いちごつみ


神沢 利子 ぶん

平山 英三 え

童心社

 

小さな女の子が、山に苺摘みにいきました。
おかあさんにジャムを作ってもらうのです。
夢中で苺を摘んでいると、後ろから誰かがやってきました。
女の子はともだちのさぶちゃんかと思いました。
でもどんなに話しかけても返事がありません。
「ウーフ、ウーフ」というだけです。まるでくまみたいに。
女の子は葉っぱのかげにあった立派な苺を摘んで、さぶちゃんに渡そうとして振り向くと、そこにはさぶちゃんではなくて、大きなくまがいたのです。
「あら、さぶちゃんでなくたっていいわ。この苺食べてごらんなさい。」といって苺を渡そうとしてびっくり。だってくまの手の大きいことといったら。
そこで女の子は思いつきました。こんなに大きな力持ちの手だったら、風でこわれたお家の屋根をきっと直してくれるに違いないとね。
くまもok!
女の子はくまのふかふかした背中に乗って、山をかけおります。
お家につくと、くまは早速仕事にかかりました。
屋根を持ち上げ、折れた柱を引っこ抜き、新しい柱を立てました。
そして、もう一度、屋根をおくと出来上がり。
おかあさんも女の子も大喜びでくまにごちそうをしました。
そして、女の子の赤い帽子とおかあさんのエプロンをプレゼントしました。
「また、きてね。」
大きなくまはうれしそうに山に帰っていきました。


このおはなしは、不思議な幸福感に満たされて読み終わります。
それは、お話の全体を包むやさしさのなかに、神様がお創りくださった被造物として何のわけへだてのない同じ仲間として自然や生物を見る作者の視線を感じるからなのかもしれません。
子どもはもともと、大人が持っている枠組みにはとらわれない自由な感覚をもっています。
くまはこわいという概念もないし、人間のお友達のさぶちゃんと同じ感覚で他の生物をみることができます。
ことばが通じなくっても、丸ごと受け入れていく大きさ、ゆるさ、が備わっています。
 近年、山のくまが、人間の住む里によく出没してきて、食べ物を荒らしたり、人に危害を加えたり、あるいは山に山菜を採りに入った人を襲ったりという被害が増えてきました。
人間は自分たちの社会や生活、生命を守らなければならないと必死になってくまを排除しようとします。山のくまたちも自然の変化のなかで生命にかかわるさまざまな事情が緊急を要していて、人間の領域にでてこざるを得ないのでしょう。そして、その事情の多くは、人間の都合によって、生活の場を犯されていることが起因しています。
くまが人間を襲ったために、捕獲されたり、射殺されたりするニュースを見たり聞いたりするたびに、この絵本のお話を思い起こします。
このお話のなかで、女の子が「でも、このやまのくまは、とてもやさしいくまだって、おかあさんが いってたわ。」というくだりがあります。
また、女の子がくまをお家につれていった時、それを自然に受け入れていたおかあさんの姿が描かれています。
この女の子の心の自由さはこのおかあさんからの贈り物に違いありません。
今、山の動物たちと仲良くしなさいといえるような環境や状態ではありませんが、この絵本のお話のような世界が現実化したらどんなに楽しいだろうと思ってしまうのです。
少なくとも、心にさまざまな既成概念という名の垣根を張り巡らせて、他者を受け入れず、自分もそこから一歩も外に出て行こうとしないような子どもには育てたくないと思います。

2021年02月01日