三びきのやぎのがらがらどん その2
北欧民話
マーシャ・ブラウン 絵
せた ていじ 訳
福音館書店
むかし、3びきのやぎがいました。
名前はどれも「がらがらどん」といいました。
ある時山の草葉で太ろうと山を登っていきました。
上る途中の谷川に橋があってそこを渡らなければなりません。
でも橋の下にはこわいトロルがいて渡るものはみんな食べてしまうのです。
3びきは相談しました。
まず小さいやぎが橋を渡りにやってきました。
トロルが「きさまをひとのみにしてやる!」というと
「まって。もうすぐ僕より大きなやぎがやってくるよ」といって見逃してもらいます。
次にやってきた2番目やぎも、「ぼくよりずっと大きいやぎがやってくる」といって橋を渡ってしまいます。
そして、最後にやってきたのが大きいやぎのがらがらどん。
トロルにとびかかるとこっぱみじんにして谷川に突き落としてしまいました。
それから山に登っていって、歩いて帰るのもやっとになるくらいおいしい草をいっぱい食べました。
* ちいさいやぎと2番目やぎと大きいやぎのがらがらどんが、おいしい草を食べようと山にのぼっていくお話。
のぼる途中の谷川に橋があってそこを渡らなければなりません。
橋の下にはきみの悪いトロルがすんでいて、橋を渡るものをみんな食べてしまいます。
やぎたちは知恵と力を合わせて見事トロルをやっつけて山にのぼっていきました。
というあらすじの絵本です。
1月のこの欄にもこの「三びきのやぎのがらがらどん」を選んでご紹介しました。
そこで2月は「その2」として書かせていただきます。
1月は、親から子へと語り継がれる物語の大切さについてお話しいたしました。
その文のなかで
「物語の内容も、深読みすればとてつもなく哲学的で、人の生きる過程を実に深く洞察し示唆しているものだと思う」
と書いたのですが、何人かの方にその哲学的、洞察、示唆とは何か、というご質問を受けました。
そこで今月は、少しそのことについて書いてみたいと思います。
私がこの絵本にであったのはもう40年も前のこと。
地味ながら、一度見たら忘れられない絵と繰り返しの物語のおもしろさ、それに滑りの良いリズミカルなことばに魅力を感じて、何度も何度も読みました。
どんな時でも、子どもたちがこの絵本には集中して、食い入るように絵を見、言葉を食べているように感じられたのも魅力でした。
でもそのうちに、何故このやぎたちは、小さいやぎから橋を渡ったんだろう、という疑問が芽生えました。
だって一番はじめから大きいやぎのがらがらどんが橋を渡れば、トロルを簡単にやっつけて他のやぎは危険を冒さず楽々と山にのぼっていけるのに、と不思議に思ったのです。
しばらくして、ふとひらめいたのです。
この三匹のがらがらどんは、三匹ではなく一匹のやぎのことではないか、と。
確かに「なまえはどれもがらがらどんといいました」といっています。
「がらがらどん君という一匹のやぎが小さい乳幼児期を経て、少年期になりそして青年期を迎えて自立に向かうという話。」と考えた時、私は思わず「納得!」したのです。
じゃあ、トロルって何?と思い巡らせると・・・・・
子どもが大きくなっていくときにその行く手を阻むもの、そして大きくなっていく時にそこを乗り越えなければならないもの、とは。
それは、息子に対しての父親だ、と。
一番小さいやぎのがらがらどんは、大きなこわいトロルに出会い食べられそうになると、「自分はこんなに小さいんだよ」と小さいことを武器にして許されます。
二番目やぎは「小さいんだ」とはいうものの自分ではあまり小さいことに納得していません。もっともっと大きくなれるんだぞという闘志がむんむんです。
でもそんな生意気をトロルは軽くあしらって追っ払います。
そして、瞬く間に大きく成長した大きなやぎは、今まで蓄えてきた武器を総動員してトロルに挑戦し、木っ端微塵にしてしまいます。
大きいやぎにやっつけられたトロルは何だかとても無力で小さく感じられます。
子どもは、親の庇護のなかで大きくなっていきますが、やがて来るべき時、その親を乗り越えなければ本当の自立は果たせません。
そんな時、乗り越えられた親は複雑ではありますが、子どもも意気揚々だけではなくどこかにさびしさも伴うものです。
子どもが自立する時、それはいつの世も、親も子も痛みと喜びが付きまといます。
でも子どもがトロルを木っ端微塵にしてやっつけて、希望に満ちた山に向かって登っていくことを、親は覚悟しながら成し遂げさせなければならないのだと思います。
絵本を自己流に深読みすることは邪道かもしれません。
しかし、北欧の地域に昔から親から子へと語り継がれてきたお話のなかで、人が人になっていくということはこういうことなのだよということを、代々「ことば」で伝えてきたのではないかと感じるのです。
そう感じた時、この「三びきのやぎのがらがらどん」がまた違う感覚で受け止められたのです。