おおきな木


シェル・シルヴァスタイン 作 絵
ほんだ きんいちろう 訳
篠崎書林

 

りんごの木とちびっこは大の仲良し。毎日一緒に遊んだ。木もちびっこも幸せだった。
けれど、ちびっこは少しおとなになりりんごの木はひとりぼっちの時が多くなった。
ところがある時、その子がやってきて「買い物をしたいからお金が欲しい」といった。
木は「私にあるのは葉っぱとりんごだけ。りんごをもいで町で売ったらどうだろう。そうすれば楽しくやれるよ」
そこでその子は木によじ登り、りんごをもぎとってみんな持っていってしまった。
木はそれでうれしかった。
それから長い時がたち、その子がまたやってきていった。
「あたたかい家が欲しい。」
木が言った。「私の枝を切り、家をたてることはできるはず」
そこで男は枝を切りはらい、自分の家を建てるためみんな持っていってしまった。
木はそれでうれしかった。
また、長い時が流れて、ひょっこり男が帰って来ていった。
「年はとるし、悲しいことばかり。船にのって遠くに行きたい。船をくれるかい」
「わたしの幹を切り倒し船をお作り」と木はいった。
そこで男は木の幹を切り倒し船を作って行ってしまった。
木はそれでうれしかった。
長い年月が過ぎ去って男がまた帰ってきた。
木は「すまないねぇ。何かあげられたらいいんだが。わたしには何もない。今のわたしはただの古ぼけた切り株だから」といった。
すると今やよぼよぼになった男は「わしは今すわって休む静かな場所がありさえすればいい。」それなら、と木は精一杯背筋をのばし「この古ぼけた切り株が腰掛けて休むのに一番いい。さあぼうや、こしかけて休みなさい」男はそれに従った。
木はそれでうれしかった。


☆この絵本はアメリカのシンガーソングライターでもあり、マンガ家でもあり、イラストレーターでもあるシェル・シルヴァスタインが、1964年に書いた児童書です。
シンプルな輪郭だけの絵に、余白も含めて「すべてのもの」が描かれ語りかけてくるこの表現は彼の感性と芸術性それに思想性を余すところなく読み手に伝え、ただごとならぬものを感じさせます。
このものがたりから読み手の立場や年齢などによって読み取るものは違うかもしれませんが、訳者の本田錦一郎は“「愛とは第一に与えることであって受けることではない」というエーリッヒ・フロムの思想が中心を貫いている”といいます。
“「与える」ことは人間の最高の表現なのであり「与える」という行為においてこそ人は自分の生命の力や富や喜びを経験することになる”というこの思想を、シェルは一本のりんごの木が一人のともだちに自分の肉体をけずって、木の葉を与え、果実を与え、枝を与え、幹を与え、すべてをささげるという行為で表現しています。
そしてそれが自己犠牲ではなく、喜びなのだといっています。
この木の存在は時に子どものために自分の体をけずり、すべてを与えようとする母性に似ています。親は子どものためにこれと同じような思いと行為をすることが可能です。
そう思うと、このものがたりは親と子の人生の姿を見せてくれているような気もしてきます。親は子どもが自由に外の世界で幸せに生きることを願い、自分のさびしさに耐えながら待ちます。自分の都合のいい時だけ戻ってくる子どもをも受け入れ、自分の精一杯できることをして子どもの思いを叶えてやりそれが喜びになります。
すべてを与え尽くしても、まだ子どものために何ができるかを考えます。
私も親として、ここまでできるかどうかは自信ありませんが心情的にはわかるような気がします。
同時に、自分が子どもだった時、確かにこうして親に愛されたということを思い出すのです。もう両親共にこの世にはおりませんが、最後の命の輝きさえも私に与えて逝ったような気がするのです。
そして、人生の節々、自分の都合のいいように、親に無理難題をふっかけて苦労させたな
と心苦しく思うのです。
でも、この本で、「木はそれでうれしかった」ということばに何回も出会い救われる思いももらいました。
人生のなかでこんな木の存在がどの人にもあってほしいと思います。
港から航海に出て長い間波にもまれ、ぼろぼろになった船が、時を経てまた港に戻り、ドックで傷を癒し気力を再び得て航海に出発するように、“もどれる場所”“ぼろぼろになった自分をさらけ出せる場所”“受け入れてもらってまた出発できる場所”は人が生きていく時に絶対に必要なのだと思います。
この本は世界30カ国語に訳され、たくさんの人たちに感動を与えてきました。(こんなに人気がでたのを一番驚いたのが作者自身だったとか)
今、残念ながらこの訳本は絶版となっています。他の人(村上春樹さん)の訳で販売していますが、図書館にはこの本田訳の本がまだあるはずですので、どうぞご一読なさってみてください。

2020年08月31日