げているうちにお姉さんの意地悪を忘れてしまい、部屋に入ってきたマ-ジョ-リ-にとっておきの鉛筆をあげました。

マージョ-リ-はにっこりしてエディに「さっきはごめんね」とあやまりました。

あやまると気持ちよくなってサリーに電話をするとサリーは「さっきはごめんね」とあやまりました。

あやまると気持ちよくなってサリ-がジョナサンににっこり笑いかけるとジョナサンもサリーにあやまりました。

そして、ジョナサンがママに話しかけるとママも機嫌がなおりました。

やがて夕方、雨が止んでおひさまが顔を出し、パパが帰ってきてママにただいまのキスをしました。


*この本のお話は、一本の曲線が放物線を描いているような動きとリズムを感じさせます。

ちょっとしたきっかけで不機嫌になったママから次々に不穏な空気が伝わって、雨の一日にたくさんの人が八つ当たりや意地悪の嵐に巻き込まれます。

ところが、「犬」との関わりを媒介にして,そこからマイナスがどんどんプラスに変わっていきます。

この文章のなかには「あやまると気持ちよくなって」という文が重ねられていますが、「あやまられること」よりも、「あやまること」の方が自分にやさしく自己肯定することができるのかもしれません。

伝染していった黒い嵐が、何気ない転換の中で今度は仲直りの伝染になっていきます。

このなかで、人は関係性のなかで生きているものなのだということを感じさせられます。

そして、いったん決裂したかのような関係性も、必ず回復できるものなのだということを希望として感じることができます。

回復するだけではなく、今まで以上にその関係性を深めていくことになります。

人と人の関係性の微妙さ、そしてよき方向に向かおうとする善良さと柔軟性を恵みとして感じられる一冊です。

今から46年前に描かれたこの絵本,ユーモアと共感性のなかでたくさんの人たちに勇気を与えてきたことと思います。

きちょうめんななまけもの


ねじめ正一 作
村上康成 絵

東京画劇

 

動物園のナマケモノ、木にへばりついているだけの怠け者にみえますが、

動物園がしまって見物客がいなくなると・・・・・。

木の上からすばやくおりるとトレーニングウェアを着て

筋肉体操をしたりランニングをしてトレーニングをするんですよ。

汗をかいたあとはシャワーに入りパジャマに着替えて

怠け者といわれるのが一番嫌なので

几帳面に日記をつけてから晩ご飯を残さず食べて

横になってもそのままは寝ないで、

星の図鑑をもって空の星の名前を調べます。

そして木にのぼって明日のナマケモノの予習もするのですぞ。


* あの怠け者そのもののナマケモノが、人が見ていない夜何をしているかなんて考えたことがありますか。

ねじめ正一さんは考えたのですねえ。

昼間は何に対しても反応が遅く、できるだけ動きたくないという見え見えの少エネルギー愛好者であるナマケモノ、その実 夜みんなが見ていないところでは筋力トレーニングに励み、几帳面に日記をつけ、明日のナマケモノの予習までしているなんて。

そのギャップがおもしろいですよね。

想像するだけで笑っちゃいます。

ねじめさんはきっと、じっくりナマケモノととことん付き合ったのではないでしょうか。動物園の柵にへばりついて自分もナマケモノになってね。

そして自分もナマケモノになったらナマケモノがすっかり好きになって身内のように思えるようになり、こんな奇抜な発想が出てきたのではないかなんて思っちゃうほど ねじめさんのユーモアあふれる、そして愛に満ちたまなざしを感じます。

そしてそれをぴったりに表現しているのが村上康成さんの絵です。

シンプルなのに豊かな表情とユーモアに満ちた表現。

それに色や構成も美しく見ているだけで楽しくなります。

私たちは目に見えることや、与えられた情報や、「常識」といった既成事実だけでものを判断したり思い込んだりしてしまいがちですが、世の中、こんなに楽しくすべてのことを自由に発想したり想像できたらいいなと思います。

あたたかいユーモアは人生を楽しくするものだと思わされる一冊です。

ごきげんならいおん

ルイーズ・ファティオ ぶん
ロジャー・ディボアザン え
むらおか はなこ やく

福音館書店

 

美しいフランスの街の公園の真中に動物園がありました。

動物園には、堀をめぐらし大きな岩山のある家をもったごきげんならいおんが住んでいました。

毎日、らいおんはたくさんの人たちとご機嫌で挨拶を交わします。

町の音楽隊が演奏する音楽も大好きでじっと目をつむってききます。

町の人たちはみんならいおんと仲良しで「こんにちは」といっては肉やご馳走をくれるのでした。

ところが、ある朝、らいおんは自分の家の戸があいているのを見つけました。

いつもはみんなが自分のところに来てくれるからこの機会に今度は自分の方から出かけて行って町の人たちに会いに行こう、とらいおんは考えました。

動物園から町に出たらいおんは丁度いつも挨拶をするデュポン校長先生に出会いました。

ところがらいおんが「こんにちは」と声をかけると、デュポン先生はそのまま倒れてしまいました。

いつも動物園に来る3人のおばさんも、八百屋のパンソンおばさんも叫びながら逃げていきました。

にぎやかな楽隊もこちらにやってきましたが、らいおんが挨拶をする間もなく、みんな大騒ぎで逃げていってしまい、通りにはだれもいなくなりました。

その時突然大きなサイレンの音とともに消防車がとびだしてきました。

消防士たちが恐る恐るホースをもってらいおんに近づいて、近づいて・・・。

その時、らいおんのすぐ後ろで「やあ、ごきげんならいおんくん」という声がしました。

子どもの仲良しフランソワでした。

らいおんはごきげん。

だって逃げ出さないで挨拶をしてくれる友達に出会えたのですから。

「公園まで一緒に帰ろうよ」とフランソワはいいました。

それでらいおんは一緒に帰ることにしました。

高い窓から見ていた町の人たちはやっと「さよなら、ご機嫌ならいおんくん」と大きな声で挨拶をしました。

さて自分の家に帰ったらいおんは、それからはもう決して自分から友達に会いに行こうとは思いませんでしたって。


*この絵本は55年前に描かれた絵本です。

そして日本に紹介されてから45年になります。何回も版を重ね、たくさんの子どもたちの支持を得て、未だに色あせることなく読み継がれている本です。

彩色も絵も実にシンプルでありますが、ライオンや登場人物の表情が実に豊かでユーモアに満ち、その絵によってすべてがわかるといった手確い表現がされていて、想像力と共に雰囲気までふくらませてくれます。

お話も最後は「ああ よかった」と心があたたかくなるようなストーリーですが、そのお話を読んでいると実に様々な気づきや思いが去来します。

私たちはどんなこわいものや恐ろしいことも、自分に危害が絶対に及ばないという安全圏に身を置いているときには、それを許容したり、ご機嫌に関わることができますが、一旦その間にある柵がこわされ自分の生活の領分に踏み込まれた途端に、今までの関わりを反故にしてそれを排除しようとします。

その間にある柵は、大人になればなるほど強固で分厚いものになるようです。

ある意味、私たちの他の人や物との関わりはその安全柵のバランスのなかで成立しているようにも思えます。

しかし子どもは、その柵がない、あってもとても薄いものなのではないかと思わされます。

柵があろうがなかろうが、その本質ですべてを判断するようなところがあります。

この本でいえば、毎日挨拶を交わすライオンとの信頼感がフランソワくんのなかの一番大切な本質ではないかと思うのです。

そして、「公園まで一緒に帰ろうよ」というフランソワくんの「一緒に」の言葉にとても大きい意味を感じるのです。

自分と一緒に、ということは自分のすべてにあなたを受け入れるということです。

子どもにはそれができるのですね。

「子ども」を忘れている自分にさまざまなことを気づかせ、自分に対して「皮肉」さえ感じる意味の深い本だと思います。

ベンジーのふねのたび

マーガレット・ブロイ・グレアム 作・絵
わたなべ しげお 訳

福音館書店

 

ベンジーは耳が長くて尻尾の短い茶色の犬です。

ベンジーは家族と旅行をするのが大好きでした。

でもある夏のこと家族は船旅行をすることになりベンジーはお留守番になりました。

船まで見送りにいったベンジーは、次の日メアリーおばさんと散歩にでかけた時、港に止まっていた家族が乗って行ったのとそっくりの大きな船をみつけて飛び乗りました。

船には家族は乗っていませんでした。

その上、意地悪なネコのジンジャーがいて、ベンジーを追い掛け回すのです。

ところがベンジーがジンジャーから逃れているうちに船は出帆し、海の上へ。

姿が見えれば追い掛け回すジンシャー。でもその姿がみえなくなりまったある日、ベンジーは高いマストから降りられないでいるジンジャーを発見したのです。

ベンジーは航海士に知らせました。そして、無事マストから降ろしてもらってからというものジンジャーはけっしてベンジーを追い掛け回すことはありませんでした。

ベンジーはコックさんや航海士とも仲良くなり、船の旅を楽しみました。

やがて船はもといた港にもどってきました。

ベンジーは、タラップを駆け下り、家にむかって一目散。

家の人たちは、ベンジーがもどってきて大喜び。

「もう決してお留守番なんかさせないよ」といいました。


* 夏になると、私はどうしてもマーガレット・ブロイ・グレアムさんの描く絵本を思いだすのです。

この「ベンジーのふねのたび」もいかにも「夏」という感じがして、毎夏一回は手にとります。そして「うみべのハリー」も。

この2冊、「ベンジー」はグレアムさんですが、「ハリー」はジオンさんが文を書いていて、書き手が違うにもかかわらず、同じトーンを感じます。

気が付かなければ、同じシリーズのようにも感じてしまいます。

これは両書の訳をされたわたなべしげおさんのリズム感あふれる名文もその役を担っていることは明白です。

今回はベンジーをとりあげましたが、海と船という開放的な空間設定と、スリルとスピード感のある物語の展開、そして人とベンジーのやさしい関係性があたたかいタッチの絵と愛情あふれる文で描かれていて絵本としての魅力にあふれています。

30年ほど前に日本に紹介されたこの絵本、毎年夏になるとたくさんの親と子がゆったりとした思いでページを繰っているのではないでしょうか。

おいしいおと

三宮麻由子 ぶん
ふくしまあきえ 絵

福音館書店

 

さぁこれからお食事です。

食卓の上にはおいしそうなごちそうがならんでいます。

どれからいただきましょうか。

春巻きからにしよう。

カコッ ホッ カル カル カル カル

あぁ おいしい。

ほうれん草は

ズック ズック ズック ズック ズック ズックス

あぁ おいしい。

ごはんも、わかめも、味噌汁も、ウインナも食べるとおもしろい音がするよ。

かぼちゃはモモッ ポフ ポフ ポフ ポフだ。

レタスもトマトも音がするよ。

さいごのデザートはショッ ショッ ショッ ショッ ショッそれにサシュ スイーン。

あぁおいしかった。ごちそうさま。


* 幼児絵本ふしぎなたねシリーズの一冊です。

この絵本を見て、まず感じたのがこの日のこの家の食卓の豊かさです。

わかめの味噌汁にごはん。カボチャの煮付けにほうれん草のおひたし。

それに、春巻きとレタスとトマトとウインナの盛られた一皿。デザート。

決してレストランのメニューのような豪華なものではありません。

しかしどの品にも色どりがあり、おかあさんの手がかかったあたたかさを感じさせるものばかりです。

そして、このお料理を子どもがひとつずつ口にいれてはその音をききながら楽しんで「あぁおいしい」といって全部を満足して食べるのです。

本当においしそうに食べています。

このお家はおとうさんとおかあさんとそして子どもの3人家族なのでしょう。

それぞれの分が盛り分けられているお皿を見ると、大人も子どももまったく同じメニューです。ただ子どもは大人の半分の量に盛り付けられています。

こうやって食べ物の音をきき、ゆっくりと味わいながら満足して食事をしている子どもの周りには、やはりみんなで食事をすることを喜び楽しんでいるお父さん、お母さんの姿が見えてきます。

このカボチャはおばあちゃんが作って送ってくれたのよ、などという会話まで聞こえてきそうです。


今、飽食の時代にあって、子どもは3度3度の食事を喜んで「あぁおいしい」といって食べているでしょうか。

何とか子どもが食べてくれるように、という思いから子どもが喜びそうな色や形、きつい味付けのファストフード的なものが食卓を占拠していないでしょうか。

そして、同じ食卓についていても、テレビをみんな見つめながら、会話もなく、もちろん野菜やおかずのおいしい音に気づきもしないでいるのではないでしょうか。

ひとつひとつの食物がみんな違う音や味をもっていて「おいしい」と感じながら喜んで食事をしている子どもがどのくらいいるでしょうか。


そんなことを考えながらこの絵本をもう一度読むと、子どもが健やかに豊かに育っていくときの原点がこの食卓にすべて包括されているのではないだろうか、とさえ感じてしまいました。

むかしむかしとらとねこは…

大島英太郎 文・絵

福音館書店

 

昔むかし トラとネコは山の中で暮らしていました。

トラは今と違ってとてものろまで狩りもうまくありませんでした。

一方ネコはとてもすばしこくて獲物を捕まえるのがとても上手でした。

そこでトラはネコに、「上手に獲物を捕る方法を教えてくれないか」とたのみました。

ネコはなかなか承知しませんでしたが、あまり熱心にトラが頼むので教えてやることにしました。

まず「上手に獲物に近づく方法」を教えました。

次に「速く走る方法」を教えました。

最後に「高いところから飛び降りる方法」を教えました。

どれもトラにはむずかしい技でしたが、ネコがとても上手に教えてくれましたし、一生懸命練習をしたので、トラは見違えるように上手にえものを捕れるようになりました。

「これでわたしの知っている技は全部教えました。最後までよくがんばりましたね」とネコがいうと、トラは「もうひとつだけ知りたいことがある。一体ネコというものがどんな味がするのかってね!」といって襲いかかってきたのです。

ネコはびっくりして大慌てで逃げました。トラが追いかけます。

あわやという時、ネコはとっさに近くにあった1本の木にとびつきました。

ネコは高い木の上からトラを見下ろしてこういいました。

「ひとつだけあなたに教えなかったことがありました。高い木に上る方法をね。」

そんなわけでトラは今でも木に上れないし、ネコはトラを恐れて人間の家に住むようになったんですって。


* 絵本の醍醐味がすべて揃っているようなおはなしです。

画面いっぱいのしっかりとしたダイナミックナな構図、トラとネコの体の動きや表情のリアリティ、それに繰り返しが多用されたスピード感にみちたお話の展開。

そして最後のどんでん返しとスリル。

中国の昔話から題材をとられたとのことですが、動物の実態の観察眼の確かさとユーモラスな想像性のある展開は子どもだけでなく大人をもおはなしのおもしろさに引き込んでいきます。

確かにトラは木に上れないな、それにはこんなことがあったのかなどと妙に納得してしまったりして。

それはそうと、大人同士でこの絵本の話になった時、ある人が「この話はどうもすっきりしないな。」と冗談交じりに言い出したのです。

「だってこんなに恩義のあるネコに対してお礼を言うどころか、おまえを食っちまうなんて、そんな反道徳的なことがまかり通っていいのか。」ということでした。

確かに昔話のなかには、すっきりと合点がいかないお話がたくさんあります。

例えば「うさぎと亀」の話。

どうして亀は眠っているうさぎを起こしてやらなかったのか。

例えば「アリとキリギリス」

何故アリはキリギリスを家に入れて食べさせてやらなかったのか。

「3びきのこぶた」

あれほどオオカミを馬鹿にして最後は煮て食っちまう、などという豚がいるのか。
などなど。

でもだからこそ、おはなしっておもしろい。

理屈や論理の整合性だけのおはなしなんておもしろくないですものね。

おはなしの生まれた背景、時空を超えて人々の心のなかにある普遍的な何かに共感するものをもっているのが昔話なのかもしれません。

ねこどけい

きしだ えりこ さく
やまわき ゆりこ え

福音館書店

 

「ことちゃん」は鳩時計をもっていました。

くくう くくうと鳩がなくと、

「ことちゃん」はそれに合わせて朝ご飯を食べたり、おでかけをしたりします。

猫の「ねねこ」はことちゃんがおでかけしたあと、鳩と遊びたくてたんすに飛び乗ると

じっと鳩が出てくるのをまっていました。

くくうと鳩が出てくると、「ねねこ」は前足で鳩の頭をひとつたたきました。

次に鳩が出てきた時、「ねねこ」は鳩時計の屋根に飛び乗り、窓から鳩の頭をたたき

小さな窓から入りこもうとしました。でも小さすぎてはいれません。

とうとう鳩時計は曲がり鳩はなかなくなってしまいました。

「ことちゃん」は時計やさんに鳩時計を持っていきました。

時計やさんは鳩と時計を上手になおしてくれました。

そしてもうひとつの包みをくれました。

それは丸い窓のついた「ねねこ」のおうちでした。

時計やさんが「ねねこ」のために作ってくれたのです。

ねねこは中に入って大喜び。

鳩が顔を出して「くくう」となくとねねこもまけずに「にゃん」となきます。

ことちゃんも「すご―い。えらーい。ねこ時計だ」と大喜びです。


* この絵本は2009年4月号の「こどものとも 年中版」として発行されました。

読んでいると「なつかしい」という気持ちになりました。

何がとか、前に読んだことがあるとか、そういうことではなく、ここに流れている空気とでもいいましょうか、時の流れとでもいいましょうか、とてもなつかしく思えたのです。

子どもの世界がゆっくりと、そして愛情にあふれる丁寧な文章とおっとりとした絵で表現されていて、なにやら1960年70年代の子どもの世界を垣間見るような気がしました。

それは、絵本の手法としてなつかしいということと同時に、生き物とのかかわりのなかでまるごと受け入れていく子どもの感性と、大人への信頼とそれに伴う社会性、そしてそれをゆったりと支える大人のやさしさが、今の子どもをとりまく環境として希薄になっているのではないかという危機感のなかでのホッとするようなものなのかもしれません。

この絵本のなかでは、大人はあくまでも子どもを丁寧に見守る、支える存在であり、子どもに大人が寄り添っています。

子ども主体の生活が描かれているのです。

今はどうでしょうか。

大人の都合に子どもを添わせていることがあまりにも多いように思います。

そういうなかではこのような「ことちゃん」のような子どもの生活はなかなか生まれないのではないでしょうか。

作者の岸田衿子さんと山脇百合子さんのこの本へこめた思いは何だったのだろうかと思い巡らせながら読み重ねました。

たろうのともだち

村山佳子 さく
堀内誠一 え

福音館書店

 

あるひ、こおろぎは庭を散歩していました。

散歩は快適でしたがひとりぼっちがつまらなくなって、ひよこに声をかけました。

でもひよこは羽根を広げて「つっついちゃうぞ」とむかってきました。

「たすけて」というと、「じゃあけらいになれ」というのでこおろぎはひよこのけらいになって歩いていきますと、ねこにであいました。

ひよこは挨拶をしましたが機嫌の悪いねこは、「おまえなんか、ひっかいちゃうぞ」とむかってきました。

そこで助けてもらうかわりにこおろぎとひよこはねこのけらいになりました。

こんどはねそべっている犬にあいましたので、ねこが挨拶をしようとすると「おまえなんかつかまえてかみついちゃうぞ」といいました。

許してもらうかわりにみんなは犬のけらいになりました。

犬を先頭にしてみんなで列になって歩いていくと戸口の前にたろうがいました。

犬が「やあ、たろうさんこんにちは」と挨拶をするとたろうは元気な声で「ああこんにちは。ぼくも仲間に入れて」といいます。

犬が「じゃあぼくのけらいになる?」といいますと「けらいなんてぼくいやだ」ときっぱりいいました。

すると、ねこもひよこもこおろぎも「けらいなんてぼくもいや!」といいました。

「じゃあ みんなともだちになろうよ」とたろうがいうと、「ともだちだぁ。なかよしだあ。」といいながらみんなみんなともだちになって庭を散歩しました。



* たろうのシリーズのなかの一冊の絵本です。

たろうのシリーズは「たろうのばけつ」「たろうのひっこし」「たろうのおでかけ」それに「たろうのともだち」があって、どれも子どもたちに大人気の絵本です。

この「たろうのともだち」も1967年に初版本が出ていますので、もう40年以上もの間、子どもたちに読み継がれていることになります。

なかには親から子どもへ、子どもから孫へと世代を超えて読まれている家庭もあります。

今から40年前、このシリーズを手にした時、まずその絵とものがたりのモダンさ、明るさに魅入られました。

都会的な感じがしたのです。

そして40年がたって、今この絵本を開いても、その当時の感覚はまったく色あせていないのが不思議なくらいです。

この「たろうのともだち」は、たろうくんとシリーズおなじみの動物たちが登場しておはなしが展開していきます。

前半、動物たちが次々にともだちにはなれないで、けらいにさせられていく場面が続きます。

ともだちになりたいと挨拶をしても返してもらえない、力の強いものが弱いものをけらいにしていくというちょっと胸がしぼんでしまうようなそんな展開です。

でも最後にたろうが出てくるとそれが大きく転換していくのです。

犬が挨拶をすると、たろうは機嫌よく「やあ、こんにちは。みんなおそろいでさんぽかい。ぼくもなかまにいれておくれよ。」とことばをかえすのです。

ここで聞き手も読み手もほっとします。

初めてよびかけに答えてもらえた、という安堵感です。

そして、「だれかのけらいではなくみんなでともだちになろう」というたろうの提案は

動物たちのそれぞれの思いを自由に表現させていきます。

いきいきとした関係性によみがえっていくのです。

そして、「みんなみんななかよしのともだちになってにわをさんぽしました」と本を閉じると、ほのぼのとした満足感と「あぁよかった」という安堵感で満たされるのです。


子どもたちと一緒にいますと、子どもがおともだちをつくる、おともだちになるということはそんなに簡単なことではないということを感じる時があります。

ある時には力関係で相手を支配下においてみたり、おもねてみたり、いいなりになったり抵抗をしてけんかになったりする時があるのです。

しかし、子どもはしなやかで何かのきっかけでその関係が逆転したり、さっきまでおおげんかをしていたのに次の瞬間には寄り添って仲良く遊んでいたりと、めまぐるしい変化をすることがあります。

ただことばで「なかよくしなさい」「おともだちになりなさい」と大人がいうのは簡単ですが、子どももなかよしになるためにさまざまな葛藤をしながら相手を受け入れていくのだと思います。

子どもたちのそんな生きている体験を十分にゆったりと支えながら、互いに快適な楽しい関係性を築いていかれるようにしていかれたらいいなと思います。

ブタヤマさんたらブタヤマさん

長 新太 さく

文研出版

 

ブタヤマさんが蝶を夢中で追いかけています。

後ろから何が来てもわかりません。

三つ目のおばけが出てきても

大きな鳥がお尻をつつきそうにそばに寄ってきても

バッタが這いよってきても 

海からザブザブ魚が這い出してこようがイカが手をふろうが

ブタヤマさんはわかりません。

みんな

「ブタヤマさんたらブタヤマさん

うしろをみてよ   ブタヤマさん」

ていっているのにまったく気が付かないのです。

そしてブタヤマさんが

「なあに どうしたの。なにか ごよう」と振り向いたときには

後ろにはもう誰もいないのです。

ブタヤマさんは後ろから何が来ても知らん顔。

チョウチョを追いかけることに夢中で何もわからないのです。


* 長新太さんの本。独特ですよね。

どうやって考えつくのかと考えたくなるほどの最高のナンセンス絵本の数々。

しかし、子どもたちには大人気の作品ばかりです。

この「ブタヤマさんたらブタヤマさん」も子どもたちには喜んで読まれている絵本です。

この絵本のスタイルはどことなく、やはり子どもたちに大人気の「ごろごろにゃーん」(福音館)に似ているような気がします。

「ごろごろにゃーん」では、猫たちが乗っているロケットのまわりをいろいろなものが通り過ぎていくのですが、そんなこととはまったく関係なく、猫たちはただ「ごろごろにゃーんごろごろにゃーんととんでいきます」を繰り返し、あとは読み手の想像やユーモアにまかせられるのです。

この「ブタヤマさん」も、蝶を採るのに夢中で背後で大変なことがおこっているのに、その気配にまったく気づかないブタヤマさん。

これだけのナンセンスなストーリーをしっかりと支えているのは、長新太さんの確かな絵でしょう。この絵と話の絶妙なバランスが読むものを楽しくさせ、想像を膨らませ、底に流れるユーモアを感じ取ることができるのだと思います。

河合隼雄さんが、京都大学を退官される時、その記念講義のなかでこの「ブタヤマさんたらブタヤマさん」の絵本を取り上げてお話をされました。

その時のテーマは「constellation(コンストレーション)」だったと思います。コンストレーションとは星座という意味ですが、河合氏は共時性という使い方をされていたように記憶しています。

すべてのことはすべてと関わり合い、そのバランスのなかでなりたっている。

科学や数値だけでは証明できない「気配」というような領域もその共時性の大切なバランスをつくりだしているものである。

だんだん記憶があやふやになってきましたが、ブタヤマさんが自分の獲得したいものだけを追いかけている間に、周りの気配とのコンタクト、共時性がとれなくなっているのではないかというふうに私はとらえたのです。

河合氏が取り上げた絵本ということで新鮮でもあり、またこのような1冊のナンセンス絵本からこんな難しい論理を引き出せる河合さんという方のすごさを感じ、その時からこの絵本が私には特別のものとなりました。

でも基本的に河合氏は長新太さんの絵本が大好きだったようです。

岩波書店「河合隼雄著作集4児童文学の世界」でも長新太さんの項があり、そこでこんなことをいっています。

「長新太は考えついたり思いついたりするのではなく、それは「自然にでてくる」のだと思われる。自然に出てくるものは人間の浅はかな知恵を常に上まわる。」

なるほど、自然にでてくるものだからこそ、子どもに自然にうけいれられるのかもしれませんね。

はちみついろのうま

小風さち さく
オリガ・ヤクトーヴィチ え

福音館書店

 

ある村に髪の美しい娘がいました。

娘は婚約した隣村の鍛冶屋に きのこスープ を作って届けようと林に出かけていきました。

きのこと、きいちごを捜しているうちに森の奥まで入り込んでしまいました。

かごがいっぱいになったので、帰ろうとして歩き出しましたが深い森が続くばかり。

そこにおばあさんが現れました。

娘が帰る道を教えて欲しいと言うと、おばあさんは鬼婆に変わり、娘の髪をひっぱって、ずるずるとひきずっていきました。そのうち、娘は馬の姿に変えられてしまいました。

馬小屋にとじこめられた娘は、どうにかしてここから出られないかと考えに考えました。

そして、「鍛冶屋に連れて行って ひずめに蹄鉄をつけて欲しい」と言いました。

次の日には「 たづな がなければおばあさんを乗せられない」と言います。

その次の日も「鞍とあぶみをつけて」といっては毎日鬼婆に森のきのこや木苺を持たせて鍛冶屋に自分を連れて行かせました。

娘がいなくなって 毎日捜しまわっていた 鍛冶屋はこのおばあさんと美しい馬にだんだん不審をもちはじめました。

そこで鍛冶屋は森の木に赤いひもを結びながら、おばあさんと馬のあとをつけていきました。

そしてとうとう森の奥に鬼婆の住処をみつけたのです。

鍛冶屋は急いで馬小屋の戸をあけ、馬(娘)を助け出し一目散に逃げ出しました。

ところが 鬼婆は すごい速さであとを追ってきます。

鍛冶屋は馬を仕事場に隠すと、大急ぎで納屋にわらを詰めるだけ詰めて、鬼婆を誘い込み、中に入ったとたん、戸をしっかりと閉めて火をつけました。

それから、鍛冶屋が馬をかくまっておいた仕事場の戸をあけると、中からあの髪の美しい娘が出てきたのです。

こうして鬼婆をやっつけた鍛冶屋と娘はめでたく結婚しました。とさ。


*この絵本は、昔話を聴いているような、なつかしさやドキドキ感で埋め尽くされています。

この物語は幸せの絶頂期にいる若い二人が、思いもよらぬ 摩訶不思議のこわい世界に突き落とされ、それでもなお知恵と勇気で再び幸せをとりもどすという明快なストーリーです。

しかし そのあらゆる場面に、読者がハラハラしたり 手に汗にぎったり というような小道具や要素がきちんと配置されていて、ものがたりの醍醐味を感じさせてくれます。

娘が林にきのこを採りにいくという冒頭の部分から「何かおきるのではないか。」という予感。

そして鬼婆につかまると「ああ やっぱり。これからどうなるんだろう」という緊張。

娘の知恵に一縷の希望をもちつつも、鍛冶屋が娘だと気がついてくれないと絶望したり、鍛冶屋が赤いひもを持って後をつける場面では息をころすような緊張感をもったりと。

そして、火をこわがるおにばばの断末魔には「よしよし、イッヒッヒ」と溜飲をおろし、美しい娘が小屋から姿をあらわした場面ではホッと胸をなでおろす。

二人の結婚式では心から拍手を惜しまずに祝福したくなる、読み終わるまでそんな 気持ちがあちこちに跳び動いて、ちょっと疲れてしまうようなおもしろいお話です。

そしてこの物語を 実に美しく夢物語のような印象にしているのが、オリガ・ヤクトーヴィチさんの絵ではないかと思います。

色使いといい、形といい、表情といい、実に美しい。一枚一枚が絵画のようです。

子どもだけでなく大人も 宝物にしたくなるような楽しい美しい絵本だと思います。

からだのなかでドゥンドゥンドゥン

木坂 涼 さく
あべ弘士 え

福音館書店

 

 

きいてごらん おとがする

からだのなかで ドゥン ドゥン

ドゥン ドゥン おとがする


みみを ぴったり むねに つけてね

すると ほら きこえてくる

ドゥン ドゥン ドゥン ドゥン


いぬのコロも トゥックン トゥックン

ねこのミーも ウックン ウックン

ひなたぼっこのとかげも

とんでいくとりも

波のうえのラッコも

やまのおくのくまも

もりのはずれのきつねたちもつちのなかのもぐらも

海のまんなかのくじらだって


きいてごらん おとがする

からだのなかでドゥン ドゥン ドゥン

いのちのおとが ドゥン ドゥン ドゥン


* この絵本は2002年4月に月刊絵本「ちいさなかがくのとも」として発行されたもので、2008年12月31日「幼児絵本ふしぎなたねシリーズ」として発行されました。

この絵本を見た時、本当にシンプルに「生きているってこういうことなんだよな」と納得しました。

生きているっていうことは、心臓が動き、血液がドッドッと体中に運ばれ動き回っていること。

「生きる」「生きている」ということは、ことばでどのように伝えても伝えきれずに抽象的な説明になりがちなのですが、小さい子どもにとって、おかあさんの心臓の音を聴く、おとうさんの心臓の音を聴く、そして、自分も聴いてもらうと「同じ音がしているよ」という具体的に行為によって「自分が生きている」そして「みんな生きている」ということがわかってくるのではないかと思います。

「自分が生きている」ことを実態としてつかめること、そして自分と同じように「みんな生きている」ということが分かったとき、子どもは自分と他者との関係をきちんと把握できるのではないかと思います。

犬も猫もとかげも鳥もラッコも、熊も狐もモグラもくじらもみんな命の音がする。

この生き物たちの描写では、人間の介在がなく、動物同士が互いに生きていることを確かめ合っているような場面が印象的です。

ともすると,動物の命は人間が左右できるかのように思いがちですが、そうではなく、「それぞれがみんな命をいただいて生きているのだよ。大切な命、大切な一人ひとり(1匹1ぴき)なのだよ。」ということをメッセージとして受け取れます。 

ありとあらゆる場所で、あらゆる生き方をしているものたちは、みんな命をいただいて、その命を大切にいきているんだということが,幼い子どもたちの心に「ふしぎなたね」としてまかれたならば、これからの宇宙船地球号はもっとやさしく豊かな星になっていくことでしよう。


幼いこどもだけではなく、今一番人間としての分別と他との共存をとりもどさなければならない大人たちに、自分が生かされていること、他者も同じ尊い命を生きていること、生き物すべてが「生」を分かち合って生きているのだということを、危機感をもってぜひ考えて欲しい。私はそんなメッセージをこの絵本から読み取りました。

とんがとぴんがのプレゼント

西内ミナミ さく
スズキコージ え

福音館書店

 

遠くて寒い北の国。

はりねずみのとんがとぴんがという夫婦がニコラスおじいさんと一緒に暮らしていました。

今日はクリスマスイブ。

おじいさんは袋にいっぱいのプレゼントを詰め込むとトナカイのひくソリに乗って雪の山を滑り降りていきました。

とんがとぴんがにもプレゼントがそっと置かれていました。

二匹は考えました。

「ニコラスおじいさんは世界中の人にプレゼントをするのに自分には何もないんだね」

「来年は私たちがしましょう。」

「そうだ。くつした。丈夫であたたかい毛糸のくつしたがいい。」

二匹はおじいさんの靴下に穴があいているのを知っていたからです。

早速とんがとぴんがはソリに乗って出発です。

はじめにやってきたのは牧場のマオさんのところ。

二匹は一足分の靴下ができるだけの羊の毛とひきかえに、マオさんの牧場で働かせてもらうことにしました。

羊たちを毛を刈る小屋に押し込む仕事を毎日せっせとやって、春の終わる頃マオさんから羊の毛を一山もらいました。

つぎにやってきたのは毛糸紡ぎのツムさんのところ。

二匹は、あちこちに散らばっている羊の毛を集めて糸車のところまで運ぶ仕事を毎日せっせとして、夏も終わる頃、ツムさんに毛糸をつむいでもらいました。

つぎにやってきたのは染物やのソメさんのところ。

2匹は毎日染め粉のふたを開ける仕事をせっせとやって働きました。

そして、秋も終わる頃、ソメさんに毛糸を素敵な赤色に染めてもらってでかけました。

あとは編めばいいだけ、なのですが・・・・・。

クリスマスはもうすぐなのに、とんがとびんがには編めません。

2匹は困ってしまいました。歩いていくと発明家のエリックさんの家にたどりつきました。

エリックさんは、「最近発明した編物の機械でくつしたを編ませてもらえないか?」といいました。

機械は一晩中動いて、朝には立派な赤い靴下ができあがりました。

エリックさんもとんがもぴんがもおおよろこび。

とんがとぴんがははりきって赤い靴下と一緒に家をめざします。

今夜はクリスマスイブ。

プレゼントを配り終わって帰ってきたニコラスおじいさんは、とんがとぴんがを見てびっくり。

そして、赤い靴下を見て大喜び。

思わず「メリーサンキュー!」っていったんですって。

そしておじいさんからのプレゼントの特大クリスマスケーキをみんなで食べてクリスマスのお祝いをしました。って。


* なんて暖かくて楽しい絵本でしょう。

とんがとぴんがというはりねずみの夫婦は大好きなニコラスおじいさんにプレゼントをしたいという一心で長い旅にでます。

そして、牧場で羊を追ったり、体をボールのように丸くしてクルクル回りながら毛糸を集めたり、力をふりしぼって染め粉のびんのふたを開けたりしながら1年間せっせと働いて靴下が作れるだけの赤い毛糸を手に入れます。

