ごきげんならいおん
ルイーズ・ファティオ ぶん
ロジャー・ディボアザン え
むらおか はなこ やく
福音館書店
美しいフランスの街の公園の真中に動物園がありました。
動物園には、堀をめぐらし大きな岩山のある家をもったごきげんならいおんが住んでいました。
毎日、らいおんはたくさんの人たちとご機嫌で挨拶を交わします。
町の音楽隊が演奏する音楽も大好きでじっと目をつむってききます。
町の人たちはみんならいおんと仲良しで「こんにちは」といっては肉やご馳走をくれるのでした。
ところが、ある朝、らいおんは自分の家の戸があいているのを見つけました。
いつもはみんなが自分のところに来てくれるからこの機会に今度は自分の方から出かけて行って町の人たちに会いに行こう、とらいおんは考えました。
動物園から町に出たらいおんは丁度いつも挨拶をするデュポン校長先生に出会いました。
ところがらいおんが「こんにちは」と声をかけると、デュポン先生はそのまま倒れてしまいました。
いつも動物園に来る3人のおばさんも、八百屋のパンソンおばさんも叫びながら逃げていきました。
にぎやかな楽隊もこちらにやってきましたが、らいおんが挨拶をする間もなく、みんな大騒ぎで逃げていってしまい、通りにはだれもいなくなりました。
その時突然大きなサイレンの音とともに消防車がとびだしてきました。
消防士たちが恐る恐るホースをもってらいおんに近づいて、近づいて・・・。
その時、らいおんのすぐ後ろで「やあ、ごきげんならいおんくん」という声がしました。
子どもの仲良しフランソワでした。
らいおんはごきげん。
だって逃げ出さないで挨拶をしてくれる友達に出会えたのですから。
「公園まで一緒に帰ろうよ」とフランソワはいいました。
それでらいおんは一緒に帰ることにしました。
高い窓から見ていた町の人たちはやっと「さよなら、ご機嫌ならいおんくん」と大きな声で挨拶をしました。
さて自分の家に帰ったらいおんは、それからはもう決して自分から友達に会いに行こうとは思いませんでしたって。
*この絵本は55年前に描かれた絵本です。
そして日本に紹介されてから45年になります。何回も版を重ね、たくさんの子どもたちの支持を得て、未だに色あせることなく読み継がれている本です。
彩色も絵も実にシンプルでありますが、ライオンや登場人物の表情が実に豊かでユーモアに満ち、その絵によってすべてがわかるといった手確い表現がされていて、想像力と共に雰囲気までふくらませてくれます。
お話も最後は「ああ よかった」と心があたたかくなるようなストーリーですが、そのお話を読んでいると実に様々な気づきや思いが去来します。
私たちはどんなこわいものや恐ろしいことも、自分に危害が絶対に及ばないという安全圏に身を置いているときには、それを許容したり、ご機嫌に関わることができますが、一旦その間にある柵がこわされ自分の生活の領分に踏み込まれた途端に、今までの関わりを反故にしてそれを排除しようとします。
その間にある柵は、大人になればなるほど強固で分厚いものになるようです。
ある意味、私たちの他の人や物との関わりはその安全柵のバランスのなかで成立しているようにも思えます。
しかし子どもは、その柵がない、あってもとても薄いものなのではないかと思わされます。
柵があろうがなかろうが、その本質ですべてを判断するようなところがあります。
この本でいえば、毎日挨拶を交わすライオンとの信頼感がフランソワくんのなかの一番大切な本質ではないかと思うのです。
そして、「公園まで一緒に帰ろうよ」というフランソワくんの「一緒に」の言葉にとても大きい意味を感じるのです。
自分と一緒に、ということは自分のすべてにあなたを受け入れるということです。
子どもにはそれができるのですね。
「子ども」を忘れている自分にさまざまなことを気づかせ、自分に対して「皮肉」さえ感じる意味の深い本だと思います。