でも、靴下に編んでもらえるところがなくしょんぼりしていると、思わぬところに救いの手が。

大喜びのとんがとぴんがの気持ちが画面を突き抜けてこちらに響いてきそうです。

そして、なつかしいニコラスおじいさんの笑顔を見た時の二匹の気持ちは靴下の赤色のように暖かく心満たされる思いだったことでしょう。

この二匹はりねずみの夢や希望が1年間という長い期間にわたって持ちつづけられ、その実現のために身をもって働くという日々の積み重ねがあったということに私はとても思いメッセージを感じます。

今、私たちは欲しいものがあればすぐに手に入れることができます。

また夢や希望があってもちょっと困難があればすぐにあきらめてしまいます。

現代に生きる私たちは自分の思いを実現させるための意欲や能動性があまりにも希薄だと思います。

ひとつの思いを成就させていくための努力、持続力、確信とかというものが合理性・効率性という名のもとに古臭いもの、ばかばかしい絵空事のように思う風潮があることを感じているのは私だけでしょうか。

しかし、人の心を満たしてくれるのは、切ってすてていく合理性ではなく、せっせとそのことのために夢と確信をもちながら一生懸命仕えようとする一途さなのではないかと思うのです。

ちょっと面倒な話になりましたが、この絵本、見るだけで暖かくなります。

作者の西内ミナミさんは、「ぐるんぱのようちえん」でデビューした方ですが、このお話のなかにもそのパターンやことばの使い方が生きていると思います。

この話は40年ほど前に「こどものとも153号」として発表されましたが、今回はスズキコージさんの絵で再改作されて10月に発行されました。

スズキコージさんの絵はとにかく豪華絢爛、紙面からはみださんばかりのゴージャスさ。

ことばがそのまま体で感じられるような立体感と色の美しさ、表情の豊かさは圧巻です。

そして、後半から描かれている毛糸から靴下になっていくその赤色は、この絵本の暖かさそのものであり、希望と、夢と確信の象徴でもあるように思うのです。

クモのつな

西アフリカ・シエラレオネの昔話
さくまゆみこ 訳
斎藤隆夫 画

福音館書店

 

昔むかし、雨の降らない日が長く続き、大地から緑が消えて、動物たちは食べ物がないのでみんなおなかがすいてふらふらになり、がりがりにやせてしまいました。

でも、クモだけは元気でした。

ある日、友達のノウサギが「なぜきみだけそんなに元気なの」とクモにたずねました。

クモは、「今夜たべものがあるところに つれて行ってあげよう。でもだれにも言っちゃあいけないよ」といいました。

夜になって、クモはノウサギを連れて1本の木の下まで来ると、

「おかあさーん おかあさん!やってきたのはぼくですよ。つなをおろしてくださいな」

と歌いました。

すると木の上からするするとつながおりてきました。

クモとノウサギがしっかりつかまるとつなは上へ上へとあがっていきました。

そして木のてっぺんまで行くと、不思議にもそこにはありとあらゆるたべものが山ほどいっぱいあったのです。

ノウサギはおなかいっぱい夢中で食べました。

そして、クモのおかあさんにお別れをいって、つなをおろしてもらいました。

次の日、あまりにもノウサギが元気なので他の動物たちがききました。

ノウサギは「秘密だけど、今夜暗くなったら食べ物があるところに案内するよ」と約束をしました。

その晩ノウサギと一緒にやってきたのはカメとヤマアラシとヒョウとゾウとラクダでした。

クモはぐっすり眠っていて気がつきません。

ノウサギは昨夜の木の下までくると、「おかあさーん、つなをおろしてくださいな」とうたいました。

おりてきたつなにみんながしっかりつかまりました。

「おかあさーん、つなをひっぱってくださいな」とクモの真似をして歌うと、つなはのろのろとあがっていきましたが、動物たちの「わぁ!」「ひゃあ!」「きゃあ!」という騒ぎに、眠っていたクモが目をさましました。

そして、つなにつかまってうえに上がっていく動物たちを見て

「おかあさーん、おかあさん!
上っていくのはぼくじゃない」と歌いました。

すると、クモのおかあさんはつなをぶつっと切ったので、

動物たちはみんな落ちてしまいました。

それからというもの、ヒョウの体には落ちた時の傷がはんてんになって残りました。

ラクダは背中を打ったのでこぶができました。

ヤマアラシはとげとげのやぶに落ちたので体にとげがささったままになりました。

カメは背中を痛めてこうらをしょってあるくようになりました。

ゾウの鼻は落ちた時に押しつぶされて長くなってしまいました。

そして、ノウサギは穴に落ちたので今でも穴で暮らしています。


* この絵本は、こどものとも11月号として今年の11月1日に発行されました。

このお話の舞台は西アフリカにあるシエラレオネという国で、そこで昔から繰り返し語り伝えられてきた昔話です。

日本ではクモのお話はあまり馴染がりませんが、同じ西アフリカにあるガーナという国のアシャンティ族の昔話のなかにもクモのアナンシという昔話の英雄がいて、たくさんのお話が人々によって語り伝えられているとききます。

子どもたちも園にあるアナンシのお話の絵本が大好きですから、何かクモのもつ不思議な魅力があるのでしょう。

さて、この「くものつな」のストーリーは前述のとおりですが、何か不思議な雰囲気のあるお話です。

まずだれが主人公かわからない。

登場人物がぜんぶ 主人公のようでもあります。

しかし、一番集約されているのは、「くものつな」そのもののようでもあります。

次に、動物たちが全員ぶら下がっても切れないクモのつなってどんなものなんでしょう。

実態があるようでないようで、無重力のような御伽噺そのままという感じ。

芥川竜之介の作品「蜘蛛の糸」を思い出させるような東洋的な感じもします。

それから、ここではだれが悪者で、だれが善人かわからない。

みんなが飢えていても自分だけ食料を有り余るように隠匿しているクモのおかあさん、でもそれを気前よく分け与えている。約束を破りだまそうとするノウサギ、でも仲間を助けたいと思っている。人のいいクモ、でもつなを切らせてしまう。

みんな何かどうか訳ありなのにまったくそのことに無頓着。

最後は、動物たちのこぶだの模様だのこうらだのの因果関係で話が終わっています。

日本の昔話は勧善懲悪のものが多いのに対して、これは小噺の領域。

そう、西アフリカという地に住む人たちの自然との共存のなかで生まれ,育まれてきた民族の哲学とでもいうのでしょうか。

そして、これらのおおらかなお話に、斎藤隆夫さんの美しくそしてモダンな画がとってもマッチして私たちをやさしい不思議な世界に遊ばせてくれるのです。

楽しい一冊です。

ダンデライオン

ドン・フリーマン さく
アーサー・ビナード やく

福音館書店

 

ダンデライオンが郵便受けをのぞきにいくと、手紙が一通届いていました。

おしゃれな便箋に金のインクで書かれたジェファニー・キリンさんからの招待状でした。

「土曜日にティパーティをいたします」と書かれています。

「土曜日って、今日じゃないか!」

ダンデライオンはあさごはんもそこそこに、床屋に走っていきました。

早速床屋のルー・カンガルーさんに、たてがみのカットをしてもらい鏡を見てみると、うーん、どうも期待していたものとは違うみたい。

ルーさんはあわててファッション雑誌を持ってきて、「こういうふうにウェーブをつけましょうか」とすすめました。

「・・・それがいいですね、きっと・・・」とダンデライオンはうなずきました。

そして、雑誌のモデルにまけないくらい立派な出来栄えの髪型が出来上がりました。

でもこうなると、着ているものも変えなくてはと、洋服やでチェックのジャケットを買い、帽子とステッキもそろえて大変身。

花やでジェニファーさんの好きなたんぽぽの花束を買って、ドアのベルをならすと、ジェニファーさんが出てきました。

ところが「どなたか存じませんが、住所をまちがえたんでしょう。」といってドアをバタンとしめてしまったのです。

「ぼくですよ。ダンデライオンです。」といってもドアは固くとじられたまま。

道をいったりきたりしているとそのうち空がくもって、風がふいてきました。

たんぽぽの花はくたくたに、新しい帽子も飛ばされてしまいました。

こんどはザァーとにわか雨が。

かっこいいヘアスタイルも、ジャケットもびしょびしょ。

少しすると雨がやんで太陽の光が降り注ぎました。

ダンデライオンはジェニファーさんの家の階段に腰掛けてたてがみが乾くまで待つことにしました。

すると、階段の下にたんぽぽの花が見えました。

ダンデライオンはそれを摘むと、思い切ってベルをならしました。

するとジェニファーさんが出てきて、「ダンデライオンさんはどうしたのかしらってみんなで話していたところなんですよ。」とよろこんで迎え入れました。

あたたかい紅茶を飲んでみんなで話に花をさかせているとジェニファーさんがいいました。

「そういえば、今日いやにおめかししたおっかしなライオンが間違えてうちのベルをならしたんですよ。」

ダンデライオンはおかしくなって「そのめかしこんだ、だてライオンはこのぼくだったのですよ。」といいました。

そのときのジェニファーさんの顔、想像できます?

あまりに恥ずかしくて、ネックレスに足がこんがらかってしまったんですって。

ダンデライオンはいいました。

「二度と だてライオンなんかにはなろうと思いません。ありのままのぼくがほんとうのぼくだからね。」


* とってもおしゃれな一冊です。

ライオンがたてがみにウェーブをつけたらと考えるだけでおかしくなってしまいます。

ダンデライオンとはたんぽぽの意味ですが、ダンディなライオンとのかけことばでこれもウィットにとんでいます。

この絵本はドン・フリーマンが1964年に発表し、たくさんの人に世代を超えて読まれてきた本です。

おはなしも、それに絵も、やさしくそしてしっかりとした安定感に満ちていて、たくさんの子どもたちに愛されてきたことが想像できます。

いえ、子どもたちだけでなくきっと大人もにんまりとしながら読んで、読み終わったあと何かやさしい幸せな気持ちになるのではないかと思うのです。

訳者のアーサー・ビナードもアメリカで子どもの時からこの絵本が大好きでよく読んでいたといっています。

この絵本をぜひ日本語に訳したいと思うということは余程の思い入れがあったに違いありませんし、読めばその思いが私たちにもよく分かるような気がします。

アーサー・ビナードは日本に来て日本語で詩作をしている人ですが、古典落語や俳句を研究するなど、日本人以上に日本語のおもしろさや意味深さに興味関心をもっている人です。

この絵本の訳もそんな彼のもつ日本語の世界がことばのはしはしにうかがえてお話をいきいきとおもしろいしゃれたものにしています。

ダンデライオンとはたんぽぽの意味ですが、彼は日本語の「た・ん・ぽ・ぽ」ということばの方がその花を言い当てて美しく響くといっています。

子どもだけでなく大人にも愉快でおもしろい絵本、それがこの「ダンデライオン」です。

としょかんライオン

ミシェル・ヌードセン さく
ケビン・ホークス え
福本友美子 やく
岩崎書店

 

ある日、図書館にライオンがやってきました。

ライオンは図書館のなかを歩き回り、目録カードのにおいをかいだり新しい本の棚にたてがみをこすりつけたりしています。みんなびっくり。

でも館長のメリウェザーさんは「図書館にライオンがきてはいけないというきまりはありません。」といいました。

おはなしの時間、ライオンはじっとして子どもたちと一緒に本のおはなしを2つもよんでもらいました。

おはなしがおわった時、ライオンはもっと読んでと大きな声でほえました。

そのとたん、館長さんがやってきて「静かにできないのなら出て行っていただきます。それがきまりですから。」といいました。

ライオンは悲しそう。

すると女の子が「静かにするって約束すればおはなしの時間に来ていいんでしょ」といってくれました。

それから毎日ライオンは図書館にやってきて、おはなしの時間になるまで、百科事典のほこりをはらったり、封筒をなめてふうをしたり、子どもをせなかにのせて高いところに手がとどくようにしたりとお手伝いをするようになり大人気になっていきました。

図書館員のマクビーさんだけはあまりおもしろくありません。

ある日、館長さんのお手伝いをしている時、高いところの本をとろうとした館長さんが倒れてしまいました。

ライオンは廊下を走り、カウンターにいるマクビーさんのところにいくと特別大きな声でほえて知らせました。

マクビーさんは「館長、ライオンがきまりを守りませんでした。」といって急いで館長さんを探しに行くとそこには館長さんがたおれていたのです。 

今度はマクビーさんが慌ててお医者様を呼びにかけだしていきました。

次の日から、ライオンは図書館にきませんでした。

おはなしの時間になってもライオンはきません。

図書館にきた人たちはさびしくなりました。

館長さんも手にギブスをはめながら、とてもさびしそう。

マクビーさんは、雨のなかライオンを探しにいきました。何かしなければいけないように思ったからです。

ライオンはどこにもいません。

そして、ぐるっとまわって図書館に戻ってくると。

居ました、ライオンが。図書館の前にじっとすわっていたのです。

声をかけてもしょんぼりとふりむかないライオンにむかってマクビーさんはこういいました。

「図書館のきまりがかわったんですよ。大声でほえてはいけない。ただし、けがをした友達を助けようとするときなどは別なんですよ」

次の日、ライオンは図書館にきました。

館長さんはそれをきくと急いでいすから飛び上がると廊下へかけだしました。

いくら図書館のきまりでもちゃんとわけがあって守れないときもあるんですね。

 


* ライオンが図書館にやってくる。これは重大なことです。

なぜってそんなことってありえませんもん。

でもそれがありうるのが絵本の世界。

ではライオンはなぜ図書館にやってきたのでしようか。

それはこの絵本をよく見ると「あぁここかな」という伏線がある・・・・と思います。

もし、私が思っているところが作者の思いと合っているとするならば、ライオンはずっと図書館にきたかったに違いないと思うのです。

楽しいお話を、子どもたちと一緒にずっとききたいと思っていたんだろう。

図書館にくるたくさんの人とお友達になりたかったんだろう。

館長さんやマクビーさんのお手伝いをしてあげたいときっと思っていたに違いない。
と思うのです。

 その伏線がどこなのか、は違っていたら作者に叱られますから公にはしません。

もし違っていても、私だけの読み方であったとしてもそれはそれでいいかなとも思います。

それはちょっと置いても、このお話はたくさんのユーモアと、やさしさと、ライオンや人々の感情が豊かに描かれていて読み終わった時「あぁ おもしろかった」と思える絵本です。

私は思うのです。

自分の世界にもし、想定外のものや人が入り込んできた時、自分はどうするだろうか、と。

今まで自分なりに規則や習慣をもっていて、そのなかで安泰に暮らしている時、その規範に入れ込むことができない事態がおきたら、どうなるだろう。と。

図書館にライオンがやってきたということはそういうことなのだろうと思います。

そこで起こるさまざまな混乱や困惑は想像できます。

そして最初は今までの自分なりの決まりごとのなかでいろいろな判断をしたり対処をしますが、その実態がそのなかでは収まりきれなくなった時、それまでの判断基準や決まりごと、あるいは自分自身までも改めて振り返り、弾力をもたせて新しくしたり改革をしたり枠を広げたりしないでしょうか。

異質のものを同質化するのは容易でも、異質の部分をきちんと認めて共に生きてゆこうとすることは難しいことだと思います。

しかし、私たちがみんなでそれらの努力をしようと思った時、私たちの世界はやさしく自由になっていくように思うのです。

どうするどうするあなのなか

 

きむら ゆういち 文
高畠 純 絵
福音館書店

 


森の中から3びきののねずみが「ひぇーたすけてぇ」と飛び出してきた。

そのあとを2匹のはらぺこやまねこが「くってやるー」と追いかけてくる。

のねずみも、やまねこも、この先に大きな穴があることなんかまったく知らない。

勢いあまって、のねずみもやまねこも、穴の中にまっさかさま。

穴は深くて壁はつるつる。外に出られそうにない。

穴の中でやまねこは、のねずみにおそいかかろうとしたが、そこはそれ のねずみたちも必死だ。

「僕たちを食べたって、あんたたちだってこの穴のなかで飢え死にだよ。」

そういわれてやまねこも考え込んだ。

ここはみんなで力を合わせたほうがよさそうだ。

そこで、みんなで考えた、穴の外に出る方法を。

一番小さいのねずみがいった。

「やまねこのだんなの肩におくさんが乗ってその上にぼくたちが乗る。そして外に出たら上から木のツルをたらせばみんな出られるよ。」

のねずみたちは大喜び。しかしやまねこは「ちょっと待てよ。それじゃあおまえたちは逃げちゃっておれたちはそのままにならないか」ということでその案は却下。

やまねこのおくさんがこういった。「あんたたち3びきの上に私たちが乗って外から長いツルをたらす、ってのは?」

「だめ!それじゃあ、外に出たとたん待ち伏せしていたあんたたちに1匹ずつ食べられちゃうもの」と、ねーちゃんねずみ。

あーじゃない、こーじゃないと話し合っていると、そこへ雨が降ってきた。

その雨のなか話し合いに熱中しているとそのうちザーっと水が穴の中に入ってきて話し合いどころではなくなった。

「こんなところでおぼれたくない。」とみんな必死でもがいた。

やっと雨があがったのか 水が引き始めた。

「ふー。助かった。もうだめかと思った。」

そこでまた、穴から出る方法をみんなで仲良く考え始めた。

水があふれたおかげでもう穴の外に出ていることをみんなはちっとも気がつかないで。



*今年6月に発行されたきむらゆういちさんの新刊書です。

天敵であるのねずみとやまねこが、一緒に深い穴の中に落ちてしまうという最大級のハプニングのなかで繰り広げられる生存をかけての駆け引きが、高畠純さんの描く絵とあいまってユーモラスに展開していきます。

そこでは弱く小さいのねずみたちも、ちゃんと自己主張し、命をもった一匹同士としてやまねこに応戦します。

やまねこも、どうにかしてこの危機から脱したいというなかで、のねずみと共闘を組まなければという呉越同舟の心境になります。

そうこうしているうちに、穴の中という危機は雨という偶然性のなかで解消するのですがそのことに気づきもしないほど、のねずみとやまねこは危機を双方の力で何とかしようと話し合うことがより大切なことになって熱中していくのです。

生きるか死ぬかという共通の危機をもってそれに立ち向かおうとした時、そこでは敵とか味方を超えて新しい関係性が生まれてくるのではないかと思わされます。

「生」を分かち合うものたちの本性とそれを超えたやさしさ、とでもいいましょうか。


きむらさんの絵本は他にもたくさんありますが「ゆらゆらばしのうえで」(福音館書店)「おおかみのともだち」(偕成社)などにも、このセオリーが見られてついつい読み返してしまいました。

「ゆらゆらばしのうえで」は、きつねとそのきつねに追いかけられたうさぎとが谷にかかる一本の橋の上で互いにうまくバランスをとらないと橋もろとも川に落ちてしまうという切羽詰まった状況のなかで橋の向こうとこちらにへばりついて一晩過ごすことになります。

いろいろな話をします。そしてうさぎが眠りそうになると「今寝たら死ぬぞ。もっと命を大切にしろ!」ときつねは声をかけて起こします。

そして、朝風に大きく揺れだした橋から力を合わせて岸に飛び移るのです。

「おおかみのともだち」は独りが好きなオオカミと、そのオオカミに「えものをとりにいこう」と親しそうに声をかけてきた大きなクマのお話です。

オオカミはクマが自分におそいかかってくるのではないかと戦々恐々として信用しませんがクマにおいしい蜂蜜をもらって一緒に食べたり、崖から落ちたところを助けられたりするうちにクマってどういうやつなんだろう、何が目的で自分に近寄ってくるんだろうとますますわからなくなってしまいます。

そして、川で力を合わせオオカミが追いそれをクマが捕まえたたくさんの魚を一緒に食べて話すうちにとてもうれしくなってくるのです。


どのお話もみんな大切なメッセージをもっていると思いませんか。

絵本だから伝えられるメッセージ。そして、子どもの心にいつまでもあたたかく残ってほしいメッセージ。

それにしても穴の外だということに気づいたのねずみとやまねこのその後のことがちょっと気になりませんか。

描いてはないのですが、私は多分いい具合に互いの尊厳をもちつつ分かれたような気がするのです。

だって、「ゆらゆらばし」のきつねは岸に這いあがって我に返るとぎらりと目を光らせ、ウサギを追いかけ始めましたが、途中で急に立ち止まるとゆっくりとおしっこをしながら「おーい うさぎ!もう つかまるんじゃないぞー」というのです。

そして「オオカミの」では、独りきりが好きなオオカミも、あのクマを思い出す時だけはクククと笑って、二人で食べた魚の味がなつかしくなるのだそうです。

パンプキン・ムーンシャイン

ターシャ・テューダー 作
ないとう りえこ 訳
メディアファクトリー

 

今日はハロウィンの日。

アンはおじいちゃまの畑に、一番立派で大きいカボチャを探しにいきました。

丘の上の畑まで息をはあはあはずませて登っていきます。

畑につくとぐるっと見まわします。

あれがいい!

大きくて立派なかぼちゃが見つかりました。

でも、重たくてどうやって運んだらいいんでしょう。

アンは転がすことにしました。

丘の端まで転がしていくとあとは下り坂です。

かぼちゃは ぼん ぼん ほぼーん と転がりはじめました。

下の動物農場の動物たちをびっくりさせたり怒らせたりしながらかぼちゃはどんどん転がっていきます。ボン ボン ボボーン。

アンは急いでそのあとをおいかけます。

家の壁にぶつかってやっとかぼちゃは止まりました。

おじいちゃまはかぼちゃの頭をスパット切ってくれました。

アンは種やスジをきれいに取り除きます。

おじいちゃまは、かぼちゃに穴をあけて目と鼻と大きな口をつくります。

暗くなるのを待って、かぼちゃのなかにろうそくの灯を入れます。

それを門の上に置いて、二人はいそいで茂みに隠れます。

そして道を通る人や動物が目と口を燃えるように赤く、大きくあけたパンプキン・ムーンシャインを見て道を通る人や動物がびっくりするのを楽しみました。



*素朴な、しかし絵本のおもしろさの原型のようなこの絵本は、1938年、ターシャ・テゥーダーが23歳の時に初めて書いた絵本です。

1915年生まれのターシャさんは、90冊を超える絵本を描きつづけ、たくましい生活者として生き、つい先日、6月18日に92歳で生涯を閉じました。

子どもや自然、動物たち、そして生活のひとつひとつを楽しみ、こよなく愛し続けた方だったように思います。

アメリカの人気作家としてたくさんの絵本や挿絵を描き何世代にもわたる子どもたちに夢とユーモアと、よき時代の家庭、家族、自然を与えたことを改めて感じます。

1830年代が一番好きといって、住む家も生活様式も19世紀のままを固持し続けた自由人でもある彼女は、花を愛し広大な敷地に思いのままのガーデニングを楽しみ、蜜蝋のローソク、織物、人形作り、染物、洋服、とすべてのものりを自分の手で作り上げていました。

彼女は4人の子どもを育てながら、その生活をも輝くような絵本にしてきました。

この「パンプキンムーンシャイン」もそうですが、自分の体験した幸せな子ども時代や「ベッキーのたんじょうび」など子どもたちとの楽しい生活の実話など、一貫して古きよき時代の家族のやさしさ、あたたかさを描いています。

彼女を一躍有名にした絵本は1976年に冨山房から出版された「コーギービルのむらまつり」でしょう。

日本の子どもたちにも大人気になりました。

現在はメディアファクトリーから出版されています。

その他、バーモント州にあるターシャさんの住まいのコーギーコテージでの生活を撮った美しい写真集なども出版されて、たくさんの方に愛読されています。

さまざまにご苦労はされたこととは思いますが、最後まで、自然を愛し、人を愛し、

生活を愛して、お幸せな人生をまっとうされたのではなかったかと思います。

そして、彼女の生き方や思いはこれからも絵本を通して、またその手から紡ぎだされたたくさんの作品を通してたくさんの人のなかに生き続けることと思います。

まんげつダンス!

パット・ハッチンス さく・え
なかがわ ちひろ 訳
福音館書店

 

満月の晩、ここは家畜小屋。

羊と豚と馬は、月を見ながら一晩中でも踊りたくなりました。

眠っている子どもたちを起こさないように、床にわらを敷きました。

これなら、とんでもはねても足踏みしても大丈夫。

まずは馬のぱかぱかダンスから。

ぱかぱかぱんぱん ぱんぱかぱん。

馬はわらを蹴散らし、小石の床をたたきます。火花がでてもおかまいなし。

わらに火がつき、さあ大変。

馬は水をかけて火を消しました。

でも馬はもうフラフラ、「お先に失礼、もう寝ます。」

次はひつじのぽよよんダンス。

毛糸玉のように軽やかにぽよよんと張りきって踊っていると、あら、張り切りすぎて

小屋のはりにひっかかってしまいました。

豚の敷いてくれたわらの山にようやく落ちた羊は、もうへとへと。

『お先に失礼』と寝床の中に。

最後に残った豚は,足取り軽くらたたた、らたたたた。

つるりとすべって,水桶にざぶーん。

あらまあ何てこと。あぁ疲れた。眠りましょう。

馬と羊と豚が眠ると・・・・。

こっそり起きてきたこどもたち。

今度はぼくたちの番。おかあさん、ゆっくり寝ていいからね。

こどもたちは踊って踊って一晩中踊りました。

ぱかぱか ぽよよん らたたたた。

こどもたちは朝まで踊ってこっそり戻ってくると、おかあさんたちと一緒に眠りました。


2008年4月末に発行された新本です。

作者のパット・ハッチンスは、息の長い絵本作家で「ロージーのおさんぽ」「ティッチ」「ヒギンスさんのとけい」など2世代にわたって読まれている本をたくさん描いています。

それと同時に、この数年、毎年のように新本を出していて、色彩の美しい、そしてやさしいユーモアのあるストーリーに魅了させてもらっています。

今回も彼女の真骨頂であるのどかな農場が舞台です。

2006年には「かえりみちをわすれないで」2007年には「がたごとばんたん」が発行されていますが,今回の「まんげつダンス!」も同じ舞台のお話のように思います。

そして、これは1975年に発行した「ロージーのおさんぽ」(偕成社)の舞台がそのまま引き継がれているように感じます。

彼女の本は画法を時には大きく変えて、これが同じ作家が描いた本かと確かめてしまうようなものもありますが、その根底には人が自然や動物たちと共にやさしく生きていきたいというテーマが一貫して流れているように思います。

今回の愉快な「まんげつダンス!」。

鮮やかな色彩、ユーモラスな動物たちの動きの表現、そして、傑作な話の展開。と、どれを見ても楽しい本です。

本当に楽しい!本です。

ぼく、だんごむし

得田 之久 ぶん
たかはしきよし 絵 
福音館書店

 

庭の植木鉢の下にだんごむしたちが住んでいます。

だんごむしたちがえさを探しにでかけていくのは主に夜。

「しぜんのそうじや」ってよばれるくらい、たくさん、そして何でも食べます。

コンクリートや石だって食べます。これを食べないとうまく育たないのです。

そして、こわい生き物に出会うと、いち にの さん!てまるくなってしまいます。

かたい殻が体を守ってくれるので、ありのようなこわい生き物でもあきらめて行ってしまうのです。

だんごむしは何度も脱皮して少しずつ大きくなっていきますが、その脱皮の仕方は最初の日に後ろ半分、そして次の日に前の半分という不思議なやり方で、脱皮した抜け殻は必ず食べてしまいます。

大人になるとおかあさんはおなかのしたのうすい膜のなかに卵を産んで大切に育てます。

生まれたての赤ちゃんはしろっぽくてごまつぶみたいに小さいけれど、おかあさんにそっくり。

だんごむしは本当はかにやえびの仲間なので、少しの間だったら水におちても大丈夫。

あたたかい間は元気に過ごすだんごむしたちは、秋の終わりになると地面の下にもぐって春がくるまで仲間と一緒に眠ります。


*この絵本は2003年の7月に月刊科学絵本「かがくのとも」として発行され、2005年には「かがくのとも傑作集」として出版されたものです。

科学絵本といいますと、植物や生き物の生態や特徴を観察や知識として客観的に羅列していく図鑑などを思い浮かべますが、日本の科学絵本は科学の対象を擬人化したり、物語として表現したりしてやさしいアタッチメントをしながら子どもの興味や関心をひきつけていく手法がとても上手だと思います。

このだんごむしの本も「ぼく、だんごむし」の名前の通り、だんごむしくんが主人公です。

そして、だんごむしのぼくが、自分たちの生態や心情まで紹介していくという内容で、読み手にとてもソフトに、そして、だんごむしくんに寄り添うように自分を投入していくことができます。

この季節、幼稚園の庭のあちこちで子どもたちがだんごむし探しをしています。

そして小さな容器のなかにウジョウジョと捕まえて得意げに見せにくる子もいます。

手のひらに乗せるとくるくるっと丸まってしまい、そのままそっとしているともうだいじょうぶかなとでもいうように身を伸ばしてノソノソと歩き出す様をあきもせず見ている子もいます。

何よりも、石をちょっとどけると、そこに仲間と一緒にかくれている何匹かのだんごむしを見つけたときの喜びが子どもにとって魅力となっているのかもしれません。

そんな身近な、そして、こわくないだんごむしは子どもたちにとって夢中になれる生き物との遭遇の第一歩なのでしょう。

この絵本はそんな子どもたちにとって、だんごむしとの付き合い方を知り、そしてもっとだんごむしが好きになる絵本です。

色彩のきれいなクラフト風な絵もそれに一役かっています。

最後のページ、「それから、あきの おわりになったら、きみが ぼくを 見つけたところに そっと かえしてほしいんだ。ふゆは やっぱり、なかまたちと いっしょに すごしたいんだよ。」ということばでくくっています。

生き物に対するやさしいまなざしを育てる一文として心して読んであげたいと思います。

もぐらとじどうしゃ

エドアルド・ペチシカ 文
ズデネック・ミレル 絵 
うちだ りさこ 訳

福音館書店

 

自動車がびゅんびゅん通る広い道路。

その真中の分離帯の土の中からもぐらが顔を出しました。

気持ちよさそうに走っているたくさんの自動車を見ているうちに、もぐらは「ぼくにもあんな自動車があったらなぁ。」と思いました。

そこで車の修理工場に行ってみると、自動車の部品がいっぱいならんでいます。

「自動車に一番大切なのはくるまだな。くるまさえあればぼくもすぐに自動車が作れるぞ。でも床もなければいけないな。ブリキもネジも。」ともぐらは町中かけまわって、いろいろな部品をさがしてきました。

そして、それをようやくくっつけてはみたものの、動かない、ぶるんともいわない、のです。

「どうして動かないんだ」と自動車にいっても知らん顔。

もぐらがしょんぼりしていると、その時、どこからか、ちっちゃいタイヤがころがってきました。それも4つも!です。

あれっ どこかですごい音がしますよ。

急いで行ってみると、まぁなんてことでしょう。

いたずらっ子のこわしやカルリクが今まで乗っていた自分の自動車をかなづちでガンガンたたいてこわしていたのです。

こわれた自動車、もう動かない自動車を置いてカルリクはどこかに行ってしまいました。この自動車、だれかなおしてくれないかなぁ。動くようにしてくれないかなぁ。

そう思っていると、しりたがりやのねずみが「あそこに行けばなおしてもらえるよ」とおしえてくれたので、もぐらはこわれた車をもって修理工場に行ってみました。

クレーンで吊り上げられて、きれいになおしてもらった自動車はぴかぴかに出来上がって出来てきました。

もぐらは大感激。

「さぁまず ねじをさしこんで自動車のぜんまいをまこう。ぼくの大事な自動車くん、ぼくと一緒にドライブにいこう。ぼくのおうちまで案内してやるよ」

たくさんの自動車が走っている道を、もぐらも一緒に走ります。たのしいな、うれしいな。

おうちに戻ってきたもぐらくん、大事な自動車のねじを抱いておやすみしました。

よかったね、もぐらくん。



*この「もぐらとじどうしゃ」は福音館から1969年に発行されてから50刷り近く発行を重ねています。

この主人公のもぐらくん、「もぐらとじどうしゃ」より2年前の1997年に「もぐらとずぼん」で日本に紹介されています。

この「もぐらとずぼん」もいまだに大人気の絵本で、2冊とも40年以上にわたってロングベストセラーとなっています。

ですから、子どものときにお父様やお母様から読んでもらったという方が,今ではご自分が親になってお子さんにこの絵本をよんであげているというケースがたくさんあるのではと思います。

もぐらという、ちょっと珍しい主人公の動物がいきいきと動き回り、何もないところから自分の欲しいものを試行錯誤しながら作り出していくというお話はわくわくするような探検や冒険の世界を展開していってくれます。

このなかでペチシカは子どもの視線ともぐらの視線を重ねているように、そこに見えてくる世界を子どもの感性により深く印象づけています。

また、この物語のなかのあちこちに自分のすぐそばにいる子どもの生活のなかでよく見られる場面や心情や実態が多々表現されていて、物語が実生活のなかにすぐ溶け込んでしまうような思いをしました。

いたずらっ子に「こわしやカルリクさん」とひそかに ニックネームをつけてほくそえんだこともあります。

作者は本当に子どものことをよく分かっている人、そして、子どもらしさを愛している人なのでしょう。

お話を書いたペチシカも絵を描いているミレルもチェコスロバキアの人ですが、題材のユニークさと、愛すべき主人公の子どもらしい心情の表現、画法の豊かさ確かさは、時を経ても色あせない新鮮さをもって読み手に喜びを与えてくれています。

うちだ りさこさんのすばらしい日本語訳も大きな役を担っていると思います。

ぽとんぽとんはなんのおと

神沢利子 さく
平山英三 え 

福音館書店

 

ゆきが まいにち ふりました。

のはらに やまに ゆきが ふりつもりました。

ふゆごもりの あなのなか、くまのおかあさんは ふたごの ぼうやを うみました。

おっぱい のんでは くうくう ねむって、ぼうやは おおきくなりました。

ある ひ、ぼうやは たずねました。

「かーん かーんっておとが するよ。

かーん かーんって なんの おと?」

すると、かあさんが こたえました。

「きこりが きを きる おとでしょう。

とおい もりから ひびいてくるの。

でも、だいじょうぶ。

きこりは ここまで こないから、

ぼうやは ゆっくり おやすみね」

ある ひ、ぼうやは たずねました。

「ほっほー ほっほー おとがするよ。

ほっほー ほっほーって なんの おと?」

すると、かあさんが こたえました。

「ふくろうの こえでしょう。

くらい よるに、ふくろうは ねないで えさを さがしているの。

おうちに いたら、こわくはないの。

さあ、ふたりとも かあさんに だっこで、あさまで おやすみよ」

ある ひ、ぼうやは たずねました。

「かあさん、なんだか しずかだね。

どうして しーんと しずかなの?」

すると、かあさんが こたえました。

「ゆきが ふっているのでしょう。

 いつも こんな しずかな ひには、ゆきが しんしん つもるのよ。

 まだ まだ はるは とおいから、ぼうやは ゆっくり おやすみよ。」

ある ひ、ぼうやは たずねました。

「かあさん、 ちょっと きいてごらん。

つっびい つっぴい おとが するよ。

つっぴい つっぴいって なんの おと?」

すると、かあさんが こたえました。

「ことりの こえよ。

よい おてんきが うれしくて、

ひがらが うたっているのでしょう。

ぼうやも かあさんに だっこして、ふう ふう うたって おやすみよ」

ある ひ、ぼうやは たずねました。

「どどー どどーって おとが するよ。

 どどー どどーって なんのおと?」

すると、かあさんが こたえました。

「なだれの おとよ。やまの ゆきが すべって、 たにへ おちる おとよ。

もうすぐ ゆきがとけだして、はるが くるのよ。

ぼうやたち、かあさんの ひざのやまから すべっておっこちて、

ゆきたまみたいに おあそびね」

ある ひ、ぼうやは たずねました。

「ぽとん ぽとんって おとがするよ。

ぽとん ぼとんって なんの おと?」

すると、かあさんが こたえました。

「あれは つららの とける おとよ。

ごらん、ぼうや、あなの いりぐちの つららが おひさまに とけて、

きら きら しずくを おとしているわ。

ぼとん ぽとんは その おとよ。

もう そこまで はるが きているのよ」

ある ひ、ぼうやは めを さまし、

はなを ひく ひく させました。

「かあさん、 はなが くすぐったいよ。

なんだか いい においだね」

すると、 かあさんが こたえました。

「はるかぜよ、ぼうや。あたたかな かぜが はなの においを はこんできたのよ。

そとは もう ゆきが とけはじめて、くさが めを だしているわ。

さぁ、ぼうや、そとへ つれていってあげましょう。

ようやく はるが きたのよ」



*「ぽとんぽとんはなんのおと」神沢利子さんの文があまりにも美しく、全文を掲載しました。

おかあさんぐまと、双子の生まれたばかりの子ぐまが、巣穴のなかで冬ごもりをしています。

外は雪が降り、そして積もって、巣穴を静かに包み込んでいます。

寒い冬、でも巣穴のなかは何てあたたかなんでしょう。

子ぐまは、おかあさんぐまの胸に抱かれてうっとりとおかあさんの歌う子守唄をききながらまどろみます。

そして、遠くに聞こえるかすかな物音にも耳をこらして、外の世界を知りたがるのです。

外に聞こえるさまざまな音、おかあさんぐまはひとつひとつに応えます。

そして、この巣穴で自分がしっかりあなたたちを守っているから何があっても大丈夫なのよ、と繰り返します。子ぐまは安心し満足しながら外の世界に思いをふくらませていくのです。

外では寒い冬が終わり、だんだん春の息吹が近づいて巣穴までその気配が届きます。

つららが暖かい春の日差しにとけてぽとんぽとんと音をたて、春風にのって花のにおいが運ばれてくると、おかあさんぐまは「その時」をきちんと分かっていて、子ぐまを外の世界に連れ出すのです。

この絵本は親と子の抒情詩のようなやさしいまなざしを感じさせてくれます。

そして、人が生きるために何が大切なのかを伝えてくれます。

ことばの美しさを際立たせるような控えめな、しかしどっしりとした安定感,存在感のある絵も素晴らしいと思います。


この3月、わたしたちは子どもたちの巣立ちの時を迎えます。

この時を待っていましたといわんばかりに、卒園する年長の子どもたち、進級する年中・年少の子どもたち、みんな今まで生活してきたあたたかい巣穴から外に向かって大きく自分の世界を広げようと飛び出します。

今まで、その巣穴で子どもたちと共に生活してきた私は、

子どもたちをにたくさんの意味のあることばを語ってやっただろうか。

両腕で子どもたちを抱きかかえて、不安や怖さを包み込んできただろうか。

外の世界の素晴らしさ、生きていく術をその時々に伝えてきただろうか。

「その時」が来るのを子どもと一緒に待ちつづけ、そして子どもの巣立ちの時を「この時」とわきまえて、背中を押し出してやれただろうか。

などとさまざまな思いが交錯するなかでこの絵本を何度も読み返しているうちに、このあたたかい大きなおかあさんぐまのことばとまなざしに、自分自身がもう一度再生していく力を与えられたような思いになりました。

人はいくつになっても、心と体を包み込んでくれるおかあさんぐまの存在がなくては外に出ていくことができないのだなと感じさせられています。

フレデリック -ちょっとかわったのねずみのはなし-

作 レオ=レオニ
訳 谷川俊太郎

好学社

 

お百姓さんのサイロに近い古い石垣のなか、ここがおしゃべりのねずみの家。

サイロは空っぽ。冬は近づく。

のねずみたちは、夜も昼も働いてとうもろこしと木の実と小麦とわらを集めた。

しかし、フレデリックだけは別。

「フレデリック、どうして君は働かないの?」みんなは聞いた。

「こう見えたって働いているよ。ぼくは寒くて暗い冬の日のためにおひさまを集めているんだ」とフレデリック。

フレデリックはじっとすわりこんで牧場をみている。

「今度は何しているんだい?」

「色を集めているんだ」

またある日、半分眠っているようなフレデリックに、みんなは少し腹を立てて「夢でもみているのかい?」 というと

「ぼくは言葉を集めているんだ。冬は長いから話の種も尽きてしまうもの」とフレデリック。

そして、冬がきて雪が降り出した。

5ひきの小さなのねずみたちは、石の間のかくれがにこもった。

食べ物がある間、のねずみたちはたくさん食べおしゃべりをしてぬくぬくと幸せだった。

けれど,食べ物が減り、凍えそうな寒さが襲ってくるとのねずみたちはしゃべる元気もなくなった。

そのとき、みんなはフレデリックがいっていたことを思い出した。

「きみが集めたものは一体どうなったんだい?」

そこでフレデリックはおひさまの金色の光のことを語りだした。おや、だんだんあったかくなってきたぞ。

そして、青い朝顔や黄色い麦のなかの赤いけしやのいちごの緑の葉っぱのことを話し出すと、みんなは心のなかにぬりえでもしたようにはっきりといろんな色をみた。

そして、フレデリックは舞台に立った俳優のように、詩をしゃべりはじめるとみんなは拍手喝采。

「おどろいたなぁ。君って詩人じゃないか。」

フレデリックは赤くなって「そういうわけさ」とお辞儀をした。

✽レオ=レオニが初めて作った絵本は「あおくんときいろちゃん」で、これは孫のためにそこにあった色紙をちぎりながら作ったお話だったときいています。
それから彼は、たくさんの絵本を作って世に出しています。
そのひとつひとつは,彼の思想や生き方を明確なメッセージとして伝えるものばかりです。
たとえばフレデリックと同年の1969年に出された「スイミ-」。
副題として-ちいさなかしこいさかなのはなし-となっています。
大きな魚に兄弟を食べられてしまった小さい魚のスイミ-は,海の底で大きい魚から隠れて暮らす小さな魚たちと力を合わせ、大きな魚に立ち向かっていくというストーリーで、小さな弱い力でも、思いを同じくした仲間がたくさん集まって勇気と知恵をつくせば、大きな力となって思いを遂げることができるというお話です。
これはただ単にみんなで力を合わせ協力しながら生きることが大切だという教訓話で終わらせてしまうものではなく、その背景に戦争という人間社会の歪みのなかでユダヤ人として亡命をしなければならなかったレオ=レオニの、大きな権力によって失いかけた個と、そこからの復活といういう体験をスイミ-という小さな無力な魚の生き様として描かせたものなのではないかと思います。
そして、この「フレデリック」では徹底的に「個の尊厳」「個性の大切さ」を伝えてきます。
「みんな何もかも同じでなくてもいいのだ。それぞれがみんな違う個性をもち、それを生かしたそれぞれの役割がある。みんながそのことを担うことで他者を幸せにし社会を潤滑にしていくことができるのだ。集団、あるいは社会というひとくくりのなかのひとつの歯車としての一人ではなく、一人ひとりがそれぞれもっている個性や賜物をみんなで認め合い生かし合うことが幸せな集団・社会となっていく、そのことを大切にしなければならないのではないか」、というメッセージとして私は受け止めました。
そのことは一人の人間の生き方として、また保育者として子どもを育てていく上で大切な視点として深く学ばされたことです。
レオ=レオニの絵本は一人の個がいかにその個を大切に認識し、他者や社会とどのようにかかわっていくかという珠玉のメッセージを伝えてくれています。

14ひきのさむいふゆ

作 いわむらかずお

童心社


 

おとうさん おかあさん おじいさん おばあさん そしてきょうだい10ぴき。

ぼくらは みんなで14ひきかぞく。

風が吹き、雪が舞う寒い冬。

14ひきののねずみたちは、森の大きな木のなかに住んでいます。

外は吹雪、でも14ひきのおうちの中は何て暖かそうなんでしょう。

ストーブが燃えています。その上ではやかんがシュルシュルなっています。

ローソクの光のなかでおじいさんがこどもたちと竹を削って何か作っています。

おとうさんもこどもたちと何か紙に書いたり、切り抜いたりしていますよ。

台所ではおばあちゃんとおかあさんがおいしそうなおまんじゅうをふかしています。

一番小さいとっくんは、おまんじゅうをひとつもらってトラックに乗せてお家のあちこちを回ります。

おじいちゃんのところでは、そりかな?だんだん出来上がってきましたよ。

おとうさんのところは、何だろう。不思議なものができていますよ。

ああ、とんがりぼうしゲームね。おもしろそう。

さぁ、さぁ、おやつにしましょう。みんなでおまんじゅうのおやつを食べます。

おいしいな。おいしいね。

おやつのあとは、ゲームをみんなでしましょ。

おっ、雪がやんでおひさまが出てきました。

そりをもってみんなで外に出ます。まぶしい!つめたい!

すべる すべる、はやいぞ はやい。急ブレーキ、すってん。

ゆかい ゆかい そりすべり。 あぁ おもしろかった。

そして夜、おや また 雪。

おやすみなさい、雪だるま。


✽今月は、いわむら かずおさんの14ひきシリーズのなかの一冊を選びました。
何故かといいますと、今年はねずみ年だということを多少意識したのです。
更にねずみ年ということでおもしろいことを思い出しました。
いわむらさんの絵本のなかに「ひとりぼっちのさいしゅうれっしゃ」という一冊があります。
ひとりぼっちで最終列車に乗っていると駅に止まるたびに動物たちが乗り込んできて、主人公のまわりで動物たちの話が始まるという想定です。
そのなかで一番に乗り込んできた4ひきのねずみたちがこんな会話をするのです。
「来年はねずみ年だちゅうんだ。人間たちはおれらのことをいろいろ考えてくれるちゅうじゃねえけえ。だがきいたところじゃイギリスやアメリカちゅう国では、一週間にいっぺんはねずみの日があるんだど。」「それはチューズデエー(火曜日)ということじゃろうが」と。これにはおなかを抱えて笑ってしまいました。
ねずみという動物は、人の暮らしのすぐそばにいて、昔から人と知恵くらべをしながら生きてきたということもあるのか、たくさんの物語りや本のなかに取り入れられています。
体が小さく敏速で貪欲、そして子沢山というねずみは、愛嬌があってひょうきん者、それに家族を大切にする、というキャラクターとして定着しているようにも思えます。
この14ひきシリーズのなかのねずみたちも愛すべき主人公たちです。
今回選んだ「さむいふゆ」では、雪に閉じ込められた深い森のなかのねずみたちの小さな家のなかでは何がおきているかという視点で描かれています。
大きな森という外界と、ねずみたちの小さな家という対比のなかでミクロの世界を丁寧にクローズアップする手法により、そこに自己投入していく子どもの心がちょうど自分の寸法にあった物語りの世界の大きさに安心をおぼえながら、より新鮮な驚きや気づきを誘ってくれているように感じます。
この絵本はことばが少なく、しかし限りなくやさしく詩的です。そして、描かれている絵は隅々まで描き尽くされことば以上のことばとなってすべてを物語っています。またその絵をよく見ていると、世代の違うものたちのそれぞれの役割のあり方や、子どもの育ちの過程、またその育ちを支える大人たちのかかわり方やまなざしなどをみとることができます。
この14ひきのねずみたちの家は3世代の子沢山の家で、自然の恵みのなかで自給自足の楽しいまっとうな生活をしている家族です。
時間もたっぷりあって、家族がいつも同じことを一緒にやります。
働くことも遊ぶことも食べることも。
生活を楽しみ、そしてみんな仲良しです。
雪が降ったら、お家のなかでみんなで楽しく遊びます。おいしいものを作ってみんなで食べます。そして、雪がやんだらみんなで外に出てそり遊びをします。雪が降ってもやんでもそれを充分に楽しみます。
現代の人間の生活には願ってもできないような豊かな暮らしがそこにはあります。
私たちは、森に住んでいる14ひきのねずみたちのようには優雅に生活することはできないかもしれませんが、せめて家族が共に暮らしのために一緒に働き、おいしいものを一緒に食べて喜び、一緒に笑い、一緒に遊びに興じることができたらどんなにか楽しいだろうと、素朴なそして、満たされている14ひきのねずみたちの表情を見ながら、ふと思いました。

いちばんすてきなクリスマス

作 チェン チーユエン
訳 片山令子

コンセル

 

もうすぐクリスマスがやってきます。

ちいさいくまくんのおとうさんはその年、仕事をなくし新しい仕事をみつけられませんでした。

おかあさんぐまは、お金を数えて「今年の冬は節約をしなくっちゃならないわ。こどもたちにプレゼントをかえないわね」とおとうさんくまにいいました。

おかあさんくまは、くまくんの小さくなった服でクリスマスの飾りを作りました。

くまくんのお兄さんとお姉さんはサンタクロースが見てくれるようにとそれを窓に飾りました。

おとうさんくまは木の枝を探してきて,飾りをつけ、上から小麦粉をふりまいて素敵なクリスマスツリーを作りました。

クリスマスイブの日、おかあさんくまはおとうさんくまが釣ってきたお魚のおいしいスープを作りました。

夕ご飯の後、みんなは二階に行って「おやすみなさい」の他、何も言わずに休みました。

でもちいさいくまくんはなかなか眠れません。おとうさんを呼んでクリスマスのお話をしてもらいました。

そして、「サンタクロースは毎年プレゼントをくれるね。こんども忘れないよね」とおとうさんくまにいいました。

クリスマスの朝、、ツリーの下に、おひさまの光のなかによりそうように置かれている違った大きさのプレゼントがありました。

一番早起きをしたちいさいくまくんは大きな声で家族を起こしました。

みんなはそれぞれに自分の名前の書いてあるプレゼントをみつけました。

おにいさんぐまは「サンタクロースがきたんだよ」と叫びました。

それぞれプレゼントをあけてみると、おにいさんぐまには,前に木に引っ掛けて大きな穴をあけて使えなくなったたこがきれいに穴がふさがれて入っていました。

おねえさんぐまには、公園のブランコの近くでなくしたお気に入りの傘でした。

「サンタさんはかさが戻ってこないかなぁ,ってわたしが思ってたのをちゃーんと知ってたのね」とすごく喜んでいいました。

おかあさんぐまのプレゼントは、大好きな服のなくしてしまったボタンでした。

おかあさんくまはそれを手のひらをくぼませて宝石のようにのせました。

おとうさんくまには,木の枝を集めていた時、風に飛ばされてなくしてしまった帽子でした。

「どうやってサンタは帽子をみつけたんだろう」と不思議そうにいいました。

ちいさいくまくんのプレゼントは,大好きなグローブでした。「買ったばかりみたいにぴかぴかに光っている」といいました。

すると、おねえさんくまが不思議なものを見つけました。

それはツリーの下の雪についていた小さな足跡でした。

「サンタクロースの足跡だ。でもどうしてこんなに小さいんだろう。」

クリスマスの日は不思議な贈り物のこと、サンタクロースのことをずうっとお話して過ごしました。

使い古されたものたちは,新しいプレゼントになって楽しい思い出をたくさんよみがえらせてくれたのです。

こうして、くまの一家は今までで一番素敵なクリスマスを過ごしたのでした。

 


*くまの一家が過ごしたある年のクリスマスのお話です。

おとうさんくまは仕事が見つからない、一家の経済はひっ迫していてその日その日を生きるのに精一杯、という精神的にも生活も最大のピンチという状況のなか、クリスマスが近づいてきました。

そんな困窮のなかにあっても、おとうさんくまとおかあさんくまは、心と知恵を尽くしてツリーを飾り、窓飾りを作ってクリスマスを迎える準備をします。

子どもたちにプレゼントもあげられないだろう、ご馳走も食べさせられないだろうという心が潰されてしまうような切ない思いをもちながら、それでも子どもたちにクリスマスを待つ希望と喜びをもたせたいという親としての真摯な子どもへの愛情がひしひしと感じさせられます。

そして、クリスマスイブには2人の心づくしのお料理を食べてみんなでお祝いします。

クリスマスの朝、明るい日差しのなかでくまの一家が見たものはそれぞれに宛てられたプレゼントでした。それも不思議なプレゼント。

いつもそばにいて一緒に生活しているようなサンタさんのプレゼントだったのです。

それぞれが今はなくしてしまった一番大切にしていたものをちゃんとわかっていたのですから。

一体だれがこんなに素敵なサンタさんになったのでしょう。

それは、絵本をよく見ていくとちゃんとわかるのです。絵解きのように伏線がはりめぐらされ語ってくれています。

不思議なサンタクロースが誰だったのかを知った時、おとうさんくまもおかあさんくまもどんなに心を揺さぶられ喜びに震えたことでしょう。

都会に住み失業や貧困といった現代社会の歪みのなかにいるようなくまの一家はその不安や暗さ焦りのなかから、クリスマスを迎え、サンタクロースの心を受け取った時、再び幸福と希望と癒しを得て明るさを取り戻していくことができたのではないかと思います。

それはおとうさんくまとおかあさんくまの表情の変化で手にとるように伝わってきます。

この本を読んでいて、改めて、家族とは何か、贈り物とは何か,一番大切なものとは何か、サンタクロースって何だろうかということを考えさせられました。

作者のメッセージが緻密で素敵な絵と共に語りかけてくる一冊です。

メリー・クリスマス。よいクリスマスを!

おひさまいろのきもの

作・絵 広野 多珂子

福音館書店

 

ある村に ふう という女の子がいた。
ふう は何も見えなかった。大好きなおかあさんの顔さえも。
おとうさんのいない ふう の家は、おかあさんが一生懸命働いた。
ふう はそんなおかあさんの手伝いをしながらも、仲良しのさっちゃんとたみちゃんと秋祭りに一緒にいく約束をして楽しみにしていた。
さっちゃんの家に行った ふう は、秋祭りに着るためのきものの布を織る音を聞いた。
たみちゃんの家でも同じ音がした。
ふうは、自分の家には糸を買うお金もはたおりきもないことを充分知っていた。
けれど、ふう も「新しい着物を着て秋祭りに行きたい」とずっと思い続けた。
そして、ついにおかあさんの腕のなかで、「かあさん、ふう にも秋祭りの着物作って」と思いを打ち明けた。
かあさんは ふう をじっと見つめ、そして抱きしめて「ふう にも秋祭りの着物を作ってあげるね」と約束をした。
それからかあさんは、今までよりもっと働いた。畑仕事の後,夜遅くまでわらぞうりを作っては町に行って売った。
そして、少しずつ一番安い白い糸を買い足していった。
「かあさん、ふう はおひさまのようにあたたかい色の着物がいいな」
「かあさん、はなびらのいっぱいついた花の模様の着物がいいな」
「かあさん、そでのながいきものがいいな」
かあさんは ふう のことばをきいていた。
糸がやっと一枚分の着物が織れるだけになると、かあさんは何日もかけて糸を赤く染め、さっちゃんの家から機織り機を借りてきて、シュルシュルトントンと織り始めた。
ふう はその音を聞いていると自分も織りたくなってきた。でも糸がもつれるだけ。
いったんはあきらめたふうだったが、自分で掛け声をかけながらゆっくりゆっくり織ってみた。「できた!」そして、それからふうは毎日留守番をしながら布を織りつづけた。
もうすぐ彼岸花が咲いて秋祭り。ふう は、今まで以上に織りつづけた。
ある日、突然はたおりきが動きを止めた。ふう は何がおきたかわからないで泣いていると、さっちゃんとたみちゃんの「ふうちゃん、すごい。自分で布を織り上げたのね」という声が聞こえた。
ふうは布にさわってみた。さらさらとしてふわぁつとしていた。
かあさんは、おひさまいろに織りあがった布を袖の長い着物に縫い、黄色の糸で花の刺繍をしてくれた。
ふうには、そのおひさま色も輝く花の模様もよく見えた。
秋祭りの日、ふうはおひさまいろの着物を着せてもらって、さっちゃんとたみちゃんと一緒に出かけていった。


この絵本は福音館書店から9月に出版された新刊書です。
大判の絵本の表紙はあたたかいおひさまいろの彼岸花が糸つむぎをしている ふう を包み込むように描かれています。
この ふう の顔を見た時、あっこれはスーザ?と思って作者を確かめるとやはり広野多珂子さんでした。
ねぼすけスーザシリーズは、スペインの田舎でスーザという女の子が繰り広げる物語で自然や人々がやさしく明るく生活的に描かれている子どもも大好きなシリーズです。
その広野さんが、ちょっとレトロな時代背景を感じさせるその表紙から,今度はどんな物語を描かれたのかなとまず興味がわきました。
この物語は大正末期から昭和初期の時代を想定したと広野さんは語っていますが、その頃の人々の暮らしや息遣いまでもが、緻密な絵によって伝わってきます。
そのなかで,目の見えないふうという女の子が唯一の楽しみとしている秋祭りに新しい袖の長い着物を着たいという切なる願いを持ちます。
ふうは目が見えないけれど、おかあさんの手伝いをしたりお友達とも思いを共有できるたくましさ、できないことにも挑戦していこうとする力強さをもっています。
そして、それをあたたかく見守る周りの人々の関わりが描かれています。
おかあさんは,子どもの思いをかなえさせるために,精一杯の努力をしますが、それが虚栄や義務からではなく, 子どもの夢を自分の夢とし,子どもの喜びを自分の喜びとして、子どもを素朴に愛する思いによってなされていることを感じます。
私にはおかあさんが,糸を少しずつ増やしていく時に、あるいは何回も糸をおひさまいろに染めているときに、また、ふうのはたおりの音を聞いているときに、花の刺繍をしているときに,そして着物を縫っているときに母親として胸が高鳴るような喜びを感じていたのではなかったかと思えるのです。
自分で織り上げた布で作った着物を着るなどということは現代の社会ではあまり考えられないことですが、ちょっと前の日本ではそれがそんなに突飛なことではなく行われていましたし、そういう生産社会が人の生活を支え心を豊かにしていました。
そのような時代が、ふう のような子どもが真っ直ぐに前向きに生きていくことができた土壌かもしれません。
現代,消費社会にいる私たちにはない豊かさを感じさせてもらいました。
作者はご自分のお母様のことを念頭においてこの物語を描かれたと言っておられますが、そのすみずみまでその思いが込められた力作だと思います。

にぐるまひいて


ドナルド・ホール ぶん
バーバラ・クーニー え
もき かずこ やく

ほるぷ出版

 

10月 とうさんは にぐるまに うしを つないだ。
それから うちじゅう みんなで
この いちねんかん みんなが つくり そだてたものを
なにもかも つみこんだ。

こうしてあるニューイングランド人とその家族の一年間の成果を積んだ旅が始まります。
とうさんは、品物を牛にひかせたにぐるまに積み込みます。
とうさんは、丘を越え、谷をぬけ、小川をたどり、村や農場を通り過ぎ、旅をします。
そして、ポーツマスの市場で、とうさんは品物をひとつひとつ売っていきます。
可愛がっていた牛さえも。
ポケットをお金いっぱいにしたとうさんは、こんどは市場をあちこち歩いて家族の必需品を買い、家に帰ります。
そしてまた、季節はめぐり、新たな一年が始まります。
ドナルド・ホールのこのやさしい物語は、もう帰らない古き良き時代のアメリカの暮らし振りをしのばせてくれます。
バーバラ・クーニーは、木版に描くという古いアメリカの手法を用いて、19世紀初めのニューイングランド地方ののどけさや、ポーツマス市場のにぎわいを、うまく描き出しています。

1980年度カルデコット賞受賞作品。

上記は「にぐるまひいて」の化粧表紙の裏に書かれた文章です。
この「にぐるまひいて」は、家族というもの、自然の恵みというもの、生活というものの重みや素晴らしさを豊かに描き、深い感動を与えてくれる絵本だけに、実際にこの絵本の紹介をするということになりますと思いが余って簡潔に書き表すことができません。
そこで上記の紹介文を拝借いたしました。
とにかく一度、手にとって読んでみてください。
クーニーの絵も芸術的作品です。

14ひきのおつきみ

いわむらかずお 文・画

童心社

 

森に住むのねずみの家族。
おとうさん おかあさん おじいさん おばあさん そして、きょうだい10ぴきの
14ひき家族。
今日は高い木の上にロープやはしごで のぼって のぼっていきます。
みんなのぼったね。
木の上は 風が通り抜けて 葉っぱがさらさらなっている。
さぁ、木の枝 切って ひもでしばって  お月見台ができた。
ずっと ずっと 遠くが見える。
真っ赤な夕日、山が 空が みんな燃えてる。
だんだん夜がひろがってきた。
おだんご、栗の実、どんぐりを飾って、ほら もうすぐだよ。
でた でた おつきさんがでた。
おつきさん こんばんは。
おつきさんを見ながらごちそう食べよ。
おつきさん やさしい光で14ひきを見てた。


◎この絵本は、いわむら かずおさんの14ひきシリーズのなかの一冊です。
のねずみの14匹の家族のものがたりは「14ひきのひっこし」から始まって、すでに
11冊がシリーズになっています。
のねずみの兄弟はみんな名前がついていていたずらっこもいれば、甘えん坊やしっかりもののおにいさんもいるといったにぎやかな家族です。
子どもたちはもう のねずみたちの名前もしっかりと覚えていて、自分に似ているのねずみの子に自己投影をしながら、共感性をもって今度はどんなお話かなと楽しみにしています。
この家族は、栃木県馬頭町にある「いわむらかずお絵本の丘美術館」のある森に住んでます。
そこを訪ねると、そこここに絵本で見た風景やおなじみの場所に出会うことができます。
今年の夏7年ぶりに絵本の丘美術館に行ってきました。
前回行った時と同じように林があり、池や田んぼがあり 牛舎があって牛がこっちを見て挨拶をしてくれ 畑にはトウモロコシが実りトマトが熟れていました。
少し違って感じたのは、小さな生き物にあまり行き会えないなということでした。
全体に乾燥している感じがして、湿気のなかで漂っているあの生き物の匂いや気配があまりなかったように思います。
それも異常気象のなせる業でしょうか。
しかし、自然がそのままに注意深く保たれ、そこに暮らす農家の方の生活の匂いもなつかしく、足元に咲いている小さな野の花にも喜びを与えられました。
いわむらさんは、この場所をそのまま丹念にデッサンし、そこに生きているのねずみやリスやカエルなどを主人公にして、この大きな自然のなかに営まれている生き物の生活をやさしいまなざしで絵本に書きつづけていらっしゃいます。
そして、その画面から、私たちに自然の香りをいっぱい送りつづけてくださいます。
この14匹ののねずみの絵本を通して、人々が、自然のなかで平和に仲良く暮らすことのあたたかさをいわむらさんからメッセージとして届けていただいているように感じます。

なつのあさ

谷内こうた 文・画

至光社

 

夏の朝、ぼくは自転車に乗って走る。

/ なつのあさはみんなしろい
くさもみちも まだ ねむそう
   いそげ  いそげ
         まにあったかな
きこえる きこえる     いつものあのおと
       だっだ しゅしゅ   678910
だっだ しゅしゅ    だっだ しゅしゅ
   みみの なかに おとがある
とおくの まちも きしゃになる
    かあさん ただいま 
        ぼく くれよんで きしゃをかくの
あしたも きしゃを みにいくよ
  その よるは きっと きしゃの ゆめです /


30年も前、この絵本を最初に見た時、本当に自分の子どものころに感じた夏の朝の空気のにおいがプーンとよみがえってきたのを覚えています。

開放感に満ちた夏の日の朝の、まだ誰も起きていないだろう時間、これから暑い一日が始まるその前。
露を含んだひんやりとした空気のなかに草いきれのにおいがしてきます。
これから照らす強烈な日の光を暗示させるようにすべてが明るく輝いて光って見えます。
そんななかを小さな男の子が自転車を走らせて丘に登っていく。
間に合った。汽車が近づいて来る。静かな夏の朝、汽車が音をたてて走ってきます。
そして、汽車との遭遇を果たした子どもの胸には、その音が耳のなかにいつまでも記憶され甦り心のなかがそのことだけで充満します。

読んでいるとそんな子どものドキドキするような心の鼓動が聞こえてくるように感じます。
この絵本を描いた谷内こうたさんという作家は画家ですが、これほど絵とことばをフィットさせ、そこから醸し出される雰囲気を表現できるということは並ではないと感心させられます。
少ないことばから余韻が広がり、夏の白い朝を絵で表現することができる、それを読み手に届けることができるということはすごいことです。
谷内さんの創る絵本はみんなそのような雰囲気をもっていて、現実の事象をそのまま描くということでなく、そのもうひとつ奥にある夢かうつつかという境界を行ったり来たりしているような、そう、遠い追憶の世界、心象風景を描いているような気がします。
そんなうすいフィルターが一枚かかっているような表現を通して、作者の心情がより鮮明に、こちらに伝わってくるように思います。
「なつのあさ」、大人ももう一度その夏の感覚を思い出すために読んでみて欲しいと思います。

また、先日も夏の雰囲気をそのまま伝えてくる絵本に出会いました。
片山 健さんの新作、こどものとも8月号の「しずかなまひる」です。
これは夏の昼のけだるさが見事に描かれていて、汗で髪の毛が額にはりつくような暑さのなかでみんなぐったりという感覚、そんななかでまぶたが自然にくっついていくような睡魔を実際に自分の体で共感し、読んでいて私も眠たくなってきてしまいました。
画家というのは、このように見えるものを通して見えないものまでを伝えることができるという才能をもっているのだなぁとうらやましく感じました。
夏の感覚、体と心で覚えているその感覚、そのままの絵本たちです。

よじはんよじはん

ユン ソクチュン 文
イ ヨンギョン 絵
かみや にじ 訳


福音館書店

 

ちいさな女の子、隣の店やに行って「今何時?母さんが聞いてこいって」っていいました。
店やのおじさん「よじはんだ」と教えてくれました。 
「よじはん よじはん」
あっ、にわとりが水を飲んでる。ちょっと見ていこう。
「よじはん よじはん」
あ、ありが何か運んでる。ついて行ってみよう。
「よじはん よじはん」
あ、トンボとんぼ どこ行くの?
「よじはん よじはん」
ん、オシロイバナの蜜甘いかな。
ちいさな女の子、日がとっぷり暮れた頃家に帰りました。
「おかあさん 今 よじはんだって」
ン?


この絵本は今年5月に出版された新刊書です。
でもお話は、まだふつうの家には時計というものがなかった頃の韓国朝鮮の田舎の村が舞台です。

「この本の朝鮮語の原詩は1940年に詩人ユン ソクチュンによって書かれたもので、その頃民族の独立を阻まれ民族の言葉を書いたり話たりすることを極端に制限されていた時代にあって、韓国朝鮮の民族の心を懸命に守ろうと、こどもたちの心の中に朝鮮語のぬくもりをひそかに伝えたのです。
時代に翻弄されてきた大人たちは、ただひたすらに次の世代をになう子どもたちのすこやかな成長を祈りました。そして、心をこめて童詩を語り継ぎ,未来を信じたのでした。」(あとがきより抜粋)

このユン ソクチュンの童詩に、1960年代を念頭に絵をつけたのがイ ヨンギョンです。
子どもを見つめる慈愛に満ちた大人の目がこの絵本には満ちています。
読んでいて気持ちがとってもやさしくなってくるのです。
そして、読み終わった時、ウフッと小さな声を出して笑いたくなるのです。
明るくほのぼのとした詩と絵によって、ユ-モアに満ちたシンプルなストーリーがより素朴さ純粋さを増して伝わってきます。
暗い時代にあってなお民族に対する誇りと未来への確信を子どもに託し、夢と希望を失わずに移り行く時代の末を見つめていた詩人の素朴さ純粋さが生んだ祈りのことばを聴いたような気がしてきます。

がたごと ばん たん

パット・ハッチンス 作 絵
いつじ あけみ 訳


福音館書店

 

ぼくが、おじいちゃんの手押し車のって がたごと ばんたん と畑をいくとそのあとを小さなあかいめんどりがついてきした。
ぼくは「みてみて めんどりさん。ぼくはこんなこともできるんだよ。」といいながら、じゃがいもとにんじんとたまねぎを掘り、それから豆の畑にがたごとはんたんと進んで、高いところの豆だって採りました。
がたごとばんたん、めんどりはずっとずっとついてきます。
ぼくは「みてみて、めんどりさん。こんなこともできるんだよ」といって、今度はトマトをとりレタスをとりそして大きなキュウリもとりました。
また がたごとばんたん進んでいくと苺畑。めんどりがついてきます。
ぼくは「みてみて」といいながらいちごを摘んでかごにいれました。
また がたごとばんたん進んで行くと、あれっ
ちいさなめんどりはついて……・きません。
こんどはぼくたちがめんどりについていきます。
がたごとばんたん 鳥小屋までついていくと……。
おじいちゃんがいいました。
「ほら、見てごらん。小さなあかいめんどりさんもこんなことができるんだ。
卵をひとつ、とびっきりの卵をぼうやにうんでくれたんだよ。」


この本はパット・ハッチンスの最新作でこの4月に発行されました。
色彩も美しく、畑の作物も見事においしそうに描かれ、花や木や果物、ハーブなどもやさしく描かれていてまるで畑の図鑑のような感じもいたします。
読んでいるだけで「ぼく」を通して、自然の植物や栽培物を育てる楽しさや収穫する喜びが伝わってくるようです。     
そして、「おじいちゃん」と「ぼく」がどんなに畑を大切にしているか、どんなに豊かなあたたかい食卓を囲む生活をしているかが感じられます。
「ぼく」がめんどりに「みてみて、ぼくこんなこともできるんだよ」といいながら収穫をする場面にも「ぼくこんなに大きいんだよ」ということと共に、収穫の仕事をすることへの誇りも感じられるのです。
その丹精に手入れをされた畑のなかを「ぼく」がおじいちゃんの押す手押し車に乗せられて、がたごとばんたんと進みながら、そのあとをついてくるめんどりとのやりとりを楽しんでいるストーリーはとても穏やかで牧歌的です。
ページごとに展開していく話や絵と、「がたごとばんたん進んでいきます。」「めんどりはついてきます。」という繰り返しの部分が子どもに冒険と安定の両方を与えていて、そこでもその妙技に感心してしまいます。
最後は、話の進行方向がぐるっと逆転して今度は「おじいちゃん」と「ぼく」がめんどりの後をついていくという展開になるのですが、めんどりは「自分にもこんなことができるよ」と誇らしげに卵を1つ「ぼく」に見せてくれるのです。
とてもシンプルなストーリーにもかかわらず、子どもをぐんぐん引きつけていって最後にさわやかな驚きとあたたかさを用意している絵本です。
おじいちゃんの関わりも見逃せません。
「ぼく」への愛情、植物や生き物に対する愛情が、最後に「ぼく」に語りかけることば「ほら みてごらん」「ちいさなあかいめんどりさんもこんなことができるんだ。たまごをひとつとびっきりのたまごをぼうやにうんでくれたんだよ」にすべてが集約されているように思います。

この絵本を読みながら、去年発行されたハッチンスの「かえりみちをわすれないで」をふと思い出しました。
これも彼女の幼児期の田舎暮らしの体験を彷彿とさせるお話で、直線に進んで行って戻ってくるというじつにシンプルな動きのストーリーが独特の画風で描かれた印象的な絵本でした。
1975年にも、めんどりのロージーときつねとのユーモラスな絡み合いの絵本「ロージーのおさんぽ」を描いていますが、この絵本は彼女のベースになっているような気がします。
他に、小さい男の子とその兄弟、家族とのお話を描いた「ティッチ」が石井桃子さんの訳で同じ1975年に出版発行され、その時もその個性的な作風が心に残りました。
1984年にはその続編「ぶかぶかティッチ」を発表しています。
個性の光る作家と作品です。

ぼく にげちゃうよ

マーガレット・W・ブラウン 文

クレメント・ハード 絵
いわた みみ 訳


ほるぷ出版

 

ある時、こうさぎが家を出てどこかにいってみたくなりました。
そこでおかあさんうさぎにいいました。
「ぼくにげちゃうよ」
するとかあさんうさぎがいいました。
「おまえが逃げたらかあさんはおいかけますよ。だって、おまえはとってもかわいいわたしのぼうやだもの」と。
それでもこうさぎは「おかあさんが追いかけてきたらぼくは小川の魚になって泳いでいっちゃうよ」というのです。
すると「おまえが小川の魚になるのなら、かあさんは漁師になっておまえを釣り上げますよ。」と返します。
それなら、それならとこうさぎとかあさんうさぎはことばの追いかけっこを始めます。
こうさぎが「おかあさんよりずっと背の高い山の上の岩になる」というと、
かあさんうさぎは「登山家になって登っていきますよ」。
「庭のクロッカスになっちゃうよ」といえば「植木やさんになって見つけますよ」、「小鳥になって逃げていくよ」というと「母さんは木になっておまえが止まりに帰ってくるのを待っていますよ」と応えます。
そして、小さなヨットになる、サーカスに入って空中ブランコで逃げる、というこうさぎに母さんうさぎは丁寧に応えるのです。
そして、「かあさんが 綱渡りをしてぼくを捕まえにきたら、ぼくは人間のこどもになって、おうちのなかに逃げちゃうよ」といいますと、
「おまえが人間のこどもになって、おうちに逃げ込んだらわたしはおかあさんになってその子を捕まえて抱きしめますよ」とおかあさんうさぎがいいました。
すると、こうさぎは「だったらうちにいて、かあさんのこどもでいるのと同じだね」といって、逃げ出すのをやめました。


このお話は、おかあさんうさぎとこうさぎの言葉遊びのような展開ですすんでいくのですが、読んでいるとまさしく人間の母親と子どもが交わしている言葉がそのまま聞こえてくるような感じがします。
そして、どんなお母さんと子どもが、どんな時に、どんな状況で、どんな表情をしながら語り合っているのかしらと想像してしまいます。
夜、ベッドに入った子どもとお母さんのやさしい会話でしょうか。
それともおやつをたべながらのテンポのいい ことば遊びでしょうか。
どんな状況にしてもそこにはゆったりとした時間のなかで「母と子が共にいる」というやさしい空間があります。
そして、この本は自立を始めたこどもが親から独立をしていくサインを出している、しかし、それをまだ時期ではないと見極めた母親が認めない、などというつまらない分析をするには次元の違う勿体ないお話です。
子どもと母親が次々に出てくる状況のなかで追いかけっこをしながらそれを歌のように繰り返していくなかで互いの愛を確信し、帰るべきところをしっかりと認識するというとても大切なメッセージが語られている本だと思います。
子どもはお母さんの大きな愛のなかにいる時が一番自由で安定しています。
しかし、そのなかにいる時にはそのことに気づかないし、ときにはそれが面倒にも感じられ、お母さんと離れて自分ひとりになればもっとやりたいことが出来たり素晴らしい世界が拓けるに違いないと思ったりします。
しかし、人はどこかにしっかりと抱かれていなければ、風に舞う木の葉のように自分がどこから来てどこに行こうとしていて、どこに着地をしたらいいのかわからないのではないでしょうか。
自分の帰るべき場所をしっかりもっているということ、自分がだれかにしっかり抱かれ愛されているということは人が生きていくときに何よりも大切なことなのではないのだろうかと思わされるのです。
この本は1942年に初版されていて、もう65年もロングセラーを続けていることから何代にもわたってこのメッセージを親から子へ、大人から子どもへと伝え続けてきたことを思いますとこのメッセージがたくさんの人に支持され拠り所となってきたことを思います。
65年前の親子関係と現代の親子関係ではその環境や時代性のなかでの状況が違うかもしれませんし、表現の仕方が変わっているかもしれませんが、基本的には子どもは、いえ 人は「母なるものの愛に抱かれて生きるもの、成長するもの」であることをこの本は教えてくれます。
最後に、もう逃げないと決めたこうさぎに、かあさんうさぎは「さぁぼうや、にんじんをおあがり」と語りかけ、木の根元の暖かいうちのなかで母と子がやさしく向かい合っている場面でこのお話は終わりになります。
おいかけてくれると信じているから逃げるといってみたかったこうさぎは、どこまでも自分を追いかけ、見守り、守り抜いてくれるおかあさんうさぎの腕の中で安心してにんじんを食べたことでしょう。

作者のマーガレット・ワイズ・ブラウンは他にも
・ ちいさなもみのき (福音館)
・ おやすみなさいのほん (福音館)
・ うさぎのおうち (ほるぷ出版)
・ おやすみなさい おつきさま (評論社)
・ クリスマス・イブ (ほるぷ出版)
など、長い間語り継がれ、読み継がれている名著を残しています。
どの本も古きよき時代のアメリカの家庭・家族・親と子などの心温まる愛にみちたお話です。
作者の人柄がしのばれます。

たろうのひっこし

村山 桂子 さく

堀内 誠一 え

 

福音館書店

 

ある日、たろうが「ぼく、自分の部屋が欲しいな」というとおかあさんが「いいわ。たろうのお部屋を作ってあげる」といってくるくるまいた古い絨毯をくれました。
「このじゅうたんを広げたところがたろうのお部屋よ」と。
たろうは早速じゅうたんを階段の下に広げました。
「わぁ、ぼくのおへやができた。でもだれかお客さんがこないかなぁ。」
するとねこのみーやがやってきました。
「わぁ すてきなお部屋。でも窓があったらもっといいのに。」
そこで絨毯をくるくる巻いて抱えると、出窓の下にお引越し。
絨毯を広げてお部屋になれました。みーやは大喜び。
犬のちろーがそれを見て、「いいな。でもぼくはおうちの中に入れないからつまらない」といいました。
そこでたろうは絨毯をくるくる巻いて抱えると、外の犬小屋の前にお引越し。
ちろーは大喜びでお部屋にあがりました。
そこにあひるのがぁこがやってきて「たろうちゃんのお部屋におひさまが当るともっといいのに。」といいました。
そこでまた、たろうはみんなを連れてお引越し。
庭の真ん中に絨毯を広げました。 
するとそこににわとりのこっこがやってきて、「2階だったらもっといいのに。」といいました。
そこで、またまた たろうはお引越し。
今度はニワトリ小屋の上に絨毯を広げました。
こっこは大喜びで2階のお部屋にあがりました。
そこに今度はまみちゃんがやってきました。
「わぁ すてき。でもたろうちゃんのお部屋がみんなで遊べるお部屋だったらもっといいのにな。」といいました。
みーやも ちろーも がぁこも こっこも「みんなで遊べる部屋がいい!」といいました。
そこでたろうは「そんなことなら簡単さ。」といってくるくる絨毯を巻くと「おいでよ。みんな引越しだよ。」といって、桜の木の下に行くと、そこに絨毯を広げました。ここならみんなで遊べるお部屋です。何てすてき!。
すると、「みんな一緒におやつにしましょ。」とまみちゃんは包みを広げました。
おかあさんがジュースを持って来てくれて、みんなは桜の花の下で大喜びでおやつを食べましたって。



この「たろうのひっこし」は、こどものとも325号として1983年4月に配本になりました。
今から24年前です。
この本が出た時に読んだ子どもたちはきっと新鮮でモダンなものがたりと絵に触れて印象深く心に残っていると思います。
桜の花の散る庭でみんなが春の陽だまりのようにあたたかく幸せそうな笑顔でおやつを楽しんでいるという最後のページに象徴されるように、このものがたりはあたたかさに包まれています。
登場人物もみんな個性的で自己主張をしますが、たろうはそれをひとつひとつ受け留めながら楽しく遊びを創っていくのです。
また、おかあさんが実に夢があります。
絨毯を広げたところがお部屋になるなんていう発想は 若草のように柔軟で、よほど子どもの心を大切に持ち続けている人でないと出てこないでしょう。
そのおかあさんのやわらかくて楽しい関わりのなかでたろうの世界はぐんぐん広がり、遊びも他の人との関わりも楽しく展開できるようになっていくのだと思います。
今、子どもたちはゴザひとつ、絨毯ひとつで果てしのない夢の世界を創りだしていくという遊びは苦手になっているように思います。
この本が描かれた24年前の子どもたちはどうだったんだろうか、どんな遊びをしていたんだろうかと改めて考えてしまいました。
このたろうのシリーズは、村山桂子さんと堀内誠一さんのコンビで こどものとも51号(1960年6月号)「たろうのばけつ」から始まっています。
今から47年前です。
そして、「たろうのともだち」1961年こどものとも1月号。
「たろうのおでかけ」1962年4月号。
改訂版「たろうのともだち」1967年4月号、と月刊こどものともで出版されています。
「たろう」や「まみちゃん」、「ねこのみーや」、「いぬのちろー」、「あひるのがあこ」に「にわとりのこっこ」もすっかり身近に、まるで自分の幼児期に共にいたともだちのように感じている人もおられると思います。
ずっとこのシリーズが続いていたら 今、どんなものがたりになって登場していることでしょう。
でも堀内 誠一さんはこの「ひっこし」のあと4年後に亡くなっていますのでもう二度と「たろう」の新刊書はないと思うとさびしくなります。

 

ニューワと九とうの水牛

小野 かおる 文・絵

 

福音館書店

 

昔むかしのおはなしです。
ふかい山に囲まれた小さな村に、やせこけてぼろぼろの服をまとった小さな男の子が迷い込みました。
村の人たちはその子にニューワと名前をつけてみんなで育てることにしました。
ニューワは村人が飼っている9頭の水牛の世話を一生懸命しました。
ある年、ひでりが続いて村人も水牛も食べるものがなくなりそうになりました。
ニューワは1人で水牛に食べさせる草を探しにでかけました。
ふかい淵に出たニューワは、その中州に青草や葦がはえているのを見つけて急いで水牛たちを連れてきました。
しかし、淵は深く、水牛を中州までどうやって渡したらいいか困ってしまいました。
ニューワは「水の神様、りゅうおうさま。水牛に淵を渡る力をください。お礼に何でもします。」と一心に祈りました。
すると突然淵の底から水牛が一頭乗れるくらいの大きな石がぶっくりと浮き上がってきて、水牛を次々に中州に運ぶことができました。
そこで水牛たちはおいしい草をおなかいっぱいたべることができました。
帰る時には教えられたように葦の笛を吹いて石を呼び出し淵を渡ることができたのです。
ニューワが大人になったある年、以前よりもっとひどいひでりになりました。
ニューワはまた、淵の底に向かって「何でもしますから雨を降らせて」とりゅうおうに頼むのでした。
すると大雨が降り出し、水のなかからサイのようなけものが現れてニューワに「背中に乗りなさい」といって走り出したのです。
ニューワが目をさますと、そこは立派な御殿でした。
そして、たくさんの家来に囲まれた美しい姫がニューワに婿になるようにと言ったのです。
ニューワは驚いて、「水牛たちのところに帰してほしい」と頼みましたが、家来たちは「助けてくれれば何でもするといったではないか」というのです。
しかし、ニューワの気持がわかった姫は、いつでも水牛たちに会えるようにとしてくれました。
ニューワが笛を吹くと、水牛たちがやってきて中州で一日中一緒に過ごすことができ、夜になるとその水牛たちは9つの大きな山に変わるのです。
こうしてニューワと姫は水牛と一緒に暮らしました。


2007年1月31日に出版された福音館の新刊書です。
けれども、このような昔話はどこか懐かしく、同じような香りをもって読者を魅了します。
どこのだれというはっきりとした規定のない、存在そのものがミステリアスな主人公が、「昔むかし」「小さな村」というこれまた空中浮遊をしているような時、場所で繰り広げられるお話。
聞く人,読む人の想像力を自由に広げてくれます。
そして、「りゅうぐう」の「姫」の登場で物語は一気に力を帯びて展開していきます。
子どもから大人までお話に吸い込まれていくような感じです。
絵も肉厚で色彩も美しくお話によく合っていて双方で引き立てあっているようです。
ところで「水牛」というのは、日本に住む私たちにはあまり家畜として身近ではない動物ですし、大きなそそり立つような9つの山というのもどこからきているのかと不思議に思って調べてみましたら、これは中国 桂林の伝説をもとにして作られたお話だということです。
桂林といいますと、急峻な岩山が立ち並んだ絶景で知られた所。
なるほどと胸に落ちました。

たんぽぽ

平山和子ぶん・え

北村四郎監修

 

福音館書店

 

この絵本は福音館書店の月刊「かがくのとも」1972年4月号として発行され、それが傑作集として装丁を新たにして出版された絵本です。
「たんぽぽ」は、私たちがたいていどこででも、また、いつでも目にすることができるごく身近な植物ですが、考えてみると何と不思議な植物だろうと思います。
まず、あの逞しさです。どんな劣悪な場所であっても、雪の下にうずまって凍るような寒さであっても大きな葉を広げて黄色い花を咲かせます。
今も、しおれたような葉が凍った地面の上に這いつくばるようにしていますが
やがて時季がくれば、新しい葉を出して立ち上がってきます。
そして、道端に生えて人に踏まれようがどうされようが再び起き上がる逞しさ。
何より、花が部屋の中に入れた途端に元気がなくなってすぐしぼんでしまうこと、花が「わたげ」になって一斉に飛んでいくこと、不思議なことばかり。
その不思議なメカニズムがこの科学絵本によってわかりやすく絵解きされ、そして、ますます自然のもつ不思議さに驚嘆したり興味を深めていきます。
圧巻は根っこの長さ、この驚きは何年たっても印象に残っています。
この絵本はものがたりでもありませんし、作者が特に創り上げたものではないのですが人の思いや手を超えた、自然のもつドラマチックな営みが淡々と真摯に描かれていて学ばされるものがたくさんあります。
これだけの画をこれだけ真理に忠実に描くために、作者はどれだけの時間と観察力を用いのだろうと思うといつまでも大切に読んでいきたい絵本だなと思います。
朝、子どもたちはたんぽぽの花が道端に咲いていれば、ふと足をとめてながめ、そして、そっと花を摘んでは幼稚園に持ってきてプレゼントのように渡してくれます。
すぐに小さな花瓶に入れておいてもお昼にはすっかりしぼんでしまうのですが
子どもたちは毎日毎日同じようにたんぽぽの花を大切そうに抱えてきます。
たんぽぽの逞しさ、かわいらしさは子どもに大事な何かを訴えてくるのかもしれません。

たんぽぽについてもっと知りたいと思う人は福音館の 「たんぽぽみつけた」(石津 博典さく)なども読んでみるとおもしろいと思います。

うらしまたろう

時田 史郎・再話

秋野 不矩・画

 

福音館書店

 

昔のお話です。
あるところに浦島太郎という若者が住んでいました。
海で魚を釣りながら、年老いた両親を養っておりましたが、ある日、海に出ていくら釣り糸を垂れても雑魚3匹しかとれない日がありました。
重い足取りで浜辺を歩いていると、何やら子どもたちの騒ぎ立てる声が聞こええてきます。
近寄ってみると、子どもたちがごしきのカメを囲んで木の枝で叩いたりしていじめています。
太郎がカメを放すようにいっても一向にききません。
太郎は今日の漁のすべて、雑魚3匹とカメをとりかえさせました。
次の日、最後の糸を垂らした時、重いてごたえがあり、力いっぱい糸を引くと、輝きとともに美しい娘がカメを従えてあわられました。
娘は「私は昨日あなたに助けられたカメ。実は竜王の娘おとひめです。」といい、お礼をしたいので一緒にきてほしいとカメの背に乗せ目を閉じさせました。
太郎が促されて目をあけた時、そこには竜宮が見えました。
早速歓迎の宴が始まりました。
そして、太郎はそこで毎日楽しく暮らすうちに3年の年月がたっていました。
ある時、太郎は家に残してきた両親のことを思い出し、引き止める竜王やおとひめに暇乞いをしてもといた里に帰ることにしました。
おとひめは別れる時に、美しい玉手箱を、「この箱を持っていれば又いつか会えるかもしれない。でも決してあけないで」といって渡しました。
太郎がカメに送ってもらってもといた里にもどってみると、家もなく人々も知らない人ばかり。
聞いてみると、浦島太郎という人は300年も前に海に出たまま帰らないという答えでした。
途方にくれた太郎が、おとひめが渡してくれた玉手箱のふたに手をかけると、
なかから、3筋の煙が立ちのぼり、太郎は白髪のおじいさんになってしまいました。


ご存知の方は空でお話ができるほどに馴染みのある昔話です。
でもこの頃、子どもたちだけでなく、お父様お母様に聞いても知らないという人が多くなりました。
むかし むかし うらしまは たすけたカメにつれられて
りゅうぐうじょうにきてみれば えにもかけないうつくしさ
という童謡も歌える人も少なくなりました。
御伽草子の時代から大人にも子どもにも親しまれ、口から口へ語られてきたこの昔話は人々に目に見えない御伽の世界を想像させ、現実の世界との往来を楽しませてきたことと思います。
浦島太郎伝説にはたくさんの意味や背景があり、ある意味ではこわい話でもありますが、お正月、子どもたちにゆったりとシンプルにストーリーを語って一緒に楽しんでみて欲しいと思います。
海の底の竜宮城に舞う魚達を想像するだけでも楽しいのではないでしようか。
子どもたちはこんな奇想天外なお話を喜んで聞くことでしょう

サンタさんからきたてがみ

たんのゆきこ さく

垂石眞子 え

 

福音館書店

 

クリスマスの前の日。
雪が降り積もった森のなかを、ねずみの郵便やさんがカバンに手紙をいっぱい詰めて駆けています。
おっと、雪にすべってころんでしまいました。
手紙はカバンから飛び出して、散り散りバラバラ。
慌てて拾い集めましたが、最後の手紙の宛名が雪にぬれてにじんで見えなくなっていました。
「どうしよう」。
ねずみはしょんぼり。
でも手紙を待っている森の動物たちに手紙を届けなければ。
いつも元気なねずみくんが今日はしょんぼり、とぼとぼ 手紙を配ります。
そんなねずみくんを心配して動物たちが集まってきました。
ねずみくんが、宛名のわからなくなった手紙を見せました。
「その手紙、だれからきたの?」とうさぎさん。
裏を返すと…・・、それはサンタさんからの手紙でした。
サンタさんから手紙をもらえる人なんて、どんな人なのでしょう。
動物たちはみんな自分に来た手紙だといいました。
けれど、よくよくみんなで見てみると、ねずみさんのしっぽが描いてあることに気づきました。
「これはねずみさんへのお手紙だよ。」
早速、開いてみると、それはサンタさんがプレゼントを配るお手伝いをして欲しいというお願いだったのです。
大変、もう時間がありません。
くまさんはねずみさんをコートのポケットに入れると全速力で走りだしました。
動物たちもみんなあとについて走ります。
サンタさんとの約束の森一番の大きなモミの木につくと、そのモミの木はたくさんの光で飾られ輝いていました。そして、その下にはサンタさんが立っているのが見えました。
さぁ、みんなソリに乗せてもらって サンタさんのお手伝いに出発です。
ねずみさんは上手に案内ができましたって。


子どもたちにとってサンタクロースの存在は特別です。
サンタクロースはいつも自分を見ていてくれて、自分が一番欲しいものを届けてくれるという信頼厚い存在であり、子どもにとっては「目に見えないけれども必ず在るもの」を感じ取ることのできる存在です。
人が幼いときに、サンタクロースがいることを信じられるか、信じられないかは人生を通して、大きな分岐点なように思います。
人が自分を超えた大きな存在によって守られ愛されているということを生涯信じて幸せを創り出す人になるか、目に見える物しか見ようとしない人になるかは、この一点にかかっているのではないかと思うのです。
この絵本はサンタさんが子どもにとってどんな存在なのかをうまく言い当てているように思います。
すぐそばにいるようで、でも、とても偉大な人のようで、何でも受け入れてくれそうで、一人ひとりをとても大切にしてくれる。
そんな存在感をもったサンタさんとそれを素朴に慕う動物たち(子どもたち)。
大人になるとそんなことは微塵もなかったかのようにして気難しい顔で現実を嘆き、あれがいけない、これが足りないと愚痴をこぼしてしまいがちですが、このクリスマスの時、もう一度、素直な子ども心にもどって、見えないものに身をゆだねる心地よさを味わいたいと思います。
そして、子どものサンタを信じようとする気持を躓かせない大人でいたいと思います。

あしたもともだち

内田麟太郎 作

降矢なな 絵

 

偕成社

 

キツネとオオカミがクマの からかいうたを歌いながら散歩をしていると、
チラリ。
オオカミはそのクマが木のかげに倒れているのを見つけました。
オオカミは思わずそばに駆け寄ろうとしましたが、足を踏みとどめました。
だって、オオカミは森一番の乱暴ものと決まっていましたから、クマを助けたりしたら優しいオオカミになってしまうではありませんか。
オオカミはキツネに「さんぽはやめ!」とどなると、びっくりしているキツネをおいてきぼりにしてさっさと帰っていきました。
いいえ、かえるふりをして岩陰からキツネがしょんぼり帰っていく姿をぐしゅっと鼻をさせながら見送ったのです。
そして、大急ぎでクマのところにかけつけました。
クマはりんごの枝からおっこちて腰を思い切りうちつけて起き上がることができません。
オオカミは重いクマに肩をかして、つぶされそうになりながら家まで連れていきました。
それから、毎日看病に通いました。
ごちそうを食べさせてやったり、お部屋のお掃除までしたのです。
そんなこととは知らないキツネは、オオカミが仲良く遊んでいてもすぐに「バイバイ」とどこかに行ってしまったり、落ち着かなかったりするので、「ぼくのほかにいい友だちができたのかも」とやきもきします。
今日もさびしく1人で遊んでいると、オオカミがどこかに行くのを見つけました。
キツネはこっそり後をつけました。
オオカミは栗の実をひろいながら、歩いていきます。
そして、クマの家に入っていったのです。
クマはもうだいぶケガが治って元気になっていました。
キツネはすっかり事情がわかりました。
そして、ちょっと恥ずかしくなりました。
オオカミはそんなことはおくびにも出さず、次の日からまた、キツネといっぱい遊ぶようになりました。
今日もオオカミの歌う クマのからかいうたが 森に響いています。
クマはまったくこまったやつだ
りっぱな きばがありながら
クリやなんかをたべたがる
こまった くまった
くまった こまった
キツネはくすっと笑いながら「あしたもあそぼうね。あしたもともだちだよ」とオオカミにさけびました。


キツネとオオカミの「おれたちともだち」シリーズのなかの一冊です。
悪ぶってはいるものの ちょっとおっちょこちょいではありますが心底素直で素朴であたたかいハートをもったいい奴のオオカミと、それを兄貴分のように慕うキツネとの実に傑作なお話です。
このシリーズにでてくる 動物たちはみんなどこか屈折しながら孤独を背負っていて友だちを欲しています。
そこに実にユニークなキャラクターのオオカミとキツネが大活躍をして抱腹絶倒の話を展開していくのです。
読んでいてスピード感とリズム感が心地よく、また降矢ななさんの絵がまたじつにおもしろくて動きと表情がいきいきとしてその話の展開を魅力的にしてくれています。
どのシリーズを読んでもイメージがもう読者のものになっているのでオオカミもキツネも人事ではなくすぐそばにいる友だちや、自分自身のように親しく感じられてしまいます。
愛さえ感じます。
でも、ああ おもしろかった といって最後のページをとじようとする時、
そこには ただおもしろかった だけではない何かが残るのです。
安堵感、あたたかさ、人の情の深さにふれた感動というようなものでしょうか。
それはどこからくるのか考えてみますと、これらの話の底流には人がもち続けたい「こころとは何か」「本当のやさしさとは何か」が一貫して問われているように思うのです。
シリーズのどの物語も非常に繊細な心の動きや葛藤、また心と心の触れ合いが大事にまた、丁寧に描かれていて、目に見えるものの奥にある大事なものを読者に訴えているように思われるのです。
そして、それは自分自身の心の鏡でもあるようにも思います。
そんな「こころ」や「やさしさ」に触れた時、読者はじんわりと本物の幸せを感じるのではないでしょうか。

おおきなかぶ

ロシア民話/A・トルストイ再話

内田莉莎子 訳

佐藤忠良 画

福音館書店

 

おじいさんの育てたかぶが甘く大きくできました。
おじいさんは「うんとこしょ どっこいしょ」と力いっぱいかぶを引っ張りましたがしましたが、かぶは抜けません。
おじいさんはおばあさんを呼んできました。
おじいさんがかぶを引っ張って、おばあさんがおじいさんを引っ張って「うんとこしょ どっこいしょ」と引っ張りましたがそれでもかぶはぬけません。
おばあさんは、孫むすめを連れてきました。
力いっぱいひっぱってもかぶはまだまだ抜けません。
まごは犬を連れてきました。
それでもかぶは抜けません。
犬は猫を呼んできました。
それでもかぶは抜けません。
猫はねずみを呼んできました。
「うんとこしょ どっこいしょ」
ようやくかぶはぬけました。


みんな知っているお話です。
大きく大きく育ったかぶがいざ収穫ということになった時、とてつもなく重く、大地にしっかり根を下ろしていてなかなか抜けません。
おじいさんは、おばあさんを呼んできました。
おじいさんは、しっかりとかぶをつかんで、そのおじいさんをおばあさんが引っ張って力いっぱい引っ張りましたがそれでもびくともしません。
そこで孫を連れてきて、かぶをひっぱるおじいさんをおばあさんがひっぱり、そのおばあさんを孫がひっぱり、それでもかぶはぬけません。
それじゃあ、と今度は犬を呼んできます。
つぎは犬が猫を呼んできてひっぱりますがそれでもかぶはぬけません。
最後に猫がねずみを呼んできてみんなでひっぱると、ようやく大きなかぶがぬけました。
というシンプルな繰り返しのお話であります。
しかし、あれほど力の限りにぬこうとしてもぬけなかったかぶが、最後に小さなねずみの登場で均衡がくずれ、事態が一転するというおもしろさ。
飽きもせず繰り返される「うんとこしょ どっこいしょ」。
これがこどもたちにはたまらないんでしょうね。
考えてみますと、こどもってこうやってすべてのことを繰り返しながらものを理解したり、喜びを重ねていったり、勤勉性を養ったりしているのですよね。
絵本に繰り返しが多いというのはやはりこどもの心の発達にうまくフィットしているのだと思います。
大人は、細かい同じような繰り返しは極力避けて出来るだけ簡単に合理的にと考えがちですが、こどもは一つ一つを丁寧に繰り返すなかで納得していくのではないでしょうか。
大人はそんな子どもの心情や育ちに添っていかなければならないのではないかとこの物語を読むたびに考えさせられます。

おいしいもの つくろう

岸田衿子 さく

白根美代子 え

 

福音館書店



おがわのそばにあらいぐまの家。

そのとなりにうさぎの家族の家。

どっちのお家もお料理上手。

朝からおいしそうなメニューが並びます。

あらいぐまの家では ほかほかの ぱっくりドック。

うさぎの家ではふわふわ、まぜこぜの オムレツ、オムレツ・フラメンコ。

お昼はみんなで遠足に行きましょう。

おべんとうは おむすびを作ってそれをふりかけにごりんごろりんころがすと

ほら おむすびごろりん できあがり。

途中の牛さんの畑で野菜をたっぷりもらいました。

川辺でみんなでお料理 お料理。

みんなだいすき サラダじま のできあがり。

さぁ おべんとう。

おいしいね。

帰り道で 晩ごはんの相談。

今日は一緒に食べましょう。

うさぎは、あんず、きいちご、バナナ、を牛乳で固めた かじゅえんゼリーとじゃがいもピザを作りました。

あらいぐまは、スープでことこと煮込んだ たのしみどうふ と なんでもおじや。

さぁ みんな集まって にぎやかな ばんごはん。

今日も おいしかったね。きょうも無事でなにより なにより。


この絵本は、ストーリーは単純でシンプルなのですが、よく見ていくとなんと読みでのある本かと思ってしまいます。
画面ごと 登場人物をみていくとみんなそれぞれ忙しくまた思いのままに動いていますし、食べ物もお料理されたがっているかのように実にいきいきと細部にわたって描かれています。
ことばも ころがっていくように リズミカルでまるで歌っているよう。
そして、お料理の順序も実に分かりやすい。
今すぐ自分にもできてしまいそうな、いえ、自分がしているような思いにさせられます。
そして、そのお料理の香りや色合い、味までわかっちゃうような気になってきます。
しかし、そのお料理の実に本格的なこと。
インスタント食品なんてひとつも出てきません。
ふりかけだって手作りなんです。
そして、しばらく見ていくと、突如としておなかが空いてきて「あぁ、食べたい!」おもわず叫んでしまいそうになるのです。
これは、子ども用に作ったお料理の本ではないように思います。
これは絶対、おかあさんが子どもにきちんとお料理をして食べさせている本です。それも子どもと一緒に。楽しみながら。
作者の岸田衿子さんは、きっとそんなお子さんとの生活をされていたのだと思います。
子どもは、こんなお料理の絵本を読んでいくなかで、食べることの楽しさや、お料理することの豊かさを感じていかれるのではないかと思います。
そしてそこには、自分だけではなくおいしさを一緒に共有できる、家族がいて、仲間がいるということが大事なのだということに気づいていくことだろうと思います。

ひまわり

和歌山静子 作

福音館書店

 

ひまわりの 

ちいさなたねが とん

つちのなかの ちいさなたねが どんどこどん

どんどこ どんどこ

どんどこ どんどこ

どんどこ どんどこ 昼も夜も大きくなって

どん! とひまわりがさきました。


この絵本は、2001年に 「こどものとも年少版」として発行されました。
そして、2006年6月に福音館幼児絵本として発行された絵本です。
ひまわりという花は逞しくて元気でエネルギッシュで、「な・つ・!」という感じのする花です。
暑い夏に、そのメラメラとした太陽に向かって花を咲かせ、太陽の光を追って首をまわしてはそのエネルギーと光を体全体に受け留めて大きな大きな鮮やかな黄色の花を頂に咲かせます。
周りを圧倒して見事にさくひまわり。
そんな ひまわり の どんどこ どんどこ 大きくなっていく過程をそのまま絵本にしたのがこの「ひまわり」です。
文章もシンプルで1ページごとに「どんどこ どんどこ」が繰り返されていて
それが、ひまわりの逞しく大きくなっていく様子をダイナミックに感じさせてくれます。
小さい人はこの音のリズムと響きだけでもおもしろがって聴くことでしょう。
1ページごとに変化していく画、快い繰り返し、そして、最後には大きな満足と達成感。
絵本のおもしろさをそのまま体現しているような絵本です。

カマキリくん

タダ サトシ

こぐま社

 

虫が大好きなこんちゃんはいつもいろいろな虫と遊びたいと思っていました。

今日も虫捜しに出かけます。

オニヤンマにトノサマバッタ、みんな逃げられてしまいました。

でも、カマキリだけは逃げずに、こんちゃんに向かって挑みかかってきました。

それでもこんちゃんは、カマキリと遊んでみたいとそっと手を出すとかまきりはその手にのぼってきました。

こんちゃんは家に連れてかえることにしました。

そして、お家でカマキリといっぱいいっぱい遊びました。

でもそのうち、カマキリは元気がなくなってきました。

疲れちゃったのかな。

こんちゃんは、ぐったりしたカマキリを、バッタたちのいるケースに入れて休ませることにしました。

ところが、朝、こんちゃんがケースをのぞくと、元気いっぱいのカマキリの他はだれも見えません。

「うぁーん うぁーん。どうして?どうして仲間を食べちゃったの?

そんなの ひどいよー」

こんちゃんは初めて、カマキリが生きた虫を食べることを知ったのです。

そして、「ぼく、きみのえさにするために生きた虫をとってくるなんてできないよ」と草むらにカマキリを連れていって放してあげたのです。

「カマキリくん また あそぼうね」

カマキリくんはこんちゃんに手をふってくれました。


子どもが生き物と真正面で出会った出来事が描かれている絵本です。
小さい子どもたちといつも一緒に生活していると、さまざまな場面で、生き物との付き合い方をどのように伝えていったらいいのかを突きつけられます。
特に、生命に関わることについては、自分自身の生き方や考え方、感性というようなものがそのまま問われているような気がしてドキドキしてしまいます。
でも多くの時に、子どもも大人自身もストンと胸に落ちるような納得のいく伝え方や助言ができないままにあやふやになってしまうような気がしています。
この絵本はこんちゃんとカマキリの出会いを通して、子どもが生き物に対して抱いている特別の思いや、生き物と共に創っていく世界、また、その生態の現実をショックと共に受け止めてそれぞれの一番ふさわしい世界にもどっていくという過程がエピソードとして描かれています。
子どもが実際に体験した、未知なる世界の扉を開いた瞬間とでもいったらいいでしょうか。
こんちゃんにとって、自然の世界って何て不思議で、何てすごいんだろうという深い感動と、真理探究の基となった事件だっただろうと思います。
虫や昆虫、小動物、また、木や草花といった生き物との出会いが活発になるこの時期に、子どもとゆっくり生活を共にしながら、自然の恵みや自然の営みの素晴らしさ、そして生命の尊さを体と心で感じていきたいと思います。

おおきなクマさんとちいさなヤマネくん あめのもりのおくりもの

ふくざわ ゆみこ さく

福音館書店

 

森に嵐がきています。

雷が嫌いなクマくんが、おうちのなかでふとんをかぶって震えていますと

元気な元気なヤマネくんがやってきました。

そして、なないろだに咲いたアジサイの花を見に行こうと誘うのです。

こんな雨のなかを?とクマくんが困っていると大きな雷の音!

クマくんはもうだめ。キャンセルです。

するとヤマネくんは「じゃあ ぼくがアジサイの花を持ってきてあげる」といったかと思うと、クマくんの止める声も聞こえないで外に飛び出していってしまいました。

心配でたまらないクマくん。

でも外に出たら雷がおちてくるかもしれない。

そんなクマくんの家に水が入り込んできました。

あわてて外に出て見ると、なないろ川があふれて洪水です。

川上の方から、木の枝が木の葉と一緒にアジサイの花が流れてきました。

ヤマネくんが危ない!

クマくんは雷の音が鳴り響くなか、なないろだにに向かってすごい勢いで駆けつけました。

すると「たすけてー」という叫び声、ヤマネくんの声です。

アジサイの花にヤマネくんがしがみついています。

クマくんが「今、助けにいくからね」と叫んだとたん、ヤマネくんはアジサイの茎が折れて、川の流れにのみこまれてしまいました。

クマくんは急いで川に飛び込むと、ヤマネくんを拾い上げました。

「ごめんね。アジサイの花をクマくんに見せてあげたかったんだ」

とヤマネくん。

「ありがとね」「ありがとね」

2人は顔を見合わせてほほえみました。


おおきなクマくんとちいさなヤマネくんシリーズの4冊目が出来上がりました。
この時期にぴったりの 季節感あふれる物語です。
おおきなクマくんとちいさなヤマネくんのお話も4冊目になると、もう他人ごととは思えず、なんだか身内のような親しさを感じてしまいます。
大きなダイナミックな絵は、大きいものと小さいもの、横と縦というふうにさまざまな視角から描かれて動きがありますし、ことばもその絵とお互いに邪魔しあうことなくスムーズに溶け合っています。
このシリーズの本はどれも、ことばが素直でなめらかなので、子どもたちに語る時にとても読みやすく、また、ことばが子どもたちのなかに入っていっているなと実感します。
今回の2人の対比も意表をついていてほほえましく、スピード感のある展開の最後はほのぼのとしたいつもの2人のあたたかさに落ち着いてホッと安心感と満足を与えてくれます。

パパとママのたからもの

サム・マグブラットニー ぶん

アニタ・ジェラーム え
小川仁央 訳

評論社

 

昔、三匹のこぐまがいました。
いちばんめのおにいちゃん。
にばんめのおねえちゃん。さんばんめのぼうや。
さんびきは同じ晩に生まれました。
三匹にはパパとママがいます。
ママは寝る時にいつも、「おやすみ、世界で一番かわいいこぐまたち」といってくれます。

でもある時、こぐまたちは不思議に思いました。
そこで「どうしてぼくたちが世界で一番かわいいってわかるの?」とママにききました。
するとママは「それはね、パパが、あなたたちが生まれた時に世界一かわいいこぐまたちだ、っていったからよ。」それをきいたこぐまたちはうっとりしてすっかり満足しました。

しばらくして、またこぐまたちはふと心配になりました。
パパにきいてみました。
「ぼくたちのなかで、パパはだれが一番好きなの?みんなが一番にはなれないもの」するとパパはこう答えたのです。
「なれるとも!」そして、おにいちゃんを抱き上げて「きみが生まれた時にママがこういったんだ。
こんなかわいいおにいちゃんぐまはみたことがない、ってね」おねえちゃんを抱きしめて「きみが生まれた時ママはね、こんなかわいいおねえちゃんぐまはみたことがない、ってね。」
そして、ぼうやをうでのなかに抱き取って、「ママはこんなかわいいぼうやぐまは見たことがない、っていったんだ。」
「大きくても小さくても同じに愛しているよ。そうさ、きみたちみんながパパとママのたからものなんだ!」

こうして、世界中で一番かわいいこぐまたちは、幸せいっぱい眠りにおちていきました。やっぱりうっとりする答えだったからです。


この絵本を読んでいると、あたたかくてやわらかいものに包まれていくような安らぎを感じさせられます。
子どもは大きくなっていくに従って、自分の存在について確信をもちたくなります。
だれかに 自分の存在をしっかり受け留めてもらいたくなります。そんな自我が育ってくると、それぞれが0ne 0f themではなくonly oneの自分でありたいと思いますし、人とのかかわりもI and Youでありたいと願うのです。
このこぐまたちは、ちょうどそんな育ちのステージにきたのでしょう。
特に、父親母親に自分がどれだけ愛されているか、ということは子どもの一番重大な関心事であり自分を形成していく時の大切な確信部分になります。
これからの大きくなっていく過程での根っこになるところです。
子どもは率直に親にききます。
どれだけ自分を愛しているのか、と。
しかし、その時、親はどんなふうに応えられるでしょうか。
本当は一番わかってもらいたいことなのに、なかなか子どもに具体性をもって見えないものを見えるように伝えていくことはむずかしいのではないでしょうか。
この親ぐまたちのように、子どもがうっとりとして満足して眠りにつけるような愛の伝え方はなかなかできません。「あっぱれ」といいたいくらい見事です。子どもに伝えるのがとても難しい「愛」というもの、でも子どもはそれを確信しないと自己認識ができていかないのです。
子どもはだれでも愛されたいと思っています。子どもは愛されるためにこの世に生まれてきたのですから。
この絵本を読んで、やさしい気持になれるとしたならば、それは自分もこうして受け留められ、愛されているのだという確信をもらえるからではないでしょうか。
そして、それは他の人を愛していきたいという希望につながるからではないでしょうか。

このよで いちばん はやいのは

ロバート・フローマン 原作

天野 祐吉 翻案

あべ弘士 絵

福音館書店

 

「はやい」って なんだろう。

ウサギははやいかな。

たしかにカメよりは はやい。

でもツバメよりは おそい。

「はやい」とか「おそい」っていうのは、なにかに くらべて いえることだね。

ということばで始まるこの絵本。

ページを繰るごとにいろいろな動物や人や鳥や魚と速さを比べていきます。

そして、人間はツバメやチータより遅いけれど、ツバメやチータよりも速く走る道具を作り出したということで、新幹線や自動車、ジェット機などを紹介しています。

そして、それらよりもっと速い「音」を、その「音」より速いものとして「地球の自転」を、それよりももっと速い人工衛星や宇宙船を、と話はどんどん進んでいきます。

そして、人間がつくれる最高の速さをもっているその人工衛星や宇宙船よりもっと速いものは、と展開していって「地球が太陽の周りをまわる速さ」、それより速いのは「光」なのだといっています。

そして、この宇宙のなかには光より速いものはないと考えられていると書いています。

けれども、その光より速いものが存在するのだと最後に作者は子どもたちに話しかけます。

さぁ、それは何でしょう。大人も考えてみましょう。

意外なもの、そして、人間にしか備わっていない素晴らしい宝物。

うちゅうの はてにある ほしにも

なんびゃくねんさきの みらいの くにへも

いなかの おじいちゃんや おばあちゃんのいえへも

いっしゅんのうちに いくことができる。

そう、このよで いちばん はやいのは

わたしたちの そうぞうりょくだ。

人間の想像力。

その無限にひろがる 想像力の海を、君だけがもっているこの海を何よりも大切にしようといってこの本は閉じられます。

物語絵本が、子どもの喜怒哀楽の情を耕すものであるのに対して、科学絵本というのは、

子どもの知識欲に訴えて理解されるものといえましょう。

科学とは子どもたちの生活のなかの身近かな真理に気づくことから芽生え、疑問や追求を深めるなかで事の真理や道理や秩序に気づいていきます。

そのために子どもにとって科学絵本はとても有効な手助けをしてくれます。

しかしただ単に知識欲を満たしたり、学習をさせるために科学絵本があるのではなく、その根っこには、人間に対する理解や愛、自然の偉大さ、人知を超えたところの不思議な力などに気づけるものがなければならないと思います。

この「このよでいちばんはやいのは」は、1968年に「もっとはやいのはスピードのはなし」として出版されたものを、今回、新しく翻案して発行されたものです。

前半の速さを比べる展開のなかではぐいぐいと子どもたちの知識欲と興味をひっぱっていきます。

画も子どもの想像力の入り込めるシンプルさと子どもにおもねない画風が効果的です。

そして、最後は、ちょっとむずかしい哲学的な話になります。

子どもには少し、難しいかもしれません。

しかし、機械万能、IT神話のなかにいる現代人にとって、ともすれば人の可能性が機械に劣っているように思ってしまう危険性を訴え、今こそ人間を信じ、未来を信じて歩いて言って欲しいという思いが伝わってきます。

子どもは、今はわからなくても、きっと自分のポケットにしまっておいてその時がきたら取り出してきっと分かっていくことでしょう。

ぞうくんのおおかぜさんぽ

なかのひろたか さく・え

福音館書店

 

おおかぜの日、ごきげんぞうくんは散歩にでかけます。

かばくんがころがってきました。

風がつよくてころがっちゃったのです。

ぞうくんが散歩に誘うと「押してくれるならいいよ」

ぞうくんがかばくんを押していくと、わにくんもころがってきましたよ。

みんなで大風のなかを散歩です。

ぞうくんがかばくんとわにくんを押して歩きます。

するとかめくんが「とめて、とめて」といいながらころがってきました。

どっこいしょ とうけとめた途端  みんな

ごろん ごろん ごろん   どっぼーん と池のなかにおっこちちゃった。

池の中はごきげん、みんなごきげん。

そとは大風。


こどもたちが大好きなぞうくんのおさんぽの第3弾です。
月刊こどものともの4月号がこのお話です。
作者の なかのひろたかさんは、最初の「ぞうくんのさんぽ」を、こどものとも147号として、1968年に発表しました。
そのデザイン性ときれいな色使い、そして、絵本の手本としてのお話のシンプル性とその運びはたくさんのこどもたちに支持されてロングセラーとなりました。
それから36年後の2004年、こどものとも第577号で、第2弾「ぞうくんのあめふりさんぽ」を発表、そして、この2006年に「ぞうくんのおおかぜさんぽ」を描きました。
1冊目と2冊目の間が36年の歳月を隔てたにもかかわらず、2冊目と3冊目はわずか2年の間隔で出版されています。何か意味ありげ。
ファンにはうれしいことですが、このあたりの事情をぜひうかがってみたいものです。
それはともかく、ぞうくんは今日もご機嫌。
このぞうくんの完璧ともいうべき容姿の美しさ、一目みただけでぞうくんの性格や声まで想像できちゃいます。
そして、次々に現れる動物たちの色と形のバランス、素敵ですね。
話は単純で、親亀の背中に小亀が乗って、というあれと同じです。
最後に一番小さい亀の登場でいつも話が大転回。
本当に繰り返しと進行が小気味よく展開します。
第1弾の「ぞうくんのさんぽ」は、そのまま ”親亀の背中”でだんだんに小さい動物が縦線になって話が展開しますが、それが「あめふりさんぽ」では逆転します。
そして、今回の「おおかぜさんぽ」では横並びの線になるという裏技も見逃せません。
ぞうぞ、ではなかった「どうぞ」お楽しみください。

おしゃべりなたまごやき

寺村輝夫 作

長新太 画

福音館書店

 

ある国のとても退屈な王さまのおはなし。たくさんの家来に囲まれ、何不自由ない王さま。
でも、しゃべることもみんな家来にしゃべってもらい、毎日の時間割どうりにお勉強をして、少しの休み時間があるだけというなんと退屈な生活。

ある日、その休み時間に王さまは庭に出て、おしろのまわりを一回りすることにしました。
たったた、とっとと、走っていくと、ニワトリ小屋がありました。
中には、ニワトリがぎゅうぎゅうづめになって、こけっこ けっけと鳴いていました。
王さまはニワトリたちがかわいそうになって、戸にささったままになっている鍵をがちゃりとまわしました。
すると、ぎゅうづめになっていたニワトリたちが戸をはじくようにして飛び出してきました。
それを見つけた家来たちは、王さまがニワトリに追いかけられていると大騒ぎ。
そして、たくさんの兵隊が出動して、半分は王さまの救助、あとの半分はニワトリ小屋の鍵をあけた犯人を捜すことになりました。

救助された王さまは、やっと自分の部屋にもどりましたが、手には鍵が!
王さまはあわてて窓から鍵を放り投げました。
すると、部屋の隅にごそごそとだれかがいます。
それは王さまを追いかけてきためんどりでした。

王さまはめんどりをつかまえると
「ぼくが、とりごやを、あけたのを、だれにも、いうなよ。だまっていろ。」
といいきかせました。

外では家来たちが犯人捜しにおおわらわ。
でもなかなか鍵をあけた犯人は見つかりません。
とうとう捜していないのは王さまの部屋だけになりました。
隊長は王さまの部屋のベッドのしたから戸棚の中まで調べました。
「あっ」。
そこにいたのは、めんどり でした。
隊長はめんどりを連れて出ていきました。
でもそのめんどりのいたあとに、卵がひとつ落ちていたのです。
王さまはあとでこっそり食べようと引き出しにしまいました。

さて、夕方。

大臣がやって来て、さっきの騒動の中でならしたピストルの音にびっくりして
ニワトリたちが卵を産まなくなってしまったこと、
したがって追うさまの今夜のメニューのめだまやきできなくなったこと、
そして、コックは申し訳ないと牢屋に入ってしまったことをすまなそうにいいました。

王さまは話をきいて「卵があればコックは牢屋から出られるのだな?」と、
卵を引き出しから出すと大臣に渡しました。

王さまのばんごはんのラッパがなりました。
今夜のおかずはたったひとつのめだま焼き。
王さまはナイフでめだまやきの真ん中をぷつり。
すると不思議。

?ぼくがとりごやをあけたのを?

と王さまの声がしてきたのです。
もう一度ナイフを入れると

だれにもいうなよ

王さまが顔を真っ赤にしてぺろっとひとのみにすると

だまっていろっ

そのことばをコックさんが聞き逃すはずがありません。
王さまとコックさんは顔を見合わせて笑いました。


この「おしゃべりなたまごやき」は、1959年に「こどものとも35号」として発行された絵本です。
それから1972年には、ハードカバーの現在の絵本になりました。
お話の展開や構成そのものは変わりませんが、長さんの画が一新し、ページ数もふえておはなしの展開描写や王さまの人物像が丁寧に、そして、詳しくなって、更に楽しく魅力的になっています。
画を描いた長新太さんにとっては最初の「おしゃべりなたまごやき」が2作目の絵本でしたが、これで文芸春秋漫画賞を受賞し、新装なった現在の本では国際アンデルセン賞国内賞を受賞しています。
この長い間、子どもたちにとってもまた、大人たちにとつても「おもしろい」ということがどういうことかを伝え続けてくれています。
1959年当時にこんなにおもしろく、また、夢のある絵本が作られたということを考えますと、そのころの福音館書店の「子どもにほんものの絵本を」という意気込みが伝わってくるように思います。
今年でこどものとも出版50年を迎え、600冊の絵本を子どもたちに届け続けたこともまた、大変なことであると思います。
そんな中でも秀逸の一冊、この「おしゃべりなたまごやき」のそこに描かれたユーモアとおかしさ、やさしさ、ほのぼのとした気品などは今に至るまで色あせることなく子どもたちにたくさんのものを与えてきました。
長さんは故人となられましたが、彼に育てられた世代を超えたたくさんの子どもたちはいつまでもその世界に遊び楽しむことでしょう。

ねずみのおよめさん

日本の昔話 小野 かおる 再話/画

福音館書店

 

昔のお話。
あるところにねずみのおとうさんとおかあさんに大事に育てられた、きりょうよしのねずみのむすめがいました。
ねずみの夫婦は、むすめのお婿さんには世界一えらい方になってもらおうと考えました。そして、世界中を照らしているお日様が一番偉い方だと思って娘を連れお日様に頼みにでかけて行きました。
するとお日様は、「わたしより雲さんの方が偉い。だってわたしをすっぽり隠してしまうもの。」と答えました。
それではと雲さんのところに出かけて婿さんになってくれと頼むと、雲さんは残念そうに「風さんはもっと偉い、わしらを吹き飛ばしてしまうよ。」と答えました。
今度は風さんのところに行くと、「世界で一番偉いのはわたしではなくて壁さん」と言われます。
そこで壁さんに頼みに行くと、壁さんは「わしらはねずみさんにかじられては穴だらけになってしまう。世界で一番偉いのは、ねずみさん、あなたたちですよ。」といいました。
ねずみの夫婦は「世界で一番偉いのはねずみだったのか。」と大喜び。
そこでねずみの娘は隣町の若者ねずみのところにお嫁入りをしましたって。


このお話はきっとお父様やお母様のだれもがきいたことのある昔話だと思います。
シンプルでいて、奇想天外のストーリー。スケールの大きさも子どもたちの想像の世界を広げます。
そして、主人公は小さなねずみたち。
本当に昔話は柔軟な空想力で構成され、縦横無尽に展開します。
似たような昔話は他にも「世界一の話」などもあり、世の中の奥義をユーモアをこめて語り伝えています。
このねずみが尋ねた世界一偉い方は実は自分たちねずみだったというお話の展開は、いろいろな意味を含んだ教訓話にもなります。
それはさておき、このお話はたくさんの絵本となって出版され、多少のニュアンスの違いもありますが今回紹介いたしました「ねずみのおよめさん」は、1988年1月1日に「こどものとも年中向き」として発刊された月刊誌でした。
それがこのたび、2006年1月1日に18年ぶりに「こどものとも年中向き」として再発刊されたといういわくつきの絵本です。
小野かおるさんの画の素朴さとモダンさ、色使いの美しさは子どもの心にきっと残りつづけることでしょう。かつて読んでもらった子どもたちがそうであったように。
また、語り口のやわらかさ、やさしさは本当に子どもにそのまま話しかけているようです。
お正月、こどもをひざに入れて読んであげたら、きっと気持ちよい幸せな時空が広がっていくことでしょう。
福音館書店から他にハードブックで「ねずみのよめいり」(岩崎 京子・文、二俣 英五郎・画)が出版されています。

さむがりやのサンタ


レイモンド・ブリッグズ 作・絵

すがわら ひろくに 訳

福音館書店

 

アドベントに入った日でした。
年長組のMさんと話している時、「クリスマスの絵本で一番好きなのはどれ?」とききますと、すかさず「さむがりやのサンタ」と答えました。
「本当にそうね、私も大好き」というと、「あれ、おもしろいよね」とMさん。
そして、思わず顔を合わせてにやっと笑ってしまいました。
そうなんです。大人も子どももとっても楽しい絵本なのです。
サンタクロースというのはだれでも知っていますが、いざその実態はといいますとなかなか想像がつきません。
この本は、あったかい南の島でのんびりとしていたいさむがりやのサンタが、クリスマスイブの夜、お弁当を持ってトナカイのそりにのりクリスマスプレゼントを子どもたちに渡しにでかけるお話です。
サンタは遠い国までそりを走らせ、苦手な煙突をいくつもくぐり、階段をいくつものぼっておりて、一晩中こどもの家をたずねます。
ようやくプレゼントを届け終わり、やっと家にもどったサンタは、お風呂に入り、ご馳走を作り、ビールを飲んでゆっくりします。
そして、1人でゆっくりとクリスマスのお祝いをするのです。
この楽しい絵本を紹介するのに時間がかかったのは、この絵本がコマ毎に場面がどんどん変わっていって、「読んであげる」のには少しむずかしいかなと思っていたからです。
しかし、Mさんがいうように、本当におもしろくて楽しくて、一度読んだら忘れられない本として、たくさんの子どもたちに(かつての子どもたちにも)支持されています。
絵の楽しさ、色の鮮やかさも印象にいつまでも残ります。
そして、何よりもサンタさんが、隣のおじいさんのように飲んだり、食べたり、お風呂に入ったり、愚痴をいったりするごく身近かに生活している人として描かれていて、それを読者は眼差しで見るだけですべてわかってしまうというところがこの本の魅力であり、子どものサンタさんへの夢がより膨らんでいくという大きなおまけがあるように思います。
子どもがサンタさんなんかいないと思うか、サンタさんはきっといるという思いを持ち続けるかはその子の人生を左右するような出来事だと思います。
目には見えないものを信じるということ、そして、きっと誰かが自分のことを見ていてふさわしい贈り物を持って来てくれると確信できることは、これからの人生のなかで自分を大切にし、人を信頼し、よいものを創り出す基となるでしょう。
そして、いつか、自分もサンタさんになることのできる人になるでしょう。

くっついた

三浦太郎 作・絵

こぐま社

 

今月はこぐま社の新刊絵本「くっついた」をご紹介いたします。
この本の作者は三浦太郎さんですが、0歳のわが子との触れ合いの中で作った絵本だということです。
三浦さんはスイスやイタリアなどではすでに2冊の絵本を出版して高い評価を得ていますが日本ではこの「くっついた」がはじめての絵本になります。
ことばも絵もシンプルで色が美しく、本当に小さい人から楽しめる絵本です。
ことばをみんな紹介してもそんなに多くはありません。


 きんぎょさんと / きんぎょさんが / くっついた

 あひるさんと / あひるさんが / くっついた

 ぞうさんと / ぞうさんが / くっついた

 おさるさんと / おさるさんが / くっついた

 おかあさんと / わたしが / くっついた

 おとうさんも くっついた


という「くっついた」ということばの繰り返しが続きます。
子どもたちはこのリズムが心地よくてすぐに覚えてしまいます。
そして、おかあさんとわたしがほっぺとほっぺをくっつけている場面になると必ずニコッとします。
さいごはおとうさんもほっぺをくっつけて、まんなかにいる「わたし」はほんとうにうれしそう。
こどもが自然に幸せになっていく、幸せを確信することができる、そんな絵本です。
赤ちゃん絵本ではありますが、子どもたちはこの絵本が大好きです。
大人もきっと最後は幸せな笑顔で読み終わること、請け合いです。

おだんごぱん

ロシアの民話・せた ていじ 訳

わきた かず 絵

福音館書店

 

昔むかしのお話です。
おじいさんが何かおいしいものを食べたいといいました。
おばあさんは、粉箱をごしごしかいて粉を集め、クリームを混ぜておだんごに丸めバターをぬってかまどで焼きました。
焼けたおだんごぱんは窓のところで冷やされているうちに、ころころところがっておもての通りに出ていきました。
おだんごぱんはのはらでうさぎに会いました。
うさぎは、「おだんごさん、おだんごさん。おまえをぱくっとたべてあげよう」といいました。するとおだんごぱんは、歌をうたいました。
「ぼくは天下のおだんごぱん。ぼくは粉箱ごしごしかいて、集めてとってそれにクリームたっぷり混ぜて、バターで焼いて、それから窓でひやされた。けれどもぼくはおじいさんからも、おばあさんからも、逃げ出したのさ。おまえなんかにつかまるかい」
おだんごぱんはこう歌うと、ころころころがってうさぎから逃げていきました。
こんどはおおかみに会いました。
おだんごぱんは、また、歌をうたって、食べようとしたおおかみから逃げていきました。
そして、ころがっていくとこんどはくまに会いました。
くまもおだんごぱんを食べようと呼びかけましたが、またまた、歌をうたって逃げ出しました。
またころころところがっていきますと、きつねにあいました。
きつねは、おだんごぱんをほめちぎりました。うれしくなったおだんごぱんはまた歌をうたいましたが、きつねは、「ああ、素晴らしい歌だ。どうかもういっぺん歌ってくださいな。
さぁこんどは鼻の上で。」
おだんごぱんは飛び上がってきつねの鼻の上で歌をうたいました。
「ありがとう。こんどはもっときこえるようにわたしのしたべろの上でうたって」といわれたおだんごぱんはきつねのしたべろに飛び上がった途端、きつねはたちまち口を閉じ、おだんごぱんをぱくっと、食べてしまいましたとさ。

このお話はロシア民話として古くからおなじみのお話です。
昔話といいますのは、語りが主ですので、繰り返しの音のおもしろさや、リズム、早い展開などが小気味よく体に刻まれて、幼いときに聴いたその語りが大人になってもはっきりと記憶に残り、その時に感じた感情までも思い出すことができます。
この絵本はその昔話を、瀬田貞二さんが見事な文章で語ってくれています。
一度聴いたら、すぐに暗記をしてしまうようなリズムをもっています。
このおだんごぱんの話の展開はおだんごぱんがころころと転がるそのテンポにあわせるようにどんどん場面がころがっていって、最後はあっけなくきつねに食べられてしまうという顛末になります。
その展開はスリルに満ちていて、特に、きつねがだんだんにおだんごぱんを口に近づけていくくだりでは本当に身が縮まるような思いになります。
どんなに幼い時からでも、そして、いくつになっても新しい感動を与えてくれる絵本です。
古くて新しい絵本、名作だと思います。

しろいうさぎとくろいうさぎ

ガース・ウイリアムズ ぶん、え/まつおかきょうこ やく

福音館書店

 

しろいうさぎとくろいうさぎ、二匹の小さなうさぎが、広い森のなかにすんでいました。

二匹は一日中いつも一緒に遊びました。

うまとび、かくれんぼ、どんぐりさがし、それにくろいちごのしげみの周りでぐるぐるかけっこもしました。のどがかわくと、泉までぴょんぴょんかけおりていってきれいな冷たい水を飲みました。

でも、この頃、楽しい時なのに、くろいうさぎは急にすわりこんで悲しい顔になるのです。

しろいうさぎが心配して「どうしたの?」ときくと、くろいうさぎは決まって「うん、ぼく、ちょっと考えてたんだ。」と応えるのです。

二匹はそのあとも,ひなぎく跳びをしました。クローバーくぐりもしました。

そして、おなかがすいたのでたんぽぽをたくさん食べました。

しばらくするとしろいうさぎは、また、悲しそうな顔をして座り込んでしまいました。

「さっきから何をそんなに考えているの?」としろいうさぎがきくと、「ぼく、願いごとをしているんだよ。」といいました。

「願いごとって?」

「いつも いつも、いつまでも、きみと一緒にいられますようにってさ」くろいうさぎはこたえました。

しろいうさぎは目をまんまるくしてじっと考えました。そして、

「ねえ、そのこと、もっと一生懸命願ってごらんなさいよ。」といいました。

くろいうさぎも、目をまんまるくして、一生懸命考えました。

そして、心をこめていいました。

「これからさき、いつも君といっしょにいられますように!」


二匹のうさぎはたんぽぽの花をつんで耳にさし、結婚式をしました。

森のちいさなうさぎたちやほかの動物たちがお祝いにやってきて、2匹のうさぎをかこみ、明るい月の光のなかで一晩中輪になってダンスをしました。


❋この絵本は1965年に初刷りが出されてから今日に至るまで、何回も刷りを重ね、世代を問わずたくさんの方達に読まれている絵本です。
ガース・ウイリアムズさんの柔らか味のあるうさぎや動物たちの写実的描写と、内面の心の動きを見事に描いている絵のかわいらしさ、美しさ。
また、その森やうさぎの動きが紙面の制約をなくして永遠にイメージが広がっていくような表現力の素晴らしさ。
そして、簡潔な繰り返しのことばは訳者の感性と情感豊かな表現力によって実に臨場感に富んだ世界を創り出しています。
また、この二匹の仲良しのうさぎがやがて結婚をするという、とてもロマンチックなストーリーも、たくさんの読者の支持を受けている要因でしょう。
しかし、私は、もうひとつのメッセージを読み取るのです。
1965年にこの絵本が福音館書店で出版された頃、世の中は学生運動・社会運動の真っ只中でした。
すべての既成のものに対する問い直しや、それらを崩壊して新しい概念を創りだそうとするエネルギーがあらゆるところで噴出しているような時代でありました。
どんな立場の人も「お前はどうなんだ」と突きつけられるような風潮の中、若い人たちは生きる意味を運動に見出して熱中していました。
そんな「これから新宿のデモに行く」という人が、その小脇に抱えていたのがこの「しろいうさぎとくろいうさぎ」でした。
過激な闘争のなかでは、逆にこんなに心が癒される絵本を愛読するのかとも受け留められたかもしれませんが、実はこの絵本は、人種差別をなくそうという作者の思い入れを描いた絵本であり、その意味で社会改革を目指す人々にとってはテキストのようなものであったのです。
現在の世の中は、あちこちでテロや内戦が続き、人々が暴力と差別と恐怖のなかであえいでいます。
そんな世界をどうしたら救えるのか。
この絵本の中で、しろいうさぎとずっと一緒にいたいという願いをずっともっていたくろいうさぎに対して、「ねえ、そのこと、もっと一生懸命ねがってごらんなさいよ」としろいうさぎがいいます。
この、自分の正直な願い、平和が欲しい、人を愛したい、一緒に共感したいというような思いをずっと持ち続けること、それが成就するように願い続けることが私たちにできる平和への歩みなのだよというふうにメッセージとしてきこえてきます。
敗戦後60年の今年、だんだん実際にあった戦争は風化され、歴史の中の出来事のようになっていってしまうという危機感はありますが、ただ戦争をしないことだけが平和ではなく、日々の生活のなかで互いの存在をうれしく受け入れていくという極めて原初的な平和社会が今、存在しているのかを今一度立ち止まって現実と向かい合い、本当の平和を創り出すために、ごく身近なところから願いをもち続け、やがてそれが大きな輪となっていかれるようにしたいと思うのです。

むぎばたけ

アリスン・アトリー


矢川 澄子 訳

片山 健 絵

 

福音館書店

 

あたたかい、かぐわしい夏のゆうべのお話です。
さわやかな夜風をせなかの針にうけながら、ハリネズミが1ぴき、野道をぶらぶらやってきました。
ひるまはずっと、シダやコケにかくれて眠っているハリネズミも、夜ともなるとばっちりと目をさまして月夜の冒険にくりだすのです。
ハリネズミは、けたたましい車の通る道を避けて、でこぼこのせまい小道や青草のなかの細道をうきうきと進んで行くと、木戸のところでノウサギのジャックじいさんにであいました。
「ハリ公、あんたどこへいく?」
「ちょっと、あっちの畑まで。ムギののびるところを見たいんでね」とハリネズミがいうと「わしもつきあうよ。せいぜいムギののびるとこぐらい見とかなくちゃな」と二匹はならんで歩き出しました。
空のランプが明るい晩です。
二匹が小川を渡ると、水際にカワネズミが一匹、暗い流れに足を浸していました。
そして、カワネズミも一緒にムギの穂ののびるところを見にいくことになりました。
ハリネズミは鼻歌まじり、ノウサギは前後左右に目を配りながら、そして、カワネズミは小さな鼻を突き出して、三匹は連れ立ってゆきました。
三匹はしっとりとつゆのおりた草地を抜け、真珠のようなしずくでのどをうるおしました。
小高い丘にゆきついて、みんなは足をとめました。
目の前には輝くコムギばたけが広がっています。
それは、見えない手になでられてでもいるように、かすかにそよいでいました。
夜の静けさをついて、そのおびただしいムギの穂のさやさやという美しい音楽がこちらにまで伝わってきました。
夜風に揺れて穂と穂がこすれ合うその音はさながら海の響きでした。幾千万の声の、ひそひそとささやき合うおしゃべりでした。
三匹は座り込み、息をのんで、さやさやたえまないムギの穂の合唱に聞き入ったのでした。
「ムギって、のびて、実って、取り入れの時をまつ、ムギって生きているんだね。ぼくたちみたいに」ハリネズミがいいました。
それから、3びきはそれぞれ戻っていきました。ムギの穂のささやきを思い出しながら。


今月ご紹介する「むぎばたけ」は、実に美しい詩集をたぐっているようでもあり、また、人生の哲学書をよんでいるようでもある奥深い一冊の絵本です。
イギリスの夏の風が、また、夜空に輝く星の輝きが、静かな自然の佇まいが、草花や川の流れの香りや音が、そして、ちいさな動物たちの息遣いまでもが、その文章のひとつひとつから甦ってくるように感じられます。
偉大な自然のなかの小さな生き物が、ささやかなムギののびる音に生のよろこびや目的を見出だし,聴き入り、自分のささやかな生活のなかの喜びや生きる希望に重ねていく。
そのすばらしい感覚的なメッセージが、ありのままの自然という大きさと小さな命という対比で構成され、人生の賛歌、神様への畏敬へとつながっていくように思います。
物語りの中で登場するすごいスピードで走り抜けていく自動車や、月夜には飛び跳ねたくなって見る間に姿が見えなくなる若いウサギに置き換えられている現代社会の中にいる私たちには、この自然の静けさ、命の声はきこえないかもしれません。
しかし、本当に見なければならないもの、聴かなければならないものは、こんなささやかな、ちょっと日常生活をゆっくりめにした時に見え、聴こえてくる「ムギののびる音」なのかもしれません。
心と体を鎮めて、自分の周りにある「ムギの伸びる音」に耳を傾け、美しい自然に目をとめて、生きていきたいと思います。
日本語訳も、素晴らしく、ひとつひとつのことばが重さとやさしさをもって、リズムよく語られています。
また、その語りとぴったりの呼吸で絵が語られています。
大人にも子どもにも気持がゆったりとする絵本です。

いちごつみ

神沢 利子 ぶん

平山 英三 え

童心社

 

小さな女の子が、山に苺摘みにいきました。
おかあさんにジャムを作ってもらうのです。
夢中で苺を摘んでいると、後ろから誰かがやってきました。
女の子はともだちのさぶちゃんかと思いました。
でもどんなに話しかけても返事がありません。
「ウーフ、ウーフ」というだけです。まるでくまみたいに。
女の子は葉っぱのかげにあった立派な苺を摘んで、さぶちゃんに渡そうとして振り向くと、そこにはさぶちゃんではなくて、大きなくまがいたのです。
「あら、さぶちゃんでなくたっていいわ。この苺食べてごらんなさい。」といって苺を渡そうとしてびっくり。だってくまの手の大きいことといったら。
そこで女の子は思いつきました。こんなに大きな力持ちの手だったら、風でこわれたお家の屋根をきっと直してくれるに違いないとね。
くまもok!
女の子はくまのふかふかした背中に乗って、山をかけおります。
お家につくと、くまは早速仕事にかかりました。
屋根を持ち上げ、折れた柱を引っこ抜き、新しい柱を立てました。
そして、もう一度、屋根をおくと出来上がり。
おかあさんも女の子も大喜びでくまにごちそうをしました。
そして、女の子の赤い帽子とおかあさんのエプロンをプレゼントしました。
「また、きてね。」
大きなくまはうれしそうに山に帰っていきました。


このおはなしは、不思議な幸福感に満たされて読み終わります。
それは、お話の全体を包むやさしさのなかに、神様がお創りくださった被造物として何のわけへだてのない同じ仲間として自然や生物を見る作者の視線を感じるからなのかもしれません。
子どもはもともと、大人が持っている枠組みにはとらわれない自由な感覚をもっています。
くまはこわいという概念もないし、人間のお友達のさぶちゃんと同じ感覚で他の生物をみることができます。
ことばが通じなくっても、丸ごと受け入れていく大きさ、ゆるさ、が備わっています。
 近年、山のくまが、人間の住む里によく出没してきて、食べ物を荒らしたり、人に危害を加えたり、あるいは山に山菜を採りに入った人を襲ったりという被害が増えてきました。
人間は自分たちの社会や生活、生命を守らなければならないと必死になってくまを排除しようとします。山のくまたちも自然の変化のなかで生命にかかわるさまざまな事情が緊急を要していて、人間の領域にでてこざるを得ないのでしょう。そして、その事情の多くは、人間の都合によって、生活の場を犯されていることが起因しています。
くまが人間を襲ったために、捕獲されたり、射殺されたりするニュースを見たり聞いたりするたびに、この絵本のお話を思い起こします。
このお話のなかで、女の子が「でも、このやまのくまは、とてもやさしいくまだって、おかあさんが いってたわ。」というくだりがあります。
また、女の子がくまをお家につれていった時、それを自然に受け入れていたおかあさんの姿が描かれています。
この女の子の心の自由さはこのおかあさんからの贈り物に違いありません。
今、山の動物たちと仲良くしなさいといえるような環境や状態ではありませんが、この絵本のお話のような世界が現実化したらどんなに楽しいだろうと思ってしまうのです。
少なくとも、心にさまざまな既成概念という名の垣根を張り巡らせて、他者を受け入れず、自分もそこから一歩も外に出て行こうとしないような子どもには育てたくないと思います。

三びきのこぶた

イギリス昔話

瀬田貞二 訳

山田三郎 画

福音館書店

 

昔、おかあさんぶたと三匹のこぶたがいました。

おかあさんぶたはとても貧乏でこぶたを育てきれなくなって、自分で暮らしていくように三匹をそとにだしました。

まず、自分で家を造らなければなりません。

はじめにでかけたこぶたは、わらたばをかついでいる人に出会ってそのわらをもらい、家を建てました。

そこにやってきたのがおおかみです。

おおかみは、わらの家を ふうっとふきとばして、こぶたを食べてしまいました。

次のこぶたは木の枝で家を建てました。

ところがそこにもおおかみはやってきて、ふうっと枝の家をふきとばすと、こぶたを食べてしまったのです。

三番目のこぶたは、れんがをもらって家を建てました。

またまたおおかみがやってきて、家をふきとばそうとしましたが、どんなに力んでも家はびくともしません。

おおかみは、こぶたを家の外に連れ出すために、いろいろな知恵をつかいます。

「ごんべさんの裏の畑のかぶを一緒にとりにいこうよ。」とか、「公園のりんごをとりにいこう。」「町でおまつりがあるから一緒にいこうよ」とか誘いますが、そのたびにこぶたに先をこされておおかみはてんてこ舞いさせられます。

すっかり怒ったおおかみは、もう勘弁しないぞと、家のえんとつから降りていってこぶたを食べてしまおうとします。ところがこぶたは大なべにいっぱい水を入れて、下からぼうぼうと火をたきつけました。

そして、おおかみが降りてきたちょうどその時、なべのふたをとったので、おおかみはどぼんとおちました。

こぶたはふたをしてことこと煮て、ばんごはんに食べてしまいましたとさ。


このお話はみなさんよくご存知で、改めてあらすじを紹介することもないくらいです。

おかあさんぶたに自立を促されて、外にでたこぶたが、さまざまな危機や困難を乗り越えて勇猛果敢にたくましく成長していくお話です。

よく三匹のこぶたの中で、わらで家を建てたこぶたはめんどうくさがりの怠け者、小枝で家を建てたこぶたはまぬけの知恵足らず、一番最後のれんがの家を建てたこぶたが一番かしこくて、主人公、というように考えてしまいがちですが、子どもたちとこの「三びきのこぶた」を劇風にやってみると、年少・中くらいの子どもたちは、自分のやりたい役を決める時に、一番目のこぶたも二番目のこぶたも大好きでその役をやりたいといいます。もちろん三番目のこぶたは出番がたくさんあるので一番人気ではありますが。

子どもはどのこぶたにも愛着をもって、自然に受け入れてしまいます。

そんな子どもたちの様子や、話の展開をよく考えてみると、この三匹は、一匹の、というより一人の子ども、あるいは人間の 自立していく過程をあらわしているのではないかと考えると妙に納得してしまいます

こぶたがおおかみという敵に対して、その対処の仕方がだんだん知恵深くなっていく様は子どもが自立をしていく段階でさまざまなトラブルや課題や誘惑にあいながらも、経験を積み重ね、工夫を覚え、勇気と自信をもってひとつひとつを解決していく姿に重なります。

最初は弱々しいわらの家しか造れなくて、すぐに押しつぶされてしまったこぶたが、次はもうちょっと頑丈な小枝の家を造る。それでも大きなトラブルにあうとひとたまりもなくやられてしまう。そして、そんな経験を土台にしてレンガの家を営々と造る。すると、外界からの敵から自分の身を守ることができるようになる。それでも、危機はやってくる。

それに対して、自立しはじめたこぶたは、精一杯の知恵と行動をもって立ち向かっていくのである。という解釈は独断と偏見でしょうか。

しかし、最後におおかみを煮て食べてしまうというくだりには、自分の体験したすべてのことや、乗り越えた高い壁をみんな自分の中に取り込んでしまうことによって人は大きく成長していくのだというメッセージがあるように感じられるのです。

よく、おおかみとこぶたが仲良くなって一緒に楽しく暮らすというようなストーリーに変えてしまった絵本がありますが、それではこのメッセージには届かないように思います。

最後にこぶたはおおかみを食っちまうのです!。

4月、お子さんを幼稚園という「初めての外」に出されたお母様方、子どもはそこで勇敢に闘いながら、自分の居場所を確保し、知恵を増し、経験をたくさん取り込んで、たくましく成長していきますよ。どうぞ応援をしていてください。

めざめのもりのいちだいじ

ふくざわ ゆみこ さく

福音館書店

 

冬の間、ずっと眠っていたヤマネくんが目をさましました。

春だ!春のにおいだ!とゆきどけの森をかけまわっていると、雑木林のはずれの崖からブーン、ブブーンとにぎやかな音がきこえてきました。

それはミツバチさんのならす羽の音。何かあわてているようです。

だって、雪解けの水で崖が崩れ始めてそこの枯れ木に作ったミツバチさんの家が傾いて今にも崖の下に落ちそうなんですもの。巣の中には大切な卵や赤ちゃんもいるのです。

ヤマネくんは、「クマくんだったら何とかしてもらえるぞ」と森一番の力持ちのクマくんのところにかけつけました。

でも、クマくんはまだぐっすり眠っています。

どうしたって起きてくれません。

クマくんに起きてもらうには、何か春の印を持ってくるしかなさそうです。

ヤマネくんは、急いで春を捜しに飛び出しました。

雪の割れ目に雪解け水が流れる川が見えます。

丘にはふきのとうのいいにおいがしていました。

でもどちらもクマくんのところにはもっていかれません。

川を下って池に来ると、カエルくんがいました。

「ヤマネくん、みんなそろってどうしたの?」その言葉にびっくりして振り向くと、岩陰からモグラくんに,トンビくん、ウサギさんにアナグマくん、そしてキツネさんが顔を出しました。

忙しそうに走りまわっているヤマネくんのあとを「どうしたんだろう」とそっとついてきていたのでした。

これだけ集まれば何とかなるかもしれないと、ヤマネくんはみんなを連れて

崖の上に急ぎました。

つたのロープでミツバチさんの家をひっぱります。

ところが枯れ木の家はびくともしません。

やっぱりクマくんに登場してもらわなくてはならないようです。

みんなでクマくんを呼んでおこします。

「ミツバチさんが大変!クマくん起きて!ミツバチさんが、ミツバチ,ミツ…」

「八チミツ?ハチミツがたくさんだって?」クマくんがむっくり起き上がりました。

「ハチミツじゃなくてミツバチさんのおうちが大変なの。」

「ミツバチさんの家がこわれたらハチミツをたべられなくなっちゃう」とクマくんはいちもくさんに崖の上に走ります。

そして、軽々とミツバチさんの家を持ち上げると、ミツバチさんが案内する雪野原に穴を掘って枯れ木のお家を立てました。

やがて、すこしずつ暖かくなって雪が解けると、そこは、当たり一面、れんげの花畑になったのです。

ミツバチさんは森のみんなにれんげから集めたおいしいハチミツをプレゼントしました。

クマくんもヤマネくんも「春の味だね」といいながらおいしそうに食べたんですって。

 


2005年1月に発行された おおきなクマくんとちいさなヤマネくん のシリーズ3作目です。
今回も、ダイナミックな絵と動物たちのやさしさがたっぷり詰まったことばであたたかい世界を描いてくれています。
森に春がやってくる、という うきうきするような思いを、ことばや絵を通して音をきかせ、香りを漂わせ、日の光の明るさを感じさせながら膨らませていきます。
そして、今回も「わぁ!」という展開も用意されている楽しいうれしい絵本です。

ねぼすけスーザのおかいもの

広野多珂子 作

福音館書店

 

スーザとマリアおばさんは、オリーブ畑に囲まれた小さな村に住んでいます。
いつもねぼすけのスーザ。
おばさんにフライパンを10回たたかれなければ目がさめないのですが、今日はちょっとちがいます。

おばさんが起きる前に一人でおきて、ロバに乗ると、遠い町を目指してでかけました。
町についたスーザは、おいしそうなオレンジやかわいいお人形のお店の並ぶ市場を通り過ぎ、大きな通りの宝石やさんの前で立ち止まり、帽子やさんをながめ、靴屋さんの前で考えました。
一体何を捜しているのでしょう。

通りを進んで、スーザは突き当りのお店の中に赤いものを見つけました。
それは 素敵な 赤い椅子 でした。
「これだわ。わたしのさがしていたいちばんすてきなものはこれだわ」
スーザが、せっせと働いてためたお金の袋を渡して買おうとすると、店の主人は目をぱちくりしていいました。
「おじょうちゃん、これっぽっちのお金じゃあ、この椅子は買えないよ。」
がっかりしたスーザが、とぼとぼと歩いていると、壊れた家の前に椅子が捨ててあるのを見つけました。
スーザはしばらくその椅子をながめていましたが、そうだ!と、いいことを思いつきました。
その椅子をロバに乗せ、お店で赤いペンキと赤い布を買うと、急いで家に帰りました。
そして、そのまま納屋に駆け込んで……。
朝から姿の見えないスーザを捜していたマリアおばさんが、勢いよく納屋の戸を開けると赤いペンキだらけのスーザと出来上がったばかりの素敵な赤い椅子が見えました。赤いクッションもついています。
「おばさん、お誕生日おめでとう!おばさんの欲しがっていた椅子よ!」
マリアおばさんの喜びようはどんなだったと思います?
でも、次の朝、スーザはまた、ねぼすけスーザにもどっちゃったんですって。

 

「ねぼすけスーザ」の絵本は、シリーズになっていて、どれも読んでいてうれしくなる本です。
このシリーズは、「ねぼすけスーザのおかいもの」を始めとして、「ねぼすけスーザとやぎのダリア」「ねぼすけスーザとあかいトマト」「ねぼすけスーザのセーター」「ねぼすけスーザのオリーブつみ」と、つぎつぎに出版されました。
そして、今年の こどものとも4月号(福音館書店)に「ねぼすけスーザのはるまつり」が登場しました。

このお話の舞台はスペインの村。
そこに住む、愛すべきスーザという女の子と、それを取り巻く人々や動物、自然との濃密な共生が描かれています。

作者の平野多珂子さんが、かつてスペインで生活していた頃に体験した、ゆったりとした時間の流れや、コミュニティとしての人々の関わりややさしさ、生活のありようをこの絵本にして表現しました。

現代の日本の社会や生活とは隔世の感がありますが、本来、人が生きるということはこういう豊かさのなかでこそ培われるのだろうと思い、なつかしさとうらやましさを感じながら、暖かい思いで読んでいます。

アイウエ王とカキクケ公

武井 武雄 原案

三芳 悌吉 文と絵

童心社

 

豊かで平和なアイウエ王国のアイウエ王は、隣の欲深で戦争の大好きなカキクケ公国のカキクケ公にだまされて、タチツテ塔にとじこめられてしまいました。

アイウエ王国の人々はカキクケ公にいじめられて暗い日々を送っていましたが、「もう、こんな暮らしはたくさんだ」と、みんなが慕うサシスセ僧と相談をしてカキクケ公の軍隊を追い出す計画を立てました。

サシスセ僧は、ハヒフヘ法をみんなに教えました。

それは、マミムメ猛という猛獣のかたちをした戦車を作り、真っ暗な夜に敵を攻める戦法でした。名づけて、ヤイユエ夜 計画。

ヤイユエ夜計画は大成功。

カキクケ公国の兵隊たちは みんな ラリルレ牢に閉じ込められました。

アイウエ王国には また 平和がよみがえりました。

アイウエ王は、王の位を譲り、若いワイウエ王が誕生しました。

ワイウエ王はサシスセ僧と力を合わせて国を治めたので、人々は末永く楽しくくらしましたとさ。


この本は1982年に第1刷が出版されています。
2004年に15刷が出されましたので、この間、たくさんの方々に親しく読まれてきた絵本といえます。
シンプルで傑作なお話は すらすらと流れるように入ってきて、その絵の素晴らしさと一緒にいつまでも印象に残る絵本です。
このお話は、昭和のはじめ頃、無声映画時代にスクリーンの前で語られたお話だったのだそうです。
三芳さんはそのお話がとてもおもしろく、いつまでも覚えておられ、いつか絵本にしたいと思っておられたところ、そのお話のもとが、大正時代に 武井 武雄さんが書かれた童話だったということを知り、武井さんの了解を得て、念願の絵本にすることができたという経緯も興味深いものがあります。
本当に、おひざの中でも、お風呂に入りながらでも子どもにおもしろおかしく語ってあげられるような、そんな流れとおもしろさをもっている絵本です。
どうぞ、お正月、ゆったりと 大人も子どももこのお話を 一緒に楽しんでみてください。

あらいぐまとねずみたち

大友康夫 作・絵

福音館書店

 

森の小川の岸辺にあらいぐまの家族が住んでいました。

きれい好きのあらいぐまたちが、食器を洗いながら、「明日はじゃがいも料理にしようね」と話していました。

洗い物をすませて、お家に帰ると、大事なおいもの袋がなくなっていて、お豆もちらかっています。びっくりしたあらいぐまたちは、豆のあとを追っていくと、草原でねずみたちが大勢で遊んでいるところに出ました。

まぁ、どうでしょう。そこには、こどものあらいぐまのおもちゃや、なくなったおいもや、お父さんのメガネもあります。

あらいぐまたちは,はらをたてて、ねずみを捕まえました。

そして、全部返すから、と約束をさせますが、「全部返したら食べるものがみんな なくなっちゃう」と、子どものねずみの泣声がきこえました。

あらいぐまたちは、困ってしまってしばらく考えてからいいことを思いつきました。

ねずみむらに、畑を作る事でした。

畑には、じゃがいもを植えました。

すると。こんどは「わたしたちも、あらいぐまさんのような立派な家が欲しいのですが」といわれて、家作りが始まりました。立派なお家もでき、ねずみたちは大喜び。

それから何日も何日もたったある晩のこと。

あらいぐまのお家に向かって、ねずみたちの行列が続きます。
畑でできた じゃがいもを抱えて。


 この絵本は、リズミカルなことばと、ユーモラスな絵が一体化して、いつまでも印象に残る楽しい絵本です。
 泥棒のいたずらねずみに対して、あらいぐまたちが、怒るだけでなく、どうしたら泥棒をしなくてもいられるようになるかというところまで考え、知恵を貸し、ねずみたちと力を合わせて、一緒に新しい生活を作り出していくという過程が、読む者をホッとさせたり、夢をもたせたり、平和にしてくれます。
 ねずみたちも、恩返しだといいながら、自分の畑にできたじゃがいもをあらいぐまの家に運んでいくラストのページを読みながら、共に生きる ということの喜びがぱぁっと心に広がり、平和を創り出す喜びを伝えてくれます。
 今、私たちの世界は、互いに自分の利益ばかりに執着して自分さえよければいい というような風潮の中で、共に幸せになる知恵を持とうとはしません。
 みんなが、相手の幸せのためにほんの少しだけでも考えられれば、みんなが生きていることの素晴らしさを感じることができるのではないでしょうか。
 平和を創り出すということは、すぐ身近なことに心をかける、ということから始まるのではないかと思うのです。

ともちゃんとこぐまくんのうんどうかい

あまん きみこ 作

西巻 茅子 絵

福音館書店

 

明日は運動会。

でも雨になって欲しい人がいますよ。

ともちゃん、かけっこがきらいなんですって。

よういドンのあのドンがこわくって、いつもびり。

なかよしのこぐまくんもですって。

そこでふたりは、うらのはらっぱでかけっこをすることにしました。

よういドンをしようとした時、すごいスピードで走ってきたものがいます。

3びきのうさぎたち。「はじまるよ」といっています。

ともちゃんとこぐまくんは、うさぎたちの後を追って、林の中へ。

にぎやかな声がきこえてきます。

はやしようちえんの運動会でした。

動物たちが、つなひきをしています。ともちゃんとこぐまくんも入れてもらいました。

つぎは、かけっこ。動物たちは速くても遅くても一生懸命。

そして、パン食い競争。みんな速くても、遅くても一生懸命。

そして、今度は二人三脚。ともちゃんとこぐまくんも走ります。

「ドン だいじょうぶかなぁ」とちょっと心配。

でも、だいじょうぶ。2人は一等賞になったのです。

あぁ、たのしかった。運動会って楽しいなぁ。

速く遅くても楽しいなぁ。

勝っても負けても楽しいなぁ。

はやし幼稚園のみんな、さよなら。

明日、天気になあれ。あした、てんきになあれ。

 

 

びりになるからいやだ、という思い。たくさんの人に心当たりがあるかもしれません。
びりだって一生懸命走れば楽しくなるんだよ。

一等賞でも、びりでも、いいんだよ。
そんなこと楽しければなんでもないんだよ。
幼稚園では、そんな雰囲気の中で子どもたちが、顔を輝かせて走っています。
どれだけ出来たか、ではなく、どれだけ楽しく充足できたか、それが子どもの生活のすべてだと思います。
楽しさを心底知っている子は、忍耐強く自分を高めていく力を持っています。
いろいろな子がそれぞれの力を思い切りだすことに喜びをもち、そしてそのことを一番大事なことなんだよと言える大人でありたいと思うのです。

ありこのおつかい

いしいももこ さく

なかがわそうや え

福音館書店

 

ありの ありこは、おかあさんから、おばあちゃんにおいしい草の実を届けるようにいいつかります。
ありこが、森の中をみちくさをしながらのろのろと行くと、あおいつる草が目にはいりました。
そのつる草をぎゅっとひっぱってみました。
すると、そのつる草はカマキリの きりおの足だったからたまりません。
怒った きりおは、ぺろりとありこを飲み込んでしまったのです。
「いやだぁ、あやまったのにたべるなんて ばかぁ」となきながら、ありこは きりおのおなかのなかへ。でも、ありこは、おなかのなかでも大騒ぎ。
きりおは、ありことけんかしながら行くと、ムクドリのむくすけと出会いました。
むくすけは、ありこの「ばかぁ」という声を聞いて、きりおが自分のことをいっているのかと怒り出しました。
そして、きりおをぺろりと飲み込んでしまったのです。
「ちがうちがう、ぼくじゃない。とんちきめ」と叫び続ける きりお。
きりおのおなかにいる、ありこも黙っていません。
むくすけが、おなかの中の2ひきとけんかをしながら行くと、突然、ヤマネコのみゅうが現れて、「なんだと、おれがばかのとんちきだと?」と怒って、ぺろりと むくすけを飲み込んでしまいました。
むくすけは みゅうに飲み込まれても、「わるものぉ」と言い続けています。
きりおも ありこも叫んでいます。
みゅうは おなかの3びきとけんかをしながら行くと、こんどは大きなクマのくまきちに会いました。そして、「だれだ、おれを、ばかのとんちきのわるものだっていったやつは?」と怒って、みゅうをぺろりと飲み込んでしまいました。
さて、今日はくまきちのお誕生日。おかあさんがおいしいごちそうを作って待っていました。
そして、くまきちを おめでとう と抱きしめたとたん、「くるしい!」「ばかぁ!」「とんちき!」「わるもの!」と聞こえてきたのでおかあさんはびっくり。
「何て悪い子!」とおかあさんは怒って、くまきちのお尻をぽんぽんと叩きました。
すると くまきちの口から、すぽーんと みゅうが飛び出してきました。
みゅうのお尻を叩くと、むくすけが。むくすけの口からは きりおが。
そして、きりおの口からは ありこが 赤い帽子を横っちょにかぶり、草の実の入ったかごをしっかり抱いて飛び出してきました。
そして ありこは「わたしが悪い子だったからみんなじゅんじゅんに悪い子になっちゃったの」と泣きながらはなしました。
くまのおかあさんは、「そうだったの。それじゃあみんなでごちそうを食べて仲直りをしてちょうだい」といいました。
みんなで仲良く食べたごちそう、おいしかった!


この絵本は1968年に出版されてから35年以上、子どもたちに支持されて版を重ねているロング、ベストセラーです。
石井桃子さんの文と物語はリズミカルで、ユーモアにあふれています。
ちいさい ありの子が、カマキリに飲み込まれ、そのカマキリがムクドリに、ムクドリがヤマネコに、そしてヤマネコがクマにと だんだんに大きなものに飲み込まれていくという設定は、弱肉強食の自然界をリアルに描いているようにも感じられますが、おもしろいのは、小さい弱いものが絶対に妥協しないところです。
みんなそれぞれ自分を精一杯主張しています。
そして、この先、どうなってしまうのかなというドキドキ、ワクワクするなかで、最後は、クマのおかあさんという大きな存在を通して、思ってもいないようなびっくりするかたちで大きな動きが生まれ、みんながひとつになり、楽しいパーティをするといううれしい展開になります。
読んでいた子どもたちは、そこでほっと安心して暖かい気持になるのです。
また、このお話を支える中川宗弥さんの絵がとてもモダンで、その色使いや空間のとりかたの見事な構図はページごとに一枚の絵画を鑑賞しているようにさえ感じます。
幼いときにこのような絵本に出会えたら幸せですね。

ふたりだけのキャンプ

 

松居 友・文

高田 知之・写真

西山 史真子・絵

童心社

 

あるひ、牛小屋の掃除をしながら、父さんがゆうじに2人だけでキャンプに行こうと誘いました。
父さんと2人だけでキャンプに行くのは初めてです。
それに、テントも持たず、お米と塩と味噌だけを持って行くキャンプなんていつもとちょっと違います。
父さんは「ほんとうのキャンプだ」といいます。
2人は、トラックに2枚の荷造りシートと針金、飯ごうとナタとナイフ,ヤスと釣竿、そしてカヌーを積んで出発です。
父さんの秘密の場所に向かっています。ゆうじの知らないところです。
どんどん山の奥に入ります。ゆうじは不安になりました。
もう道がないというところで車を降りると、今度はやぶの中をカヌーを押して進みます。すると、目の前に虹のように輝く湖が現れました。
カヌーを浮かべて対岸に渡ります。
父さんはおいしい湧き水をゆうじに飲ませながら、「おれたちの先祖は、昔からここを泊まる場所として大事にしてきたんだ」とはなし始めます。
そして、父さんは慣れた手つきでシートを使って寝場所をつくり、誰かが残していった燃えさしの木で焚き火をし、夕ご飯の支度にとりかかります。
カヌーで湖に漕ぎ出すと、ゆうじは釣竿でヤマメを、父さんはクマのような顔になってヤスを構え、大きなニジマスをつかまえました。
焚き火のまわりでたべる夕飯のおいしいこと。
踊る火から、目を天に移すと、今まで見たこともない、こわいぐらいきれいな星空。
ゆうじはその星空の下、初めて森のなかで眠ったのです。


北海道の大きな自然が、文と絵と写真がうまく絡み合って、蕗や笹、木々や焚き火のにおいまでをも感じさせながら手に届くかのように身近に感じさせてくれます。
父と息子が、日常の生活から抜け出して、自分とは何か、人として生きるということは何かという、神聖な儀式のような時を過ごします。
今、生きている自分は、ただここにいるというだけではなく、連綿とつながる偉大な命の継承の中にいること、そして、それは自然と共にあり、その自然のなかで時を越えて一体となりうること。
自然はこわくなるほど偉大なものであり、私たち人間も、クマも、魚も、同等にその一部に過ぎないのだということ。
父がかつてその父から受け継いだであろう生き様や世界観が、ことばを超えて雄大な自然の中で力強く息子の体に入り込んでいく様子が、感動をもって伝わってきます。
深い、重い感動とともに読む本です。

14ひきのあさごはん

いわむら かずお

童心社

 

おとうさん おかあさん 

おじいさん おばあさん

 そして きょうだい 10ぴき。

     ぼくらは みんなで

        14ひき かぞく。

もりのあさ。

14匹の のねずみの家にも 朝がやってきました。

おはよう おはよう。

冷たい水で顔を洗って いい気持。

さぁ、のいちごつみにでかけよう。

丸木橋をわたって、虫たちにごあいさつをして、きいちごの木についた。

かごいっぱい 摘んだきいちごをかついで おうちに帰ります。


おうちでは、どんぐりの粉で作ったパンがふっくらと焼けています。

きのこも入って特別おいしいおとうさんのスープも出来上がり。

さぁ、みんなそろってあさごはん。
パンとスープと、のいちごと、ジュースに ジャム。

みんなで作ったあさごはん。

14ひきの 新しい一日の始まり。

 

 

いわむら かずおさんの14ひきシリーズも「14ひきのアトリエから」(創作の秘密、家族や自然について、スケッチを交えて語ったもの)を入れて14冊になっています。
最初に創られた「14ひきのひっこし」が1983年ですから、このシリーズのファンは2代にわたっているのではないでしょうか。
森に棲むのねずみの大家族のおはなしは,どれもみんなあたたかく、生活的です。
森の自然の豊かさ、美しさも画面いっぱいにひろがった感性豊かな そして 確かな筆で描かれていて、読む者をぐいぐいと自然の世界に引き込み、魅了します。
また、短い文と、大きな絵が、読む者にちょうどいい間を与えてくれて、1ページ1ページが本当にいとおしく宝のようにしみこんでいきます。
以前、いわむらさんの絵本美術館にうかがった時、そのロケーションはまさにこの絵本の中の自然そのものでした。
たんぼや畑もあって,採れたての野菜をおいしくいただいたことを思い出します。
その時、いわむらさんがおっしゃっていたのですが、この絵本が大好きだというファンの親子がここにやって来たのですが、森に一歩足を踏み入れた途端に逃げ帰ってきた、ということでした。
自然の森は、絵のような美しさだけではなく、クモの巣もあれば 地面に這っている虫もいる。また、独特の臭いもある。
そういう生きている森を、あるいは自然を体験したことのない人たちは、絵本から感じていたイメージとはあまりにも違うことに驚くのだそうです。
森の中の片隅で、14ひきの小さなねずみたちが今日も、動き回り、遊び、けんかをし、ごはんを食べている、という生命の尊い営みを感じた時、それは他のすべての生き物や木々の息遣いをもいとおしく受け入れていかれることにつながっていくような気がします。

ヘンリーいえをたてる

D.B.ジョンソン 文・絵

今泉吉晴 訳

福音館書店

 

気持ちのよい 春の日 ヘンリーは 家をたてることにしました。

おのをかりてきて 12ほんの木を 切り倒し、丸太をけずって材木にしました。

4月になって ともだちのエマソンさんが 手伝いにきました。

エマソンさんは 「きみの家は 食事をするには 小さいね」と いいました。

ヘンリーは 「ぼくの家は きみが思っているより ずっとおおきいんだよ」と いいました。

そして ともだちを 家のうしろの 豆畑に つれていきました。

「家ができたら ここが ぼくの食堂になるんだよ」と ヘンリーはいいました。

5月になって ヘンリーは古い小屋を買い、小屋をばらばらにして 窓や板を運びました。

ともだちのオルコットさんがやってきて、「きみの家は 本を読むには 暗いね」といいました。

ヘンリーはともだちを家のわきの ひあたりのよい 草原につれていって「家ができたらここがぼくの図書室になるんだよ」といいました。

ともだちのリディアさんもやってきて「あなたの家はダンスをするにはせまいわね」といいますと、池につづく道のある家の前につれていきました。

「家ができたらここがダンスのできる客間になるんだよ」といいました。

7月に、ヘンリーは新しい家に引っ越しました。

そして、豆畑の食堂で食事をし、草の図書室で本を読み、家の前の道をダンスしながら池におりました。

ヘンリーは「ぼくの家はちいさくても森や池につながっているからとっても広いんだ。」ぼくにぴったりの家なんだよといいました。


この絵本は2004年4月に出版された新しい絵本です。
最初にこの本を読んだ時は何気なく読んだのですが、本を置いてしばらくたってから「この本はいったい何なんだろう」という、いわゆる「気になる本」であったことに気が付きました。
私たちの家に寄せる思いと、このヘンリーの自由なそして自然との融合としての家観の違いにショックをうけます。

これはすなわち人生観そのもののような気がしますし、自分自身に大事なことは何かをつきつけられているような思いになります。
私たちは、何でも自分の物を自分の領分の中にとりこみたいと思いますし、すべてのことをその領分の中ですまそうとしますが、ヘンリーは枠組みの中にとどまるのではなく、(枠組みがないに等しい)自分を外に外にと押し出していきます。そしてすべての恵みを享受し喜ぶのです。
2003年には「ヘンリーフィッチバーグへいく」というシリーズ最初の本が出ていますが、それとあわせて読んでみるとそのヘンリーの姿がより明確に受け止められます。
子どもにとっては、楽しいゆったりとしたヘンリーのファンになるような愉快な物語でしょうし、大人にとっても今自分がどこかに置いてきてしまったものを思い出させてくれるような絵本となるでしょう。

おおかみと七ひきのこやぎ

フェリクス・ホフマン え

せた ていじ やく

福音館書店

 

むかしあるところに、こやぎを七匹育てているおかあさんやぎがいました。

ある日、おかあさんやぎはたべものを捜しに森にいこうとしてこやぎたちに留守番をいいつけました。

こわいおおかみに気をつけるようにと言い置いて。

しばらくしておおかみがやってきて戸をたたきました。

「おかあさんだよ。あけておくれ」

しかし、利口なこやぎたちは おかあさんの声ではないことに気がついて戸をあけませんでした。

次に、声を変えてやってきたおおかみはまた戸をたたいていいました。

「おかあさんだよ。あけておくれ」

でも利口なこやぎたちは真っ黒な足に気がついて戸をあけませんでした。

おおかみは白い足にしてまた、やってきました。

声もやさしく、足も白い。

こやぎたちは「おかあさんだ!」と戸をあけてしまいました。

飛び込んできたおおかみは、急いで隠れたこやぎたちを次から次へとひとのみにしてしまいました。

森から帰ってきたおかあさんやぎの驚きと悲しみといったら!

でも時計の中に隠れた一匹のこやぎが見つかったのです。

そのこやぎを抱いて泣く泣く外へ出て行ったおかあさんは、そこにおなかがパンパンにふくらんで眠っているおおかみを見つけたのです。

おなかがぴくぴく動いています。こやぎたちは生きている!

おかあさんははさみでおおかみのおなかを切っていきました。すると、次々にこやぎたちが飛び出してきました。

おかあさんは子どもたちとおおかみのおなかに石をつめこむと糸で縫い合わせました。

おおかみは目をさますと、水を飲みたくなりました。

そして、井戸の上にかがんだ途端、おなかが重くて中に落ちてしまいました。

おかあさんやぎとこやぎたちは井戸のまわりで大喜びをしました。

 

 

このおはなしは誰でも聴いたことがあるグリム童話です。
この絵本の絵はフェリクス・ホフマンが描いていますがとてもリアルに、そして豊かな表現によって記憶の中にあるおはなしを新鮮な感動と共によみがえらせてくれます。
そして、文章も瀬田貞二さんの訳によって、無駄のない、それでいて想像力をふくらませてくれることばで物語られています。
しっかりとした本だと感じます。
私はこの本の中の、おかあさんやぎとこやぎの関係が大変興味深いと思います。
お母さんやぎは こやぎたちが生きていくために一生懸命に働きます。
そして、こやぎたちが自分で自分の命を守れるように危機やその危機を察知したり乗り越える知恵を適切に教えます。
そして自分のこやぎを守るためには自分の危険や命も顧みず思い切った行動にでます。
何とたくましいおかあさんやぎ!
そして、こやぎたち。
おかあさんやぎを絶対信頼しています。
こわいおおかみを敵にまわして、きりきりまいをさせる頼もしさ。
みんなおかあさんやぎに学んでいます。
愛というのは、ただかわいがったり、子どものいうなりになることではなく、子どもに絶対信頼できる存在感と生きるモデルを示すことでもあるのだということをこの本から学びます。

ピッキーとポッキー

ぶん・あらしやま こうざぶろう

え・あんざい みずまる

福音館書店

 

朝、うさぎのピッキーとポッキーが、くすの木の根っこのお家で目を覚ましました。

さぁ今日はお花見にでかける日です。

おとなりでねぼうをしているもぐらのふぅちゃんにも声をかけました。

ふぅちゃんは「おべんとうを作らなくっちゃ」といいました。

3人の作ったおべんとうのおいしそうなこと。いっぱいいっぱい作りました。

さぁ出発。

菜の花畑を通り、れんげ畑でお花摘みをし、川を飛び越えたあたりで、ふぅちゃんはおなかがすいておむすびを出してばくりと一口たべていると、

近くの土がむくむくとあいて、さくらやまにすんでいるふぅちゃんのおばあちゃんが顔を出しました。

「そろそろ来るころだと待っていましたよ」

おばあちゃんに案内されて、トンネルを抜けて階段を上ると、

まぁ、見事な桜の花のしたに友達がいっぱい集まって3人を待っていました。

さぁ、お花見の始まりです。

 

 

★ 春らしい一冊です。
シンプルな絵やお話ではありますが、その色彩やことばのリズムやお話のあたたかさがいつまでも印象に残っていて、お花見というとこの絵本を思い起こすのです。
この絵本はことばと絵がそれぞれの役目をきちんと果たしながらそれを互いに何倍にもふくらませ合っています。
お話の展開も新鮮で楽しく、子どもが好きになる本の要素をすべて兼ね備えているような絵本だと思います。
信州の春は遅く、その到来を待ちこがれる日々の中で、春の色や香り、あたたかさ明るさを思い描く時、不思議にこのピッキーとポッキーの桜の木の華やかなピンクとおいしそうなおべんとうが思い浮かんできます。
春がやってきた4月、思い切りその香りを吸い込み、色を吸収して喜びたいと思います。

おなべおなべにえたかな?

こいでやすこ・さく

福音館書店

 

気持のいい春の日。
きつねの「きっこ」と、いたちの「にい」と「ちい」はたんぽぽをつんでやまむこうのきっこの おおばあちゃんのところにでかけました。
おおばあちゃんはスープをことこと煮ながら待っていてくれました。
その時、からすのおかあさんがおおあわてで おおばあちゃんを呼びにきました。
こがらすの のどに骨が刺さっちゃったんですって。
おおばあちゃんは山のお医者さん。急いで こがらすのところに行ってしまいました。
スープの番をしていてね、と きっこに頼んでね。
「おなべおなべにえたかな」とみんなはおなべに聞きました。
するとおなべは「コト コト コト にえたかどうだか食べてみよ コト」とこたえたのでおなべのふたを取ってみると…おいしそうなにんじんスープ! 
味見をしますと、まだかたい。
3度目におなべのふたをとると「うーん おいしい」「もういっぱい」とみんなで味見をしたのでおなべの中はからっぽになってしまいました。
するとおなべが「こげつくからはやくお水を入れてぇ」「お豆も」というのでみんなは急いでお料理を始めました。
おなべのいうとおりに 仕上げにたんぽぽも入れました。
おなべがグツグツいった時おおばあちゃんが帰ってきました。
そしておなべの中を見てびっくり。
「まあ おいしそうな春のスープ!」
みんなでおなかいっぱい食べました。
おなべが「よかったコト コト」っていったんですって。


小出 保子さんの楽しいお話です。
不思議なおなべを囲んで、「きっこ」と「にい」と「ちい」のうきうきとした様子や会話がその表現力豊かな絵とことばによって手に取るように伝わってきます。
おおばあちゃんの作っておいてくれたスープを何回も味見をしながらそのたびに塩を入れたりバターを入れたりしておいしくなっていくスープ。
どんな味になっているのかなとお話に吸い込まれていくようです。
そして、そのスープを全部食べてしまったあと、こんどはおなべが動物の子どもたちにお料理を教えていくのですが、それもとてもおいしそうで お料理や食べることの大好きな子どもたちにはたまらない場面が続きます。
お豆のスープに摘んできたたんぽぽを入れるというところでは思わず春の香りが漂ってくるような気がするのです。
また、おなべと子どもたちのリズム感のあることばの掛け合いの楽しさは生活の中でつい口ずさんでしまうほどです。
共感性、一体感をもって楽しめる絵本です。

おじいさんならできる

フィービ・ギルマン 作・絵

芦田ルリ 訳
福音館書店

 

ヨゼフが赤ちゃんの時、おじいさんが素敵なブランケットを心をこめて縫ってくれました。けれどもヨゼフが大きくなるとその素敵なブランケットはだんだん汚れて破れて古くなりました。
「おじいちゃんなら何とかしてくれる」とヨゼフがおじいちゃんに頼むと「ふうむ どれどれ」とよく見てから「ちょうどいいものができるぞ」といっておじいさんは古くなったブランケットをヨゼフにぴったりのジャケットに作り変えてくれました。

けれどもまたヨゼフが大きくなるとそのジャケットも古くて小さくなっていきました。
そこでまたおじいちゃんに頼むと今度はジャケットから素敵なベストを作ってくれました。
そして、そのベストが汚れると今度は、ネクタイに。
そのネクタイも汚れるとまたまたはさみでちょきちょき、針でちくちく縫って素敵なハンカチにしてくれました。
そのハンカチが汚れると、ボタンにしてくれました。
けれど大好きなそのボタンがなくなってしまったのです。
さんざん捜しましたがどこにもありません。
ヨゼフもおじいさんもあきらめなければなりませんでした。
でも次の日、ヨゼフはおじいさんとのこの素晴らしい物語を書き始めたのです。

 


1998年6月に発行された世界傑作絵本シリーズ、カナダの絵本です。
おじいさんが赤ちゃんのヨゼフに心をこめて作ってくれたブランケット。
おじいさんはヨゼフが大きくなるたびに「ちょうどいいものができるぞ」といって次々にそれを変身させてその時のヨゼフにぴったりのものに作り変えてくれるのでした。
しかし、ヨゼフが最後に作ってもらったボタンをなくしてしまった時、そしてそれがもう見つからないと思った時、おじいさんもヨゼフもがっかりして悲しがります。
しかし、ヨゼフはおじいさんがずっとそのたびにしていたように「ふうむ どれどれ」といいながらこの「ぼくとおじいさんのこのすてきなおはなし」を書き始めるのです。
永遠になくならないおじいさんと自分の素敵な物語を。

この絵本を読んで、人にとって大切なものは何か、家族とは何か、愛とは何か、子どもを育てるとは何かを考えさせられました。
物語の中の、ひとつのものを大事にして、その都度その時のその子にふさわしいものに作り変えていくおじいさんの行為の中に、子どもを育てる時の一番大切にしなければならないものを学んだように思います。
子どもに対する素晴らしく大きな慈愛がなければこれだけの想像力、創造力にはならないでしょう。

また、おじいさんに作ってもらったものが自分にとって特別なものとして喜んで受け入れているヨゼフの中に、確実に信頼とか愛とか創造する喜びという、生きること、生活していくことへの希望と確信が育てられていることを感じます。
ひとつの物がただの物を超えて高い精神性をもつものになっていくということに高い文化性を感じます。
同時に子育てというのは、目に見える物から目に見えないものを創り出していく営みであり、それを受け継いでいくものなのではないかと重ねて思わされるのです。

おじいさんの仕事は何か、どのような家にどのような家族がどのように生活しているか、またヨゼフの成長に伴いそれらがどのように変化していくかなどが舞台の芝居を見ているように表情豊かに描かれています。
家の床下に住んでいるねずみの一家も、ヨゼフ一家と絡んで楽しい物語の世界を創っている主人公になっています。

王さまと九人のきょうだい

君島久子訳

赤羽末吉絵

岩波書店

 

昔々のお話です。あるところに子どもがいない老人夫婦がいました。
あまりのさびしさにおばあさんが泣いていると、白い髪の老人が現れ、丸薬を9つさずけます。その丸薬を飲むとおばあさんのおなかが大きくなりいっぺんに9人の男の子が生まれました。
そして髪の白い老人から名前をもらいます。
「ちからもち」「くいしんぼう」「はらいっぱい」「ぶってくれ」「ながすね」「さむがりや」「あつがりや」「切ってくれ」「みずくぐり」。
変な名前でしょう?。
この9人の兄弟は老夫婦が何もしないうちにいっぺんに大きくなりました。
みんなそっくりです。

ある時、王さまの宮殿を支える大事な柱が突然倒れてしまいました。
王さまは国中に「この柱をもとどうりにした者には望みのほうびをとらせる」とおふれを出しました。
そこで兄弟は相談をして「ちからもち」が出かけていくと夜のうちに倒れた柱をちゃんと元どおりにして帰ってきました。
王さまはびっくりして怪力の正体を探させようやく9人の兄弟の一人がなおしたことを突き止めました。でも信用できない王さまは大きなお釜にごはんをいっぱいたかせて食べさせることにしました。「このごはんが食べられなかったらおおうそつきの罰として牢屋にぶちこめ。」と。
そして兄弟はまた相談をして今度は「くいしんぼう」に行ってもらうことにしました。
ぺろっとたいらげた「くいしんぼう」。王さまはこわくなっていったんは家にもどしましたがそれからというもの、自分がやっつけられてしまうのではないかと心配でたまらなくなりました。そしてあの男をやっつけてしまなわなければと計略をめぐらしたのです。
さぁ、これからが王さまと兄弟の知恵比べ、力比べ。
つぎつぎに難問がだされそのたびに兄弟が力をあわせて立ち向かいます。
最後に「みずくぐり」が口いっぱいにふくんだ水をぷうーっと王さまめがけてふきかけると、王さまも宮殿もすべて波にのまれてしまいました。
それからは王さまにひどいしうちを受けることもなく、人々は幸せに暮らしたということです。

 

これは中国の昔話です。9人の兄弟がそれぞれ自分に与えられた力を合わせ王さまという大きな力と対決をして勝つという胸のすくような物語です。それも与えられた課題が考えられないような途方もないものですから読者としてはどうなるんだろうとハラハラしてしまいます。
人間のもつ知恵や能力をはるかに超えたスケールの大きい展開に眼を見開き、心踊るような思いで一気に読み進みます。
冬の日、それもお正月というと世代を超えて昔話を楽しむという古き良き習慣が日本にはありました。この物語も中国で古くから何世代にもわたって語り継がれ子どもの夢を紡いできたものだと思われます。
この本が出版されこの物語が日本に紹介されてから35年。日本でももう何世代にもわたって読み継がれています。それは物語のおもしろさに加えて、訳と絵の素晴らしさにも因るものが大きいと思います。印象深い絵は心にいつまでも残り続けています。
昔むかしあるところに、といったようにゆったりとそして物語の展開に沿ってテンポよく爽快に「語るように」読んであげたい絵本です。

サンタおじさんの いねむり

ルイーズ・ファチオさく
まえだ みえこ 文

かきもと こうぞう 絵

偕成社

 

寒い北の国。今年もクリスマスイブがやってきました。
サンタおじさんはプレゼントを山のようにトナカイのそりに積んで町の子どもたちのところにでかけました。
このところ毎晩プレゼント作りで眠る時間もあまりなかったサンタおじさんは途中で眠気におそわれました。
そこでおくさんが持たせてくれたコーヒーを飲みました。そしてこれもおくさんが作ってくれたサンドイッチを一口食べました。するともっともっと食べたくなってサンドイッチを全部食べてしまいました。
おなかいっぱいになったサンタおじさんはすっかり眠り込んでしまったからさぁ大変。
今夜中にプレゼントを届けなければクリスマスになりません。
森のきつねがやって来て、サンタおじさんが眠り込んでいるのを見つけました。
起こしましたがサンタのおじさんは夢をみながら気持よさそうにぐっすり眠っています。
疲れているサンタおじさんを起こすのはかわいそう、でも何とか今夜中にプレゼントを渡さなければときつねは考えました。
そして森中のみんなを集めて相談をしました。
「みんなでこのプレゼントを代わりに配ってあげないか。それがぼくたちからサンタおじさんへのクリスマスプレゼントだよ」ということになって、動物たちははりきってプレゼントを持って町に向かいました。
そしてめあての家のえんとつからひとつひとつプレゼントを配っていったのです。
朝、目をさましたサンタおじさんは真っ青になりました。
そりはからっぽです。
サンタおじさんがぽかんとしていると、雪の上に字が書いてあるのに気がつきました。
「メリークリスマス  プレゼントはみんなくばっておきましたよ。もりのどうぶつたち」
サンタおじさんの目に涙が浮かびました。そしてサンタおじさんも雪の上に
「ありがとう。もりのおともだち。  メリークリスマスサンタより」
サンタおじさんはまた、そりに乗っておくさんの待っているあたたかいおうちに帰っていきました。

 

この本のサンタさんはとても人間的で家庭的なあたたかいイメージで描かれています。
サンタおじさんが眠り込んでしまったのを見て「サンタおじさんは疲れているんだな。だけどおじさんがこのままあさまでねむっていたら、こんや、こどもたちのくつしたにクリスマスプレゼントはいれてもらえないよ。」というきつねの他者を思いやる気持、また、みんなでクリスマスの喜びを分かち合うために心を合わせ力を出し合う、ということはクリスマスの喜びそのものです。その意味で、もりの動物たちも、またサンタおじさんも一番尊いクリスマスプレゼントをもらったのではないかと思います。
クリスマスといえばサンタクロース、というようにすっかりイメージが定着していますのに、本当にサンタクロースはいると信じている人はほんの少数です。
特に大人はほとんどがいないと思っている。でもサンタクロースは本当にいるのです。
幼いときにサンタクロースがいることを確信できる子どもは幸せです。サンタクロースは人々の希望と夢と愛の実現化なのですから。目に見えない存在を確信できることは人生を通して宝であり希望と自信をもって生きる根っこになるのです。
人々はサンタクロースのあたたかさをみんな求めています。サンタクロースと考えるだけでわくわくどきどきした子ども時代は貴重です。
平和や幸せを人が求めている限り、サンタクロースはいるのです。
サンタクロースがいていつも自分を知り守り愛していてくれるのだということを信じられる幼児期をぜひ育ててあげてください。

ふゆじたくのおみせ

ふくざわ ゆみこ さく

福音館書店

 

森に開店した冬支度のお店に動物たちが集まってきました。
クマさんとヤマネくんも誘い合ってお店に行ってみました。
森の動物たちが欲しいものがいっぱい並んでいます。

大きくてあったかそうなセーターを見てヤマネくんは「クマさんに似合いそう」と思いました。
小さなチョッキを見てクマさんは「ヤマネくんに着せたいな」と思いました。

セーターにはどんぐり500個、チョッキにはどんぐり50個の値段がついています。

森の動物たちはそれぞれ欲しいものを買うために一斉にどんぐりを集めに飛び出しました。

せっせとどんぐりをひろうヤマネくん、一生懸命見つけるクマさん。

でも二人とも最後の一個がどうしてもみつかりません。

どんぐりをそろえた森の動物たちは、冬支度のお店で自分の欲しかったものをどんどん買っていきます。

最後の一個、ようやくそろえてふたりがお店にいってみると、お店は閉店、でした。

さぁ、クマさんとヤマネくんはどうなっちゃうの?

 


昨年出版した「もりいちばんのおともだち」の第2弾。おおきなクマさんとちいさなヤマネくんのものがたりシリーズです。

読んでいるだけで心があたたかくなってくる絵本です。

お互いに人を思いやりましょう、などと言葉で教えなくても人を大事にすることがどんなにあたたかく幸せなことなのかということを体中で感じさせてくれる本です。

えかきさんとことり

マックス・ベルジュイス さく

はせがわ しろう やく

ほるぷ出版

 

貧しい絵描きさんがいました。
絵描きさんは自分の描いた小鳥の絵が大好きでした。
ある日、金持ちが絵を買いに来て、その小鳥の絵を高いお金で買っていきました。
立派なお部屋に飾られた小鳥は、それでも少しも楽しくありませんでした。
春が来て、おやしきの外に鳥のさえずりの声がきこえるようになったある日、小鳥は絵から抜け出して外に飛び出しました。
でも自分の家がどこなのか分かりません。どこに行ったらいいのでしょう。花のいっぱい咲いている原っぱではありませんでした。
いろいろな鳥たちが住んでいる森でもありませんでした。
動物園に行ってみました。ライオンがお客として小鳥と仲良くしてくれました。
でも「珍しい小鳥だ、調べてみよう」と動物園の園長さんが家につれていってしまいました。小鳥はそこも逃げ出しました。
栗の木の下でぐったりしていると、男の子がそばに寄ってきました。
そして、「ぼく、きみのお家を知ってるよ」と小鳥をあの絵描きさんのところに連れていってくれたのです。
絵描きさんは大喜び、お金持ちにお金を返してあの小鳥の絵の中に小鳥を返してくれました。小鳥はようやく自分の家に帰って来ることができたのです。
そして絵描きさんも小鳥も、決して離れないでいようと思いました。

 


この作品の始めに、「自分のおうちがどこにあるのかわからないひとたちのために」と書いてあります。
自分が一番幸せでいられるところはどこなのだろう、帰るべきところはどこなのだろう、ということを考えさせられる絵本です。
大人は自分の身の上にひきくらべて、いろいろな思いを深めていくことでしょう。
子どもは、迷子になった小鳥になりきって、不安になったり悲しくなったり、男の子に会ってほっとしたりながら、いつのまにか今度は男の子になりきって小鳥を絵描きさんのところに連れて行ったりといういろいろな心の旅をしていきます。
最後に一番大好きな絵描きさんのところにもどれたとき、すべてのことが腑に落ちたという完結した喜びが味わえることでしょう。
お話も絵も共に印象に残る絵本です。

とんぼのうんどうかい

かこ さとし

偕成社

 

あかとんぼの運動会がすすきのはらっぱで開かれています。
あかとんぼの子どもちは羽をきらきらさせて一本杉のところまで競争をしたり、まるい大きなふくろに頭でぶつかってすずわりをしたり、太いつなの両端につかまって綱引きをしたりして、くたくたになるまで遊びました。ゆうがたになりました。
べにちゃんや、あかちゃんや、きいちゃんたちはお友だちといっしょにお家に帰ります。
森の暗闇にさしかかった時、あらわれたのはぎゃんぐこうもり。とんぼたちをつかまえて袋の中に入れてしまいました。とんぼのインスタント紅茶にするつもりです。
べにちゃんたちが危ない!
とんぼたちは、考えました。相談しました。
そして、こうもりがねてしまったのをみはからって、袋をすずわりのようにして頭で破いて逃げだしてしまいました
それから、こうもりの足を縄で縛って「それひけ、やれひけ」とつなひきをしてつかまえてしまったのです。
「運動会を2度もやっておもしろかったね。」
とんぼのこどもたちは、げんきいっぱい夕日の中をお家に帰っていきました。

 


かこ さとし おはなしのほんの中の一冊です。
かこさんの絵本は愉快で楽しくて子どもたちは大好きです。
物語りものびのびと破天荒で思いもしない登場人物が思いもしないできことに出会いそれをみんなの力を合わせて解決してしまうというストーリーはスリル満点で、そして最後はホッとうれしくなるのです。読んでいても、聞いていてもひきこまれるように楽しくなります。
それもそのはず、かこさんのおはなしえほんは実際にかこさんが子どもたちに語ってきかせるために書いたものなのだそうです。
子どもたちの表情を思い浮かべながら、そして、間近かに子どもたちのうれしそうな笑顔を見ながら創りだした絵本だから、子どもの心にぴったりとくるのでしょうね。

おこりじぞう

山口勇子・原作

沼田曜一・語り

四国五郎・絵

金の星社

 

わらった顔して、町のよこちょうにたっていたおじぞうさんは、8月6日原子爆弾をうけ、爆風でふきとばされた。
水をもとめ、にげのびてきたひとりの女の子の目には、そのおじぞうさんが、おかあさんにみえた。
やがて、おじぞうさんは、目をぐっとにらみ、口をぎゅっとむすび、仁王の顔になった。目からあふれた涙が女の子の口もとにながれた…・・。

この絵本は、長年読み継がれたきた作家・山口勇子の「おこりじぞう」を、民話の語り手である、俳優・沼田曜一と、母子像を絵筆に託し続けている画家・四国五郎が、平和を願う心で描き上げた現代の民話です。
と、表紙の裏に書かれています。

この絵本を読むたびにやり場のない憤りと悲しさで胸が詰ります。

幼い子にこの絵本を読んであげることが果して適切かどうか悩みながら、しかし、今、語り伝えていかなければならないのだと思い直して読みます。

読みながらつい声が詰まり、涙があふれてきます。

子どもたちはそんな読み手の通常ではない様子にびっくりしながら、真剣にきいています。

私は、こんなことが2度とあってはならない、こんな思いを子どもたちにさせてはならない、戦争はどんなことがあってもしてはいけないのだ、という思いを伝えたいと願いながら読むのです。

次世代を担う幼子が、戦争のこわさや残酷さを体で感じ、戦争より平和を選ぶ人として大人になってほしいと願っています。

今、世界中が戦争状態かあるいはその危機をはらむ緊迫した状況にあるなかで、今年の夏は特別身につまされてこの本を読んでいます。

うみべのハリー


ジーン・ジオン 文

マーガレット・ブロイ・グレアム 絵

わたなべ しげお 訳

福音館書店

 

ハリーは黒いぶちのある白い犬。

大好きな海辺に家族と一緒におでかけです。

海辺のことは何でも好きなのですが、かんかんでりのお日様だけは苦手です。

日陰に入ろうとすると、家の人のパラソルは小さいので満員で追い出されてしまうし、子どもたちの作った砂のお城に入ろうとすると壊れて追い払われるし、ふとったおばさんの影にかくれようとするとかんかんにおこられてしまいました。

かんかんでりの中、疲れ果てて波打ち際にすわっていると、まぁ大変。うしろから大波が押し寄せて頭の上からざんぶりこ。

気がついたら、ハリーには海藻がかぶさってもう犬ではなくおばけのようでした。

でもハリーはもう暑くありません。大喜びでうちの人たちのいる海辺に走り出しました。

まわりの人たちはびっくり。大変な騒ぎになりました。

ハリーはおかまいなしに走り回りうちのひとたちを捜します。、ホットドック屋の呼び声を自分を呼んでいる声と間違って、お店の前で思わずとびはねた時、海藻がするりととれて、ハリーの姿が現れました。

ハリーはうちの人たちと無事に会うことができたでしょうか。


この絵本はいたずら犬のハリーとその家の人たちとのあたたかい生活を描いたシリーズの中の一冊です。

1967年に第1版がでていますから、もう何代にわたって読みついでおられる方もおられるのではないでしょうか。

この絵本は子どもたちに大人気でベストセラーの絵本です。

小さな事件をおこすハリーのいたずらに付き合うお家の人とのほのぼのとしたかかわりがいい味を出していて、心があたたかくなる一冊です。

すてきな三にんぐみ

トミー・アンゲラー・さく

いまえ よしとも・やく

福音館書店

 

泣く子もだまるこわいこわい三人組の泥棒が、ある日小さな女の子と出会ったことで思いがけない転身をする楽しい物語です。
みなしごのステファニーちゃんをひきとった三人の泥棒は、今までためた金銀財宝の使い方を全く考えていなかったことに気づかされます。
そこで三人はさびしく悲しく暗い思いをしているみなしごたちをみんな集め、お城を買って住むことにしました。
どんどんふえる子どもたちは元気に育ち、お城の周りに家を建てて村を作り、3つの塔をたてました。
いつまでもすてきな三人組を忘れないように。


トミー・アンゲラーさんの絵はダイナミックな構成と色使いで一度この本を読んだらきっといつまでも印象深く記憶に残るような気がします。
色は黒が基調でそこにきれいな黄色と赤が映えて鮮やかです。
また、ストーリーも奇想天外で、こわいこわい男三人が小さな女の子と関わることによってそれまでと全く違う人生を生きるようになる、というユーモラスで、そして何となくロマンを感じさせてくれるものです。
作者はこのお話を彼の娘さんに捧げていますが、おとうさんがそのひざの上に小さい娘をのせて、おもしろおかしく話してあげている姿が目に浮かんできます。
このお話は、作者の子どもに対する限りない慈しみと子どもの存在の素晴らしさへの確信が基調になっているように思います。
子どもは何の先入観もなく人に信頼をおくことができます。また、子どものひたむきさは人にこれからのことを前向きに考えさせていく力を与えてくれます。
そのようなパワーに出会った泥棒たちの、戸惑いと喜びが想像できます。そして、それは父親としての作者と娘との出会いのようにも感じられます。
また、いまえ よしたかさんの訳がいいのです。これだけの訳がてきるということは、語学力もさることながら、余程この絵本に思い入れがあったのではないかと思うほどです。
絵とストーリーと言葉がぴったりとあって絶妙なしゃれた小気味よさを作り上げています。

かもさん おとおり

ぶんとえ ロバート・マックロスキー
訳 わたなべ しげお
福音館書店

 

かものお父さんとお母さんは卵をあたため、ひなをかえすのに一番いい場所を捜してボストンの町の上空まできた時、公園の池の中の小島を見つけて降りていきます。
そこは大変気に入ったのですが、乗り物に驚いて、近くの川の小島でひなをかえすことにします。
やがて、8個の卵から子がもが生まれ、お母さんがもはたくさんのことを教えて育てます。
そしてもっと子どもたちにふさわしい場所をと川を調べに行ったお父さんが待っている公園の池までお引越しをすることになりました。
公園までは道路を渡り長い道のりを歩いていかなければなりません。
車はひっきりなしに走ってきます。かもの親子は大丈夫でしょうか。
その時、仲良しになっていたおまわりさんが走ってきて自動車を止め、パトカーを出してエスコート。
かもの親子は街を無事通りぬけ、池に到着できました。
そして、かもの親子の快適な新しい生活が始まりました。


この絵本はロバート・マックロスキーさんの絵と物語、それに渡辺しげおさんの日本語訳が一体となってリズム感とさわやかさにあふれた素晴らしい絵本だと思います。
絵を見ていると、自分もかもになって空を飛んだり、上空から下の世界をながめたり、水の上を泳いだりしているような思いにさせてくれる程、描かれた視点がかもの目の高さであることを感じます。また、その表現は細部にわたって写実的で生活的です。
そして、ことばもストーリーもすべての表現に愛が満ちているように感じられます。
こがもを慈しんで育てる親がもの真剣なそして深い愛が伝わってきます。
かもの親子の引越しの場面では人間とのあたたかい交流がユーモラスに描かれこの物語の圧巻になっているのですがそこにも作者のものを見る目のあたたかさを感じさせてくれます。
ところで今から、二十年程前でしたか、東京の真ん中で、全くこの絵本と同じ出来事があったことを覚えていらっしゃいますか。
新聞の記事になり、それを驚きと喜びをもって読んだのですが、その時感じたことも「あたたかさ」でした。
文明の中にあって自然の小さな営みを守り支えた人々の思い、そしてそれを大切なこととして記事にした新聞社、その時代にあって人々に忘れてはならないものとして鐘をならす意図もあったのかもしれません。
わたしたちの生活、社会の中に「かもさん、さぁおとおり」というあたたかさをもち続けたいですね。

こすずめのぼうけん

ルース・エインズワース作

石井桃子訳

堀内誠一画

福音館書店

 

初めて羽を動かして空を飛んだこすずめのお話です。

おかあさんすずめから飛び方を教わって空にはばたいたこすずめは、もっと遠くまでいけそうだと思い、おかあさんの制止もきかずに遠くまででかけます。

でも途中で羽も頭も痛くなって飛ぶのがつらくなってきたこすずめは、にれの木のてっぺんにひとつの巣があるのをみつけて、その巣のふちに降ります。その巣にはおおきなからすがすわっていました。

そして,「休ませて」というこすずめに、「おまえはかあ、かあ、っていえるかね?」とたずねます。「ぼく、ちゅん、ちゅん、ちゅんってきりいえないんです」とこたえると「じゃあ中にいれることはできないなぁ。おまえ、おれのなかまじゃないからなあ」といわれてしまいます。

しばらくまた飛んでいくとひいらぎの木のたかいところにあるひとつの巣をみつけて飛んでいくとそこはやまばとの巣でした。そこでも仲間じゃないといわれて追い出されてしまいます。それからこすずめはふくろうの巣やかもの巣をみつけては休ませてもらおうとしますが、やはり中に入れてもらうことはできませんでした。

あたりは真っ暗になってきました。こすずめはもう飛ぶことができません。

こすずめは地面をぴょんぴょん歩きました。するとむこうからもぴょんぴょん歩いてくる鳥がいます。

「ぼくはあなたの仲間でしょうか」とたずねます。すると「もちろん仲間ですとも。私はおまえのおかあさんじゃないの」。

一日中こすずめを捜して飛び回っていたおかあさんとめぐりあったのです。おかあさんのせなかにおぶさって飛んで帰った巣の中でこすずめはおかあさんのあたたかいつばさの下で眠りました。


こすずめが意気揚揚と大空に飛び出し、自分はこんなにできるのだ、こんなに大きくなったのだと喜ぶ中でつい自分を見失ってしまい、さまざまな出来事や怖さやせつなさや混乱を体験します。その中で自分探しをしていき、そして自分の生きるベースを確信していくというものがたりです。

小さい子どもがおかあさんの両腕の中からのがれて自分にはもう何でもできるんだといって一人歩きをはじめようとする姿はよく見られます。

その自立への欲求と実力は必ずしも一致しているとは限りません。

しかし子どもは飽くなき挑戦を繰り返し、その中でたくさんの人と出会い、自分との違いに気づいたり、世の中にはさまざまな人や生活や価値観があることに気づいていきます。

そして自分の姿、自分の仲間、自分の力を知っていくのです。

そんな時、やはりいちばんのベースになるのはおかあさんの大きなあたたかい羽の下です。

そのベースがあるからこそ子どもは空高く冒険の旅に出て行かれるのです。

3びきのくま

トルストイ 文

バスネツォフ 絵

おがさわら とよき 訳
福音館

 

森に3匹のくまが1件の家に住んでいました。

大きいくまと、中くらいのくまと、小さいくまです。

ある日、3匹のくまが散歩にでかけている間に、女の子がその家に入り込みました。

そして、机のうえにあったくまたちの3つのお椀のスープを飲んでみて、いちばん小さいお椀の分を飲み干し、3つの椅子に座っていちばん座りごこちのよい椅子を選んで座り込んで壊し、自分にちょうどいいベッドに入って眠り込んでしまいます。

そこへ、くまたちが帰ってきて大騒ぎになります。そして、ベッドの中の女の子を見つけておそいかかろうというその時、女の子は目を覚まし、すばやく窓から森の中に逃げ出して行ってしまいました。

このお話は、ロシア民話だとばかり思っていました。
しかしイギリスの昔話にもこれと同じものがあることを知りました。(そこでは女の子がおばあさんになっています。)昔からよく知られているお話ですが、ただ単にストーリーのスリル性や、繰り返しのお
もしろさだけの本ではないような気がして、長い間心にひっかかっていました。
ところが,子どもたちと生活する中でハッと気づかされたのです。
それは、子どもたちの自分さがしの姿そのものではないのかなということなのです。
この女の子が自分にいちばんふさわしいスープ、椅子、ベッドを選び、「これがわたしにちょうどいい」という姿と、子どもが失敗を繰り返し、いろいろなトラブルにぶつかりながら、さまざまなことやものに挑戦し、自分の快い居場所を獲得しようとする姿がダブって見えるのです。
子どもは、自分自身で実際に試しながらさまざまなものを字分の中に取り入れ、自分のものにしていきます。
オトナからのお仕着せのものでは満足しません。
時にはハチャメチャにみえることをしたり,破壊的なことをしてみたり、納得するまで何度も何度も同じことくりかえしてみたり一見大人は理解しがたい行為をすることがありますが子どもはそうやって自分さがしをしていくのです。
そう思うようになってから、子どもが大きな自由の心の森の中で自分にいちばんふさわしいものを見つけ出しながら、自分さがしを思う存分してほしいと思いつつ、この本を読むようになりました。

ねずみのおよめさん

日本の昔話 小野 かおる 再話/画

福音館書店

 

昔のお話。
あるところにねずみのおとうさんとおかあさんに大事に育てられた、きりょうよしのねずみのむすめがいました。
ねずみの夫婦は、むすめのお婿さんには世界一えらい方になってもらおうと考えました。そして、世界中を照らしているお日様が一番偉い方だと思って娘を連れお日様に頼みにでかけて行きました。
するとお日様は、「わたしより雲さんの方が偉い。だってわたしをすっぽり隠してしまうもの。」と答えました。
それではと雲さんのところに出かけて婿さんになってくれと頼むと、雲さんは残念そうに「風さんはもっと偉い、わしらを吹き飛ばしてしまうよ。」と答えました。
今度は風さんのところに行くと、「世界で一番偉いのはわたしではなくて壁さん」と言われます。
そこで壁さんに頼みに行くと、壁さんは「わしらはねずみさんにかじられては穴だらけになってしまう。世界で一番偉いのは、ねずみさん、あなたたちですよ。」といいました。
ねずみの夫婦は「世界で一番偉いのはねずみだったのか。」と大喜び。
そこでねずみの娘は隣町の若者ねずみのところにお嫁入りをしましたって。


このお話はきっとお父様やお母様のだれもがきいたことのある昔話だと思います。
シンプルでいて、奇想天外のストーリー。スケールの大きさも子どもたちの想像の世界を広げます。
そして、主人公は小さなねずみたち。
本当に昔話は柔軟な空想力で構成され、縦横無尽に展開します。
似たような昔話は他にも「世界一の話」などもあり、世の中の奥義をユーモアをこめて語り伝えています。
このねずみが尋ねた世界一偉い方は実は自分たちねずみだったというお話の展開は、いろいろな意味を含んだ教訓話にもなります。
それはさておき、このお話はたくさんの絵本となって出版され、多少のニュアンスの違いもありますが今回紹介いたしました「ねずみのおよめさん」は、1988年1月1日に「こどものとも年中向き」として発刊された月刊誌でした。
それがこのたび、2006年1月1日に18年ぶりに「こどものとも年中向き」として再発刊されたといういわくつきの絵本です。
小野かおるさんの画の素朴さとモダンさ、色使いの美しさは子どもの心にきっと残りつづけることでしょう。かつて読んでもらった子どもたちがそうであったように。
また、語り口のやわらかさ、やさしさは本当に子どもにそのまま話しかけているようです。
お正月、こどもをひざに入れて読んであげたら、きっと気持ちよい幸せな時空が広がっていくことでしょう。
福音館書店から他にハードブックで「ねずみのよめいり」( 岩崎 京子・文、二俣 英五郎・画 )が出版されています。

天地創造のものがたり

池田 裕 文

ノーマン・メッセンジャー画

岩波書店

 

お正月、いつもより少しゆったりと親子でかかわる時がもてることでしょう。
あたたかいこたつに入って、また,お母様やお父様のひざのなかで、子どもは最も信頼できる人の語ることばを気持よく聴き、読んでもらう絵本の世界に安心して遊びます。

そんなひと時は,少しゆっくりめの昔話などがぴったりきます。今月の1冊はまさしく昔々のダイナミックなドラマのお話です。

世界がどうやってできたのか、という子どもが一番知りたがっているお話。
この絵本は聖書の最初の記述となっている旧約聖書の、創世記の天地創造の物語りです。

世界がまだかたちがなく、混沌としていた時に神様はまず「光あれ」といわれました。神様はそれから6日間をかけて天地を、木や草を、動物や空を飛ぶ鳥を、そして人を、すべてのものを創造されました。

この大スペクタクル物語をきくだけでもゾクゾクしてきますが、それを物語るノーマン・メッセンジャーの画が素晴らしい。

一枚づつの絵画を見ているような気持になります。子どもが眠ったあとなど、ゆっくりと鑑賞してみてください。

子うさぎましろのお話

ぶん・ささき たづ

え・みよし せきや

ポプラ社

 

クリスマスがやってきました。北の国のどうぶつの子どもたちは一番先にサンタクロースのおじいさんからおくりものをもらいました。

子うさぎの「ましろ」も、おいしいお菓子と飾りをもらいました。

お菓子を食べ終わってしまった「ましろ」はもっとおくりものが欲しくなりました。

でも、サンタクロースのプレゼントは、どの子も一回だけということを知っていましたので、「ましろ」は自分の真っ白な体に炭をぬって違ううさぎになることにしました。

朝早く、おくりものを渡し終わったサンタクロースのおじいさんが帰って来るのを待って「ましろ」は、おくりものをせがみました。サンタクロースの袋の中にはちいさな種がひとつしか残っていませんでした。

それをもらった「ましろ」は、もとの姿にもどろうとしましたが…・・・…。

 


このものがたりは、毎年アドベントの間には必ず読んでもらったりお話できいたりしているお話です。

サンタクロースのおくりものをどんなに楽しみにしているか、それは「ましろ」も子どもたちもおんなじです。そして、できればもっと欲しいと思うのも同じです。

そんな思いを汲み取ってサンタクロースはおくりものはもうないけれどといいながら、小さい種をくれるのです。

でも正攻法でもらったものではないことを心の痛みとして気づいた「ましろ」が、その種を神様にお返ししようと思い立ち、自分の体を精一杯使って土に埋めるという行為を成就します。

そして、そのことを神様はよろこんでくださり、祝福をくださるのです。

その種から育ったもみの木には毎年、クリスマスになると次々におくりものがなり、たくさんの子どもたちにプレゼントできるようになった、というストーリーは子どもたちに尽きせぬ夢と希望を、そして「ましろ」が毎年サンタクロースのおじいさんのお手伝いをすることになったという結末は信頼の絆を与えてくれるのです。

クリスマスを通して、「ましろ」が精神を成熟させ、あるべき関係を知るという大変豊かなお話です。

じゃむじゃむどんくまさん

柿本幸造 絵

蔵冨千鶴子 文

至光社

 

 いいきもちでひるねをしていたどんくまさんをじゃましたのはすずなりのりんごの木から落ちてきた、りんごの実でした。
 どんくまさんはそのりんごの木をゆすって実をおとすのに夢中。

 そこにりんごの木のもちぬしのうさぎさんがやって来て、どんくまさんはりんごはこびのお手伝いをすることに。
 うさぎさんの家につくと家中あったかいあまずっぱいにおいでいっぱい。

うさぎさんはじゃむやさんだったのです。
 どんくまさんはここでもお手伝い。
いっぱいできあがったじゃむを売りに出かけますが、さてどうなるでしょう。
 どんくまさん、失敗しないでうまく売れますかね。

 お馴染みどんくまさんシリーズの中のお話です。
 画面いっぱいに描かれたどんくまさんの姿、ダイナミックな柿本さんの絵にゆったりとしたあたたかさがあります。そして、ちょっとのんびりやのどんくまさんの繰り広げる物語りはやっぱりのんびりしていて、どんくまさんが失敗してしょんぼりしている時は一緒にどうしようと悲しくなってしまったり、どんくまさん何やってるのと背中を叩きたくなったりします。そして、読み終わった時にホッと一息ついて気持があたたかくなるのです。
 大人が読んでも癒される、そんなどんくまさんです。

かわいそうなぞう

つちや ゆきお ぶん

たけべ もといちろう え

金の星社

 

 戦争が激しくなって、上野動物園の動物たちはライオンもトラもヒョウもクマも大蛇もみんな毒を飲まされて殺されました。もしもアメリカの飛行機が爆弾を落して、動物園の柵をこわしたらこれらのこわい動物が街に飛び出し、人間を襲うかもしれないからです。

 この動物園の人気者の像、ジョン、トンキー、ワンリーの3頭も殺されることになりました。

 いろいろな方法を試みましたが、なかなかうまくいかず結局えさをやらないで殺すことになりました。

 だんだんやせほそっていく象たち。

 最後は芸当をしながら死んでいきます。

 飼育係の人は胸もはりさけそうになって叫びます。

 「戦争をやめろ」「戦争をやめてくれ」と。

 8月、敗戦記念日がやってきます。

 その戦争を体験した方たちはだんだん少なくなっていきますが、世界ではまた新しい戦争が次々に勃発しています。

 戦争は悲惨で残酷です。人間を人間でなくしてしまう恐ろしい犯罪です。

 そんな恐ろしいことを子どもに教えられません、という思いをもつ方もおられますが、理屈や正当化するに値しない戦争という出来事を、単純明快に決してやってはいけないこととして伝えていくことが教育の真の意味なのだろうと思います。

 この絵本は、子どもたちの大好きな象が戦争によってどんなつらい最後を迎えなければならなかったのかを語っています。

 何度読んでも涙がでます。そして、聴く子どもたちも心をふるわせています。

 そして、いとしい生命を大切にできる世界を創っていかなければと思うのです。

もりのなか

マリー・ホール・エッツ ぶん/え

まさき るりこ やく

福音館書店

 

「ぼく」は紙の帽子をかぶり,新しいラッパをもって森にさんぽにでかけました。
すると、森の動物が次々にぼくのさんぽについてきて長い行列ができました。
 ライオンもいます。二匹のぞうのこどもも、二匹の大きな茶色のくまも、かんがるーのおやこも、こうのとりも、それにおさるやうさぎまで。
 ぼくがふくラッパのあとについてみんなでぎょうれつをしてさんぽしたあと、おやつを食べていっぱい遊びました。
 でも、かくれんぼをしてぼくがおにになって,目をあけると、もうもりのどこにもどうぶつたちは見えませんでした。
 そのかわりに、そこにはぼくのおとうさんがいました。ぼくを迎えにきてくれたのです。ぼくはおとうさんのかたぐるまにのって、かえっていきました。

 1963年に初版本がでてからおよそ40年、この絵本は何代にもわたって読み継がれています。子どもが、その育ちの過程でのある時にしかもちえない、ファンタジーの世界に遊ぶ姿を見事に表現していています。
 森というのは絵本のなかによく出てきますが、これは心を表現しているのだと云われます。子どもは現実の生活と,空想や想像の世界を分断しないで持ち合わせることができ、それらを行ったり来たりしながら心を豊かに育んでいきます。
 この絵本のなかではそれを支えるおとうさんの存在やかかわりも重要なこととして見事に描かれています。
私はいつまでもこの「ぼく」の心の世界が分かり一緒に遊べる大人でありたいと願いつつこの本を読みます。
 1969年には「また もりへ」という続編が出ています。
これもまた、深みのある素晴らしい本だと思います。

しずくのぼうけん

マリア・テルリコフスカ さく

うちだ りさこ やく

ボフダン・ブテンコ え

福音館書店

 

 村のおばさんのばけつからびしゃんと飛び出したひとりぽっちのしずくの冒険のお話です。 

 しずくが人間の世界から抜け出して、おひさまにてらされやせていき、くろくもに吸い上げられて、また雨のしずくになって地面に逆戻り。

 岩の割れ目に落ちたしずくはがちがちに凍り、岩をこなごなに砕いていばっていたら、おひさまに照らされてまたしずくは水にもどり、こんとは小川から大きな川に流れて、やがてグングン強い力に吸い込まれ、ひっこり顔を出したのは台所の蛇口。

 洗濯ものと一緒に干されてまた、蒸気になって外に出たしずくは仲間と一緒になって、大きな大きなつららになった。

「はるがくれば つららがとけて しずくはげんきにとびだすだろう
  それからきっともういちど  ぼうけんのたびにでるだろう」

 雨の日、子どもがじっとそして、いつまでも雨を見上げていることがあります。

 たくさんの雨のしずくのなかの、たったひとつのしずくの冒険を心に思い描いて自分も一緒に冒険をしているのかもしれません。

 身近にある水のしずくが、壮大な冒険の旅をするというこのお話は、そんな子どもたちの夢を一層リアルに誘ってくれます。

 大きな自然の営みを身近な生活に引き寄せて楽しくものがたっているので、興味をひきつけられているうちに、水道から出てくる水に親近感をもったり、どうやって水が出てくるのかという子どもがもつ素朴な不思議に対する納得がしらずしらずのうちにできたりもいたします。

 うちだりさこさんの訳もリズムがあって、読んでもらうのが楽しい絵本。

 雨の日にお子さんとご一緒にいかがですか。

ぐるんぱのようちえん

西内みなみ さく

堀内誠一 え

福音館書店

 

 ずっとひとりぼっちでくらしてきた、さびしがりやの象のぐるんぱは、大きくなって働きにでることになりました。
 いちばん初めに行ったのは、びすけっとやのびーさんのところ。ぐるんぱははりきって大きな大きな特大びすけっとを作りました。でもあまり大きくて高いのでだれも買ってくれません。びーさんは「もうけっこう」といいました。
 次に行ったのは、お皿つくりのさーさんのところ。ここでもぐるんぱは特別はりきって大きなお皿を作りました。でも大きすぎて、さーさんに「もうけっこう」といわれてしまいました。くつやのくーさんにも、びあの工場のぴーさんにも、自動車工場のじーさんのところでも、「もうけっこう」といわれてしまいました。ぐるんぱが作ったものをみんな持ってしょんぼりいくと、こどもを12人いるおかあさんに声をかけられました。
「こどもと遊んでやってくださいな。」
ぐるんぱは大喜びで幼稚園をひらきました。ぐるんぱはもうさみしくなんかありませんでしたって。

 子どもたちが大好きな絵本です。
ぐるんぱがはりきって、特別大きなものを次々に作るのもおもしろい、特に大きなびすけっとを作った時は、わくわくしてしまいます。おいしそうだな、みんなでおなかいっぱい食べてもまだ残りそう。
 そして、みんなから「もうけっこう」といわれたさびしがりやのぐるんぱがしょんぼりでていくところでは、ほんとうに悲しくてしよんぼりしてしまいます。
 でも子どもたちがこのものがたりで一番楽しくうれしいのは、そのしょんぼりしていたぐるんぱが、大勢の子どもたちと楽しそうに遊んでいるところ。
 心から「ぐるんぱ、よかったね」といいたくなります。

はじめてのおるすばん

しみず みちを・作

山本まつ子・絵

岩崎書店

 

みっつになるみほちゃんは初めておるすばんをすることになりました。ママがいなくなると部屋の中が急にシーンとして「ママ、早くかえってきて」と、思い始めた時、「ぴん・ぽーん」どんどんどん。「こづつみでーす」とゆうびんやさん。「こづつみいりましぇん」。

郵便やさんが帰ったと思ったら今度は新聞屋さんが訪ねてきました。こわくて泣き出しそうになったその時、「み・ほ・ちゃーん」とチャイムがなってママが帰って来ました。

「ママだっ」みほちゃんは玄関にむかってかけだしていきました。

生まれて初めて一人きりになる、ということがどんなことなのかを今年みっつになるみほちゃんのお留守番をとおして豊かに表現されています。子どもにとっていつも一緒にいるおかあさんがいなくなるということは何から何まで不安なことばかりです。お母さんがいてくれればうれしいはずのお客様もこわいこわい存在になってしまうのです。

短い時間もとても長く感じられ、まるでこの状態が永遠に続くかのように心細くなります。お母さんがいないと自分が自分でないような不安の海に投げ出されてしまうのです。

入園当初、お母さんと離された子が泣き叫んだり、暴れたりしてその小さい体いっぱいで不安を訴えますが、まさにこの状態なのだと思います。

そんな子どもの当たり前の心情を、そのまま受け止める保育者でありたいなと思います。

子どもにとってお母さんの存在はすべてなのてす。

今、ひとりきりになっても、お母さんと離れても、そして子どもをひとりにしても何の抵抗も感情もない親子が多いのではないかと気がかりになります。

ペレのあたらしいふく

エルサ・べスコフ さく・え

おのでら ゆりこ やく

福音館書店

 

「ペレはこひつじを1ぴきもっていました。そのこひつじを、ペレはじぶんでせわし、じぶんだけのものにしていました。
こひつじはそだち、ペレもやおおきくなりました。こひつじのけは、それはそれはながくなりましたが、ペレのうわぎは、みじかくなるばかりでした。」
そこでペレはひつじの毛を刈り、そのかりとった毛をもっておばあちゃんのところにいってすいてくれるように頼むと、にんじんばたけの草とりの仕事と交換にペレの毛をすいてくれました。それからペレはもうひとりのおばあちゃんにそれをつむいでもらい、ペンキやさんに染め粉をもらって染め、おかあさんに織ってもらい、したてやさんに服にしてもらいます。それぞれ仕事と交換で。
日曜の朝、ペレはあたらしい服を着て、こひつじに「あたらしいふくをありがとう」とみせにいきます。

 

エルサ・べスコフが1910年、自分の子どものために書いたといわれている絵本です。美しい絵には細部にわたって生活観がみちあふれ、ペレを取り囲む人々との豊かな交わりが臨場感あふれて描かれています。
こどもが大きくなる、成長するということは「ものごとがわかっていく」ということであると思います。
ペレは自分の着る服を自分の出来る限りの努力をしながら自分で作っていくのですが、そのなかで社会を知り、人との距離感をつかみ、感謝をし、労働の意味を知っていきます。
また、まわりの人々はそのペレの成長にふさわしい手助けをしていくのです。
子どもたちが大きくはばたこうとしているこの時、大人も子どもも読んでみたい絵本です。

おばあさんのすぷーん


神沢利子 さく

富山妙子 え

福音館書店

 

おばあさんの大切なスプーン、ぴかぴか光ったそのスプーンがある日カラスにつかまれて木の上の巣の中に。

季節が変わりスプーンは大風に吹き飛ばされて雪の上。

3びきのねずみに見つけられ不思議、不思議と遊ばれるうちにスプーンはねずみを乗せて雪の上を滑り出す。

スプーンのそりは滑りすべって走っていきおばあさんのいえに飛び込んだ。

 

 

ことばにリズムがあって読んでいるうちに楽しくなってきます。
とくに3びきのねずみを乗せそりになって山を滑り降りるところなどは本当に自分も滑っているような感じになります。
そして着いたところがおばあさんの家。
冒険してきたスプーンが大好きなおばあさんのところに戻ってきたという安堵感でうれしくなります。
ねずみとおばあさんの笑い声が聞こえてくるようなそしてそのなかに自分もいて一緒になって笑っているようなそんなほのぼのとしたあたたかさが感じられる絵本です。

ねずみのすもう

大川悦生・作

梅田俊作・絵

ポプラ社

 

ある日おじいさんが山にいってみると、ふとったねずみとやせたねずみがすもうをとっています。
何回やってもやせたねずみは放り投げられて負けてしまいます。
やせたねずみが住んでいる貧しい家のおじいさんとおばあさんはそれを見てかわいそうに思い、おもちをついてねずみに食べさせます。
やせたねずみはだんだん力がついてきて、ふとったねずみに互角に戦えるようになります。
不思議に思ったふとったねずみがその理由を聞いて、自分もそのおもちが食べたいとせがみます。
長者の家にいたふとったねずみは、黄金をおみやげにやせたねずみのところへやってきます。仲良くおもちを食べた二匹のねずみは、また力いっぱいすもうを始めました。

お正月にゆっくりと昔話をするように読んであげたい絵本です。昔話には体温があります。ほのぼのとした世界の中に、競う楽しさ、分かちあう喜び、ユーモラスな仲間意識が見え、また、そのねずみたちを見守るおじいさんおばあさんという大きな慈しみのまなざし、そんなものが子どもの世界とフィットして、心温まる時空をつくり出します。 

クリスマスのものがたり

フェリクス・ホフマン さく

しょうの こうきち やく

福音館書店

 

2000年前におこった最初のクリスマスの出来事がホフマンの素敵な絵と聖書の記述に基づく語りで解き明かしていく絵本です。

クリスマスの楽しい物語、たとえばサンタクロースのお話や森の動物たちのクリスマス、プレゼントをもらったり贈ったりというようなお話もたくさんありますが、本当のクリスマスって何なんだろうという疑問をもっている方にはぜひ読んでいただきたい絵本です。

小さい子どもには少しむずかしいかなと思われるかもしれませんが、ゆったりと読んであげてください、きっと不思議の世界に入って行くようにききいることでしょう。

ことばと絵はふたつでひとつ。両方が一体となっていつもとは違う世界に誘ってくれるでしょう。

ぐりとぐらのおきゃくさま

 

なかがわりえこ


やまわきゆりこ

福音館書店

 

のねずみのぐりとぐらが、もりのなかでおおきなあしあとをみつけました。

あとをたどっていくと、どこかでみたことのあるおうちにつきました。

なかにはいったぐりとぐらがみたものは・・・・・・・・・・。

こどもが大好きなぐりとぐらシリーズのなかでも、この「ぐりとぐらのおきゃくさま」はクリスマスにふさわしいストーリーが描かれています。
こどもに空想とやさしい夢を広げる一冊です。

かにむかし

木下順二 文

清水 崑 絵

岩波書店

 

「さるかに合戦」といえばだれでも知っている昔話です。

この本はそのお話を再話した絵本です。

昔話は本来繰り返し口伝えで語られてきたものです。

そして聴いた者が語る者になり代々語り継がれていったものです。

ですから代々の語りのなかで物語が削がれていったり、違う話が入ったりいろいろに変化しながら個性的に受け継がれてきています。

この「かにむかし」の原話は佐渡の民話だそうですが、かなり昔から親しまれて語り継がれ、また木下氏らの努力などにより今では普遍性をもった昔話としてごく一般的に親しまれています。

この絵本の語り口のおおらかさ、ゆったりとした絵の奥深さはまさにひざのなかで昔話を聴いているような安らかさと想像力を与えてくれます。

秋の夜長、子どもと一緒にゆっくりと読んでみたい絵本です。

おおきなおおきなおいも

赤羽末吉 さく・え

福音館書店

 

あおぞらようちえんのおいもほり。
子どもたちがあんなに楽しみにしていたのに雨。「雨がふってはしかたありませんね。1週間のばしましょう」という先生のことばに「あ~あ」と残念がる子どもたち。

でも「だいじょうぶ。おいもはひとつねるとむくっとおおきくなって、2つねるとむくむくっとおおきくなって、3つ、4つ5つ6つ7つねるといっぱいおおきくなってまっていてくれるよ」という先生ことばに子どもたちの想像は限りなく広がっていって…。  

実際にあった保育の記録を赤羽さんが絵本にしました。

子どもたちの姿が無駄のない線描きで描かれ、全体を子どものリズミカルなことばで覆っています。

1回読んでもらった子はそのリズムのとりこになってしまって、何回も読んでとせがむでしょう。

そして、すぐにことばをうたのように空でおぼえてしまって、生活のなかでふっと口をついて出てきたりすることでしょう。

おいもという子どもにとって親しみやすい題材が、宇宙規模の空想の世界に誘ってくれるその展開は世代を超えて魅力的です。

子どもの楽しい空想と心情にじっくりと付き合い、その活動を支えている保育者に敬意を表します。

ガンピーさんのドライブ


ジョン・バーニンガム さく
みつよし なつや やく
ほるぷ出版

 

ガンピーさんはじどうしゃに乗ってドライブにでかけます。

「いっしょにいっていい?」とこどもたちがいいました。

うさぎとねこといぬとぶたとひつじとにわとりとこうしとやぎもいいました。

ぎゅうぎゅうづめでごきげんでドライブ。

でもとちゅうで大雨になりました。

みちがぬかってタイヤがからまわりを始めました。

ガンピーさん「だれかがおりてくるまをおさなくちゃあなるまいよ」といいますが、さぁみんなはどうするでしょうか。

ジョン・バーニンガムのガンピーさんシリーズです。

ほのぼのとした絵と物語は読む者にほんわかとしたいい気持ちにさせてくれます。

それぞれ個性のある動物たちがみんなその持ち味と力を出し合って危機を乗り切っていくという物語ですが、それがじつにユーモラスに描かれていて肩に力が入りすぎず、しかしだれもが楽しい思いを共有していくというストーリーには、思わずファンになってしまうのです。

ぐりとぐらのかいすいよく

なかがわりえこ と やまわきゆりこ

福音館書店

のねずみのぐりとぐらがなみうちぎわであそんでいると、びんが流れ着きました。

中には てがみ と ちず と うきぶくろが入っています。てがみには「しんせつなともだちへ しんじゅとうだいへきてください。うみぼうずより」と書かれていました。

ぐりとぐらは地図をみながらしんじゅとうだいにむけて出発することにしました。

しんじゅとうだいにはしんじゅのランプをみがくのがしごとのうみぼうずがぐりとぐらの到着を待っていました。

うみぼうずは2人に大事なしんじゅをあなにおとしてしまったことを話しました。

それをきいたぐりとぐらは早速うすぐらい岩穴の奥に入っていき落し物の見事なしんじゅを運び出しました。

おおよろこびのうみぼうずは、二人にお礼をしたいといいました。

さて、ぐりとぐらはなにをお礼にもらったと思いますか。


おなじみのぐりとぐらのお話です。

広い海と小さなのねずみ、大きなうみぼうずと小さな真珠灯台、の不思議なコントラスト。

波に乗って泳ぎ回るうみぼうずとぐりぐらの楽しい泳ぎ、うみぼうずとぐりぐらの小気味いいかけあいと友情、などが躍動的なリズムで描かれていてぐいぐいと話のなかに引き込まれていきます。
そして、自分もぐりとぐらと一緒にドキドキしながら冒険をしたり、広い海で気持ちよく波に寝そべったり名人のように泳げるようになったような気持ちにさせてくれるのです。

夏の日にふさわしい1冊です。

おじさんのかさ

おはなし・え さのようこ

銀河社

 

りっぱな黒いかさをもったおじさんは、そのかさが大事で大事で一度も開いて使ったことがありません。

どんなに雨がふってもかさがぬれるからといってはきちんと巻いたまま自分がぬれて歩きます。

ところがある雨の日、子どもが二人かさをさして「あめがふったらポンポロロン、あめがふったらピッチャンチャン」と歌っているのを聞いて、そのあまりのたのしそうなようすに自分もかさを開いて確かめてみようとします。

雨の中、ついにかさを開いたおじさんが耳にしたものは?

自分の大切にしているものはつい抱え込んで自分だけのものにしておきたいと思うのは大人も子どもも同じですが、自分の腕のなかに抱え込んでいるだけでは世界が広がっていかないことが多くあります。

また、それ以上の喜びがあるということもみえなくなってしまうことがあります。

「もの」がただのものではなく「自分にとって意味のあるもの」になったときその「もの」がいきいきと生命をふきかえし、生きたものとなって自分の世界をふくらませ新しい視点を与えてくれるようになるのではないでしょうか。

ぐりとぐらのえんそく

なかがわりえこ と やまわきゆりこ

福音館書店

 

ぐりとぐらがリュックサックをしょってすいとうをさげてえんそくにでかけます。

えんそくのたのしみはリュックのなかのおべんとう。

でもまだまだおひるには時間があります。

そこでふたりはのはらでたいそうをしたりマラソンをはじめました。

ところがなにかにつまづいて、よくみるとそれはけいと。

ふたりがそのけいとをたどっていくと……。



こどもたちのだいすきなぐりとぐらがえんそくにでかけてまたまた、ふしぎなものをみつけます。
それがいったいなんなのか、ぐりとぐらといっしょに探検する気分がもりあがっていき、そして、さいごに あぁよかった うれしいね とまんぞくしたおもいになれるたのしい絵本です。

とんことり

筒井頼子 さく

林 明子 え

福音館書店

 

山の見える町にひっこしてきた<かなえ>が引越しの荷物の整理をしていると、玄関で小さな音がしました。
玄関に急いでいってみると、郵便受けの下にすみれの花束がおちていました。
ドアを開けて見ましたがだれもいません。
次の日もまた音がして、こんどはたんぽぽが郵便受けにはさんでありました。
誰が届けてくれたんだろう。
次の日、とんことりとまたあの音がしてとんでいってみると、郵便受けに手紙がとどいていました。
わたしにきた手紙だ。
でもだれなんだろう。
そして、またとんことりと音がした時、<かなえ>は大きな声で「待って!」と叫んで外に飛び出しました。
<かなえ>はとんことりの主に会えたでしょうか。

知らない土地に引っ越してきた不安、お友だちのいない寂しさ、心細さ、そしてそんな子どもが、届く素敵なプレゼントに次第に心を開き期待をふくらませていく姿がスリル感とあいまって見事に伝わってきます。
子どもが友だちを得ていく過程を丁寧に描いていて子どもの心を忘れかけている大人にもなんとなくなつかしく、そして新鮮さをもって共感できる絵本です。

はなをくんくん

ルース・クラウス ぶん  マーク・シーモント え
きじま はじめ やく

福音館書店

 

雪の積もった寒い冬、
森の動物たちはその長い冬の間を
それぞれのすあなで眠っています。
みんなみんな眠っています。
おや、みんな目をさましましたよ。
みんなみんな目をさました。
みんな、はなをくんくん。
くんくん、 くんくん。
そして、かけだす、かけだす。
みんなかけてく。
動物たちが集まった。
みんな「うわぁい!」
さぁ動物たちの見たものは?

長い長い冬の間、
じっと息をひそませていた動物たちが、
ささやかな春の香りをかぎとって
喜び勇んで駆け出していきます。
春を待つ思い、春の訪れのよろこばしさが
私たちの心と一緒になって
うれしくなってくるお話です。

しんせつなともだち

方 軼羣 作

君島 久子 訳

村山 知義 画

福音館書店


ゆきがたくさんふって、野も山もすっかり冬になりました。
こうさぎは食べものをさがしにでかけて雪のなかにかぶを2つみつけました。

こうさぎはかぶを1つだけ食べるともう1つのかぶをもってろばの家にでかけました。

ろばは、るすでした。

こうさぎはそのかぶをそっとおいて帰りました。

家に帰ったろばは、かぶをみつけました。

さて、ろばはそのかぶをどうするのでしょう。かぶはどうなっていくでしょう。

このかぶをめぐっていろいろな動物がおはなしを展開していきます。

動物たちのほかを思いやるやさしさが、寒さのなかにほっと暖かいものを感じさせてくれます。

てぶくろ

ウクライナ民話


エウゲーニー・M・ラチョフ 絵

うちだ りさこ 訳

 

森に落ちていた手袋にネズミが住み込んで、カエルやうさぎもやってきてもう手袋は、はじけそう。

小さい動物から大きい動物まで次々にやってきてかけ合いをしながら一緒にくらし始めます。

こどもの好きなくりかえしと、リズミカルなことばのかけ合い、そして最後のどんでん返しのスリル。

昔から語り継がれてきた民話性と絵の個性がたくさんのファンを魅了するベストセラーです